あたしをみつけて





 あー……。

 隣のクラスの友達に英語の教科書を借りて戻ってくると、山田君が私の椅子に座っていた。大きな声で数人の男子と談笑している。
 山田君は制服を派手に着こなし声も大きい、若干粗暴な振る舞いが目立つ男子だ。対して私はそういう男子に『ちょっと山田邪魔ー!』と気軽に声をかけられるような明るく溌剌とした女子ではない。だからいつまでもこうしてうじうじ縮こまっている。
 ……みっちゃんとこに喋りに行くか。勇気を出して『どいて』と言うか、友達のところで時間潰すか。私は後者を選んだ。塾の宿題したかったけど仕方ない。また次の休み時間にやろう。まぁまだ時間あるし、ね。自分の心に少々強引に折り合いをつけてから、友達の元に向かうべく足を動かそうとしたら。

「山田ー、苗字戻ってきてる」

 平坦な声で、私の名が上げられた。

 突然私の名前が出たことに驚いて、足が止まる。ぎこちなく首を動かし、声の先を辿っていくと、虎杖君がジャンプを読んでいた。

「……え? あー……」

 山田君は不可解そうに右眉を上げてから、今度は鬱陶しそうに八の字に寄せ、私に焦点を合わせた。苛立ちの籠もった眼差しに気後れし、反射的に「あ、ご、ごめんね」と愛想笑いを浮かべる。なんで謝ってんだろと思わなくもないけど、山田君の刺々しい視線からとにかく逃れたかった。

「山田。そこ苗字の席だろ」

 けど虎杖君は山田君の刺々しい空気を意に介さず、飄々と続けた。今度はジャンプから視線を上げて、山田君を混じり気のない瞳で見据えている。

「あー。わかったよ」
「うん。なぁ山田、俺ハンターどこまで読んだっけ。オマエから借りたよな?」
「は? 知らねぇし」
「ゴンがゴンさんなったトコは覚えてんだけど」
「それ結構前じゃね」

 不貞腐れていた山田君の口振りは徐々にいつもの調子に戻っていった。もしも虎杖君に山田君の言動を窘めたり責める色合いがあれば、彼はいつまでも不貞腐れたままだっただろう。けど虎杖君は『空って青いよな』と言わんばかりの事実をなぞるだけの口振りで席の主をただ告げただけだった。

 ……虎杖君、すご。

 虎杖君のコミュ力の高さに脱帽する。私の見立てでは彼はこれを計算ではなく、地でやっている。すごい。すごすぎる。
 自分の席に腰を下ろして塾のテキストを取り出しながら、こっそり虎杖君を盗み見ると、虎杖君と視線がかち合った。ばちり、と繋がる。まさか目が合うとは思わず、息を呑むと。

「よ」

 虎杖君は右手を上げた。

「へ。え、なに」 
「苗字だーって思って。だから、挨拶」

 虎杖君は不思議そうにきょとりと瞬いた。

 サクッと自分の心臓に矢が刺さる。穴が開いた心臓から甘酸っぱい気持ちが沸き上がり、炭酸水のようにしゅわしゅわと心を満たしていった。胸がいっぱいで、息が詰まる。笑おうと思い口角をあげようとする。でも、胸に溢れかえっている感情が頬まで侵食しているせいか、表情筋がうまく動かなかった。私って、単純。







 手足が、ひどく緩慢にしか動かない。頭も、全然、働かなかった。

 ええっと。私、ここで何してたんだっけ。ていうか、私って、何だっけ。

 私――私は、確か、苗字名前という人間で、そう、お父さんの転勤で高校と同時に上京したんだ。ハロウィンだからコスプレして渋谷行こうよって友達に誘われて、魔女のコスプレをした。ドラストで買った化粧品でメイクして『名前似合ってるよ!』と褒めてもらった。コスプレして化粧した姿で渋谷を歩いていると、なんと、生まれて初めてナンパされた。迷惑そうに顔をしかめてみせたけど、実は結構、嬉しかった。

 友達にも、見知らぬ男の人にも、可愛い≠ニ思ってもらえた。
 なら、もしかしたら。
 逸る気持ちのまま、スマホを取り出した。心地よい緊張感が胸を締め付ける。
 彼が今東京にいることは、中学時代の友達に教えてもらっていた。クラスのグループラインに彼もいる。だから、しようと思えば、いつでも連絡できる。でもできなかったのは、ひとえに私が臆病だから。まごついていると、友達が『どうしたの?』と隣から覗き込んできた。スマホに映る男子の名前に友達は『名前が男子とラインってめずらしー!』とはしゃぐ。別にラインなんてしてない。そう告げたら怒られた。行動しなきゃなんにも始まんないよ!

 そう、

 それで、

 ありったけの勇気を振り絞って、

 彼を追加しようとしたところで、

 ………………あれ?

 肌色から毒々しい紫色に変化した自分の両手を目の前に翳す。骸骨のように、枯れ木のように、ひどく細い。

 …………え?

 確かにダイエットはしていたけど……。状況がまったくわからない。途方に暮れて辺りをきょろきょろ見渡すと、床にへたりこんで震えている友達がいた。友達は怯えてはいるけど、怪我は負っていなかった。よかった。安堵感が広がり友達に向かって手を伸ばしたら、耳が劈くような悲鳴を上げられた。友達はまるで化け物を見るような目をして、命からがらといった風体で、私から逃げていく。

 ああ、そうか。ぼんやりと膜がかった思考で理解する。化け物を見るような、じゃない。私はもう、化け物なんだ。
 通常の思考回路なら嘆き悲しみ憤りにくれるところだけど、化け物となった私は友達の態度に何も思わなかった。空は青いだとか夜になると星がよく見えるだとか、そんな事実を受け止めるように『当たり前だ』とすんなり納得する。私化け物なんだぁ。

 そっかぁ。ああ、でも、そうなっていたら、もし、会ったとしても、

 彼は、

 私に、

 気付いて、

「――苗字……!?」

 驚きにみちた声を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。ゆっくりと振り向いて、声の先を見つめる。
 あの時と同じように、胸の内側を暖かいものが満たしていった。春の木漏れ日の中にいるみたいに、気持ちが安らいでいく。

 彼だ。そう、彼は、いつも。

 異形の姿と成り果てたせいでひどく動かしづらい表情筋とは違い、心は笑顔を浮かべる準備が整っていた。久しぶりの彼の姿に胸が弾んで、心の中に光が差して、頬が笑みに埋もれていくのがわかる。ああ、やっぱり。強張った頬をほどけるように緩ませながら、彼に顔を向ける。ええと彼、そう、確か、難しい読み方の苗字で、

「――虎杖君」
「苗字!!!」

 ほら、やっぱり。今日も見つけてくれた。

 






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