「黄瀬くん、今日もあざっした!」
「ど、どもッス」
私は黄瀬くんに「ささっ、例のブツっす」と麻薬取引のようにコソコソと周囲を憚りながら、今日もバスケに付き合ってくれたお詫びのアイス(ガリガリくん)を献上する。何故こんな真似をしたかと思うと昨日の火サスでこのようなシーンがあったからだ。黄瀬くんは「昨日林野さんが何を見ていたかすぐわかるッスね」と整った口元を苦笑で緩ませながら受け取った。
今日は黄瀬くんの都合で朝ではなく、部活後にバスケを教えてもらうことになった。海常の部活はものすごくしんどくて、体力を絞られるだけ絞られ、へとへとになるが、大好きなバスケを大好きな黄瀬くんとするためならまた体力が湧いてくる。と、よっちゃんに言ったら『お、おう』と引かれた。何故。
日が伸び始めた頃合いにも関わらず、空はすっかり濃紺に覆われていて、点々と星が瞬いている。口内でしゃりしゃりと溶けていくアイスを味わいながら、今日の充実感に浸る。しかも隣には憧れの人物。これをしあわせと呼ばず何をしあわせと呼ぼうか。
「黄瀬くんアイスは好きー?」
「好きッスよ…だからクッキーも嫌いじゃないんだってば…ちょっと並々ならぬ事情があって…」
黄瀬くんは項垂れて顔を片手で覆いながら力ない声で呟くような小さな声で言う。とても恥ずかしそうだ。一体黄瀬くんの身に何が起こったのだろう…。
と、心配していると。私はとあることを思い出した。
「そうだ、黄瀬くん!黄瀬くんのメアドを知りたいっていう坂口さんって女の子がいるんだけどね、その子が私に黄瀬くんのメアド教えてほしいって訊いてきてさ、本人の許可とってからじゃなきゃダメだから教えてないんだけど、教えていい?」
私は『別にいいッスよ』という了承の返事が返ってくると思い込んでいた。
だが、黄瀬くんの笑顔がゆっくりと静かに強張っていった。そして、すうっと熱を失っていく瞳。
その瞳は、私のために時間を割く時間はないと言い切った時の瞳と、媚でも売っているのかとせせら笑った時の瞳、そしてついこの間のクッキーをあげた時に見せた瞳と、同じ色をしていた。
「無理」
黄瀬くんは誰も寄せ付けない膜の張った笑顔を浮かべる。たった一言に、頑なな拒否の思いが込められていて、私自身が拒絶された訳ではないのに、心臓にグッサリと鋭く尖ったものが刺さったみたいに感じた。
「そ、そっか」
思わずたじたじと気おくれしてしまい、どもってしまった。黄瀬くんが纏っている空気が一気に冷たいものに変わり、話しかけづらくなった。気まずい沈黙が私達の間を流れる。アイスをしゃりしゃりと食べることで、この沈黙は普通なんですよ、アイス食べているから喋っている暇はないんですよ、とアピールする。アイスがあってよかった。なかったら今頃手持無沙汰で困っていた。
そんなに、坂口さんとメールしたくないのかな…。普通にいい子なんだけどな…。私にお菓子くれるしお菓子くれるお菓子くれるし…。坂口さんって昔黄瀬くんに何かしたのかな…。
「黄瀬くんって、坂口さんのこと嫌いなの?」
恐る恐る問いかけてみると、黄瀬くんは顔の向きは固定したまま、瞳だけを私に向けた。ふうっと短いため息を吐いてから、口を開いた。
「嫌いっていうか、なんかもう、めんどいんスよね」
「めんどい?」
「そういう恋愛に巻き込まれんの」
「どういうこと?」
黄瀬くんが何を言っているかわからない。頭上に大量のハテナマークを浮かべながら首を捻る私に黄瀬くんは苛立ったように声を荒げた。
「だから、そういう、俺のこと勝手に好きとか思われんの、正直めんどいの」
夕方の時刻はとっくに過ぎたけど、カー、カー、カー、と烏の鳴き声が聞こえたような気がした。
「えー!?そうなの!?坂口さん黄瀬くんのこと好きなの!?ラブなの!?」
「ちょっと待って…今の俺が自意識過剰のナルシストみたいじゃんか…。ちょっと待って…。うわ、なにこれ、やだ、はずい…」
右手で顔を覆って、消え入りそうな声で恥ずかしがっている黄瀬くんの横で、私は驚きのあまり、声を張り上げ、目を見開いてのけぞってしまった。
「そうなんだ、坂口さん、黄瀬くんのこと好きなんだ〜、へえ、あっ、へえ〜!好きなんだ〜!」
噛みしめるように何度も同じ言葉を繰り返す。色恋沙汰にはとんと疎いから全く分からなかった。そういえば、坂口さん黄瀬くんの名前を言う時、そわそわしていたような気がしなくもないような…。あの時私腹が減りすぎていて周りの状況がよく見えてなくて…いや、それはいつもか。いつも見れてねーや。
「だから、そういう、自分に気がある子とメールすんのって、めんどいんス。メール返さなかったら『どうしたの?怒っているの?私なにかした?していたらごめんね』とかしおらしく言っていたのが仕舞にゃ『メールくらい返してくれたっていいじゃん!』ってキレだすし…。あー、めんど」
最初は顔を赤らめながら恥ずかしげに言っていた黄瀬くんは、だんだんと語気が強くなり、最終的には不機嫌を露にした表情を浮かべていた。はあっと重いため息でフィニッシュ。
「黄瀬くんは恋愛が嫌いなの?」
そう訊くと。黄瀬くんは、ふうっと短いため息をひとつ零し、首裏に手を回して、三拍間を置いてから、答えた。
「そうかも、しんないッス」
自分から勝手に好きになっといて、付き纏った挙句、自分の望む言葉をかけてくれなかったり、行動をされなかっただけで、最低と憤慨したり、こんなんじゃないって幻滅してきたり、ひどいと泣いてきたり。
身近にいた、かっこよくて、モデルで、バスケが強い男、それがたまたま“黄瀬涼太”という名前をしていただけ。
「そんだけの話ッスよ」
黄瀬くんはつまらなさそうに言うと、溶け始めたアイスにがりっと噛り付いた。しゃりしゃりという音が響く。
「そうなんだあ」
私は間延びした返事を返すことしかできなかった。
今の話は、黄瀬くんの自意識過剰なナルシスト話という訳でもないのだろう。よっちゃんに聞いて知ったのだが、黄瀬くんはとてつもなくモテるらしいし。かといって、黄瀬くん…そんなに女の子不信なの…可哀想!と母性本能が擽られた訳でもない。
嫌悪でも憐みでもなく、純粋に普通に『そうなんだあ』という感想しかでてこない。モテる男は辛いんだねえ、モテる男は辛いよってか。
恋愛のことも、黄瀬くんのことも、よくわからないけど。
「私さ、恋愛とかしたことなくてさ、だから、恋愛したことない奴がこんなん言っても説得力ゼロだけど、面白い恋愛ってのもあるんじゃないかな」
「…面白い恋愛?」
「うん。だって、私の友達がさ、なんとかくんと喋ったー!嬉しい!とかなんとかくんとデートだー!なんとかくんにチョコあげるんだー!とか騒いでんの見て、ああ、楽しそうだな、面白そうだなって、私思ってて、それが羨ましいんだ」
恋をしている人たちは、悲しみに暮れていることも多いけど、それと同じぐらい、喜びに打ち震えている時も、多い。好きな人ができて、その人と関われて、嬉しそうで、楽しそうで。
テレビや雑誌、友達の話から聞く恋の話は、よくわかんないけど、とても色とりどりで、美味そうだな、と思う。
と、私なりの恋愛論(恥ずかしいなこの言葉)を述べてみると、黄瀬くんがブッと噴出した。
「美っ味っそう…って…!」
黄瀬くんは腹に手を当て、背中を丸めて震えている黄瀬くんから押し殺した笑い声が漏れる。
「どんなんスか、美味そうな恋愛って…!も、林野さんがめずらしく真面目に語るかと思ったら最後の最後に変なことぶっこんでくるんスから…!もう…!」
私の発言が、どうやら黄瀬くんのツボに入ったようだ。自分では全く面白いことを言った自覚がないのだが、人を笑わすことは嫌いではないので、「い、いやあ」と後頭部に手を回して照れる。
すると、その時、残りわずかなアイスがぼとりと地面に落ちた。
べちゃっと固形物が潰れる音が鳴り、視線を下にずらすと、アイスの無残な姿が。
黄瀬くんの笑い声がやみ、静寂が訪れる。その静寂を帰った帰ったと追い返したのは、
「うわあああああ!!」
という私の絶叫だった。膝から崩れ落ち、私は四つん這いになってわかりやすいくらい落ち込んだ。アイス…アイス…もうちょっとだったのに!棒に残っているのを舐めとる瞬間が!至福なのに!!
四つん這いになっていると、影が落ちてきた。力なく首を上げ、虚ろな視線の先には、黄瀬くんがいた。しゃがみこみ、私に視線を合わしてくる。長い睫に涙が乗っている。口元を柔らかく緩ませながら、ん、と、私の鼻の先にアイスを突き出した。
「面白いこと聞かしてくれたし、これ、あげるッス。食べかけで悪いけど」
「…ええ!?でもこれ黄瀬くんの分なのに。お礼がお礼でなくなるよ」
「今の面白い発言で、今日のバスケのお礼ってことでいいッスよ。つーかお礼とか律儀にしなくてもいいのに。あとこれ、林野さんが買ったもんなんだから、元々林野さんのモンだし」
神だ。黄瀬くんは、神だ。
「黄瀬くん…!あざっす…!!」
感極まって涙声になる。私は口を大きく開けてアイスに噛り付いた。
黄瀬くんの手も、一緒に。
ぎゃあ゛あ゛あ゛あ゛っという黄瀬くんの絶叫がその夜、響いたとか、響かなかったとか。
まじわる群青
狂犬につき、エサやり、注意。