「黄瀬くーん!!」
ガラッと派手な音をたてて扉が開かれた。林野さんは教室の入口付近でそう大声で俺の名前を呼んだあと、きょろきょろと首を動かし、呆けづらの俺を見るなり、ぱあっと顔色を輝かせ、小走りなんて可愛い表現は似合わないが、林野さんなりの小走りで俺に駆け寄ってきた。
背中を丸めて授業中寝ていた俺は、まだ脳みそに靄がかかったようにぼけっとしており、突然の林野さんの襲撃、剣幕にぽかんと圧倒される。
「黄瀬くん!私!次の試合!」
「へ、え、は?」
林野さんは頬を蒸気させ、両手を丸めながらぶんぶんと振り回し、早口で喋っているものだから何を言っているのかさっぱり聞き取れない。林野さんはじれったそうにやきもきとした表情になった。
「私!次の試合!!出られるんだ!!」
次の試合、林野さんは試合に出られる。
と、いうことを理解できた俺は「え…!?」と声が上ずってしまった。
海常は女バスも男バス並みの強豪校。その中でユニフォームを勝ち取るということはちょっとやそっとでできることではない。
「うん!フル出場はできないけど、私に自信つけさせるために、1クォーター分はださせてくれるんだって!!」
林野さんはこれ以上嬉しいことはない、とでもいうように綻ばせる。
でも。
「黄瀬くんのおかげだよ、本当にありがとう!」
林野さんの表情は、そこからさらに、嬉しそうに満面の笑顔を咲かせて。その笑顔を直で受け止めるのは、なんだか気恥ずかしくて、少し、目を逸らす。
「…試合はいつなんスか?」
らしくない。と、自覚しつつも。ボソっとくぐもった声で問い掛ける。
「次の日曜だから…六月十八日!」
間髪入れずに返ってきた答えに、えっと声を上げそうになった。林野さんは特に何も言いたげではない表情でにこにこと笑っている。
「…そうなんスか」
この子は、本当に俺のバスケにしか、興味がないんだな。俺がモデルをやっているということも、友達から聞いたらしいし、この間発売されていた雑誌にもノータッチだった。『最近のNARUTOの展開マジやばくない!?』と鼻の穴膨らませて訊いてきたぐらいだ。
そういうところに好感を持っているん、だけど。
「おめでと、林野さん」
自然と柔らかい表情になって、心からの言葉を、林野さんに送る。
林野さんは少しの間、ぽかんとしたかと思うと、見る見るうちに笑顔が広がっていて、「うん!」と大きくうなずいた。
なんでだろ。
なんで、ちょっと、さびしいって、思ってんだろ。
***
「おつかれっしたー」
今日は昼までの練習だった。先輩達に締めの挨拶をいい、急いでシャワー室へ向かい、シャワーを浴びる。この後撮影が待っているのだ。部活のあとの撮影っていうのは正直キツイ以外のなにものでもないが、どちらも俺にとってかかせないものなで、どちらも手を抜くわけにはいかない。妥協なんてしたくない。
ちゃっちゃと、浴びて、撮影所向かって、仕事する。俺の今日のスケジュールはそれしか組み込まれてないのに。
どうして、急いだら、ちょっと、林野さんの試合が観られるって、考えてんだろ。
雑念を振り払うように頭を振るう。水しぶきが辺りに飛び散る。
確かに行けるっちゃあ、行ける。けど、行けたとしても試合を五分観られるかどうか。それに無駄な体力を遣うだけだ。撮影に備えて、体力は残しといた方が得策、なのに。
『黄瀬くんのおかげだよ、本当にありがとう!』
大きな瞳を細めて、にっこりとひまわりのような笑顔が脳裏に浮かんで。
「…ああ、もう!」
やりきれない声と、キュッと蛇口を回して閉める音が狭いシャワールームに綺麗に響いた。
***
何やっているんだかって自分でも思う。
せっかくシャワーを浴びたのに、走ってきたものだから、頭皮から汗は流れ、金色の髪の毛から伝っていく。全身の皮膚からじんわりと汗が噴き出して、シャツがべっとりと背中に張り付いて気持ちが悪い。
…マジで、俺何やってんだか…。
額の汗を手の甲で拭い、ふうっと短い息を吐く。ボードに視線を遣ると、そこに刻まれていた文字は。
…31対32、か…。
残り時間は二分を切っている。勝てる見込みは十分はる。バスケは、スポーツは最後の最後まで何が起こるかわからない。
林野さんは眉をきりっと持ち上げて、相手に視線を真っ直ぐぶつけている。でも、体の節々から緊張していることが遠くにいても伝わってくる。
だん、だん、だん、と相手がボールをつく。いつ、いつ抜いてくるのか。それを見極めようと林野さんが瞳を僅かに細めた、瞬間。
ダンッとボールが跳ね、林野さんの横を通り過ぎた。
「っ」
声にならない悲鳴が漏れる。
林野さんは一瞬目を見開き、相手に追い付こうと足を速める。林野さんの持ち味は俊敏性だ。小さな体を生かして、いつのまにか潜り込むようにして、相手からボールを奪い取る。
だから、追い付けたことは追い付けた。
しかし。
軽々と、相手は林野さんの上からパスを通そうとボールを放った。
相手の子の身長は、林野さんとの身長差から考えて、多分170前半はある。バスケは高さが重視されるスポーツ。俺は身長について悩んだことはないからわからないけど、身長が足りないというハンデは、厳しいものじゃないだろうか。
相手チームへボールが通されようとした、時。海常のメンバーがすんでのところでそれを取る。
おおっと観客のざわめきも負けない、速攻という大きく声が会場に響き渡る。
もう時間はない。このままだと一点差で負ける。
いつのまにか、自然と丸められていた手に汗がじんわりと滲む。
…がんばれ。
林野さんの元にボールが放り投げられる。
俺の半分もないような小さな掌で、懸命に受け取る。
相手チームの動きを、すかさず避けて、二歩歩いて、大きくジャンプして。
がんばれ、がんばれ、がんばれ。
林野さんの手から放たれたボール。
そのボールが描く放物線は緑間っちとは比べものにならないほど歪で、がたがたで、がむしゃらで、かっこ悪くて。
「…っ、入れっ!」
思わず声に出た想いが伝わったかのように、ガゴンと音をたてて、ボールはゴールに転がり落ちるようにして、入った。
試合終了のブザー音が鳴り響き、会場が熱気で覆われる。
林野さんはぼけっと突っ立っていたけど、すぐさま、のチームメイトに頭の上に肘を置かれたりつつかれたりと、玩具にされた。茫然とした表情が、だんだんと色を付け、
「やったー!!」
と、俺のいる場所まで、声が飛んできた。
マジで、ばかでかい声。
ふ、と口元が緩んだ時、林野さんと視線が合わさった気がした。結構距離あるし、勘違いだと思ったのだが。
林野さんはチームメイトの包囲網から逃れて、俺がいる方向へ小走りで駆け寄り、距離をできるだけ縮めてきた。
すうっと体を弓のようにそって、小学生のような胸を張って、腰に手を当てる。
え、ちょっ、まさか。
林野さんは“そのまさか”ということを、いつでも簡単にやってのける人だった。
「黄瀬くーん!!観にきてくれたんだねー!!ありがとー!!それでー!!」
林野さんは周りの人の視線も構わずに、さらに大声をあげた。
「たんじょーび、おめでとー!!!」
この広い体育館めいいっぱいに響き渡るような声で叫び終わると、林野さんはにししっと歯を見せてにかっと笑った。
観客達が、「黄瀬…?」「うわキセキの世代の黄瀬じゃん!」「きゃー!黄瀬くんだー!」とざわめきだし、俺は一気に見世物状態になり、あわあわときょろきょろ首を動かす。
林野さん〜…!
恨みがましい目で林野さんを見る。けど、林野さんは何も悪びれた様子はなく、ニコニコと能天気な笑顔を浮かべているばかりで。
「マジで、勘弁…!」
俺の小さな恨み言はこの広い会場で林野さんに届くはずもなく、観客の声の中に混ざって消えた。
わずらいを捧げましょう
それは鬱陶しくてむずがゆい。