文化祭が終わってから私は注目の的になった。
主に、女子の。
「カツサンドがあれば私は生きていける…」
サクサクの衣にたっぷりソースが染み込んだ肉を、シャキシャキ鳴る新鮮なキャベツで包み、それをふわふわのパンで挟んだこのサンドイッチの美味しさに、私は泣きそうなほど感動していた。よっちゃんが白い眼で私を見ているが、そんなのは日常茶飯事なので気にしない。
「あんたさァ…」
本日は教室でごはんを食べたい気分のよっちゃんは私の前の座席に座って、心底呆れた気持ちを声に込めて言う。
「うん」
「よくもまあ、そんな平気で生きていけるよね」
こそこそ私を盗み見るようにして視線を送る女子達を一瞥し、また私に視線を戻すよっちゃん。
なんだか知らないが、鈍感と言われる私でもわかった。文化祭が終わってから、女子にちらちら見られるようになった。廊下ですれ違った時など『あの子がさー、黄瀬くんの…』と高確率で噂される。
『いやァ…黄瀬くんの弟子ということがそんなに広まってしまったんだね…。弟子として、もっと恥ずかしくない行動をしないと!』
と鼻息荒く宣言したら、よっちゃんに『ハァーッ』とそれはそれはマリアナ海溝のような深いため息をつかれた。ホワイ?
「まあ気にしたって仕方ないし、気が済むまで見させようよ!別になんかされた訳じゃないし」
カツサンドをあっという間にたいらげ、今度は母さんの手作り弁当の蓋を開けながらへらへらと笑う私に、よっちゃんは眉を吊り上げた。
ガラガラッと、教室のドアが開かれたのに私達は気づかなかった。
ドアを開けた人物は私のところへ真っ直ぐに、よどみなく近づく。
「楽観的すぎるの、ひろは。これから―――」
そして。
「林野ひろさん、だよね?」
よっちゃんの言葉を、高圧的な口調で遮った。
イエス、アイアム、林野ひろ。
剣呑とした表情のふんわりボブの女の子と、その子の傍らに寄り添う、悲しそうな、怒っているような顔つきのセミロングの女の子が、ぱちくりとただ瞬きをするだけの間抜けな私の双眸に映った。
弁当もう少しで食べるから待ってて!とは言えない雰囲気だということは、流石の私でもわかった。ついて行こうか、と言うよっちゃんに、いいよいいよと笑顔でひらひら手を振って、私は『ちょっと話あるから、ついてきて』というお二人さんの後ろについて、屋上へとつながる階段にやってきた。
海常高校もほとんどの高校と同じように、屋上は生徒がつかえないように封鎖されている。屋上で弁当食べるという漫画みたいなことを一回でいいからしてみたいものだ、なんて。
呑気なことを考えている場合じゃないな、こりゃ。
厳しい顔つきの女の子達に、私は乾いた笑み浮かべながら、冷や汗をかくことしかできなかった。
えーっとォー。何したっけ。授業中ウッセーんだよテメェとか?いやあれは佐藤との絵しりとりがあまりにも面白すぎて、つい噴出してしまい…うん私が悪いね。そのことを言われたら素直に謝ろう。
「林野さん」
釣り目のボブの女の子が、怒りを無理矢理静めた声で私に訊いてくる。
「う、うん」
「黄瀬くんとどういう関係?」
わー!!
キ、キターッ!!
やっぱり私が黄瀬くんの弟子ということ広まっているんだ…!さすが黄瀬くんいつも注目されている…!!黄瀬くんの弟子ですらこんな注目されるのか…!これからはもっと謹んで行動しよう!うん!!
私は、いやあ…とへらっと笑って手を後頭部に回した。
「黄瀬くんはあんまこういうこと言ってほしくなさそうなんだけど、師弟関係ってゆーか、憧れる人間と憧れられる人間ってか、ファンとヒーロー、みたいな?」
へらへらとしまりなく笑う私に対し、釣り目のボブの子の眼が、いっそうつり上がった。え?と不思議がる暇も与えず、ボブの子は低い声で空気を震わせた。
「ふざけないでよ!!」
空気の震えが私にまで飛んできた。私のへらへら笑いも思わず固まってしまった。普段監督から怒鳴られ慣れている私ですら、固まってしまった。そのくらい、ボブの子の声は怒りに満ちていて、迫力があった。
「あんたさ、そうやって、私は黄瀬くんの弟子なんですぅ〜ってふざけたこと言って、ずーっと黄瀬くんの傍にいるんだよね!?」
「いや、ずっとって訳でもないけど」
「そういうのが一番むかつくんだけど!…っ、真理も言ってやんなよ!!」
ボブの子に真理と呼ばれた大人しそうなセミロングの女の子が、大きな瞳に涙を滲ませて、悔しそうに唇を噛んで私を睨んでいた。
え、え、え。どうしたのさ、この子達。なんで怒ってんの?
怒りを向けられている理由が微塵も理解できず、頭上にハテナマークがたくさん浮かんでいる私に対して、負の感情が湧いたのか―――セミロングの子が涙をつーと零した。眉を少し吊り上げて。
面食らった私は「え!?大丈夫!?目にゴミでも入った?」と訊くと、ぶちん。何かが切れる音がした。
セミロングの子の足が私との間を一歩、詰めた。振り上げられる手。え、とぽっかーんと口を開ける暇もなく、反射神経がいい私なのに、あまりにも予想外な行動をとられ、私はされるがままだった。
パッチーンと気持ちいい音が空気を切り裂いた。
ぱちぱち、ぱちぱち。
私は点になった目を瞬きすることしかできなかった。右頬に感じる痛み。目の前の女の子は人を殴ることに慣れてないのだろう。手が赤くなっている。結構痛そうだが、それでも、私に怒りの眼差しを向けることだけはやめない。
「ずるい、ずるいよ…っ、ずるい!林野さん!!」
セミロングの子は泣きながら、声を張り上げた。
「そうやって、何もしないで、一番いい位置にいて、笑いかけてもらって、優しくしてもらって、努力してる私達を馬鹿にするみたいに、黄瀬くんの傍にいて…!!」
とめどない涙がセミロングの子から溢れだす。長い睫をつたって、頬の輪郭を沿うようにして流れていく。
「林野さんが黄瀬くんのことを好きで、黄瀬くんと一緒にいるのなら、まだ納得できるの!けど、林野さんは…!弟子だとか訳わかんないこと言って、私は黄瀬くんのことを恋愛的に好きな子達とは違うから〜…とか、ふざけないでよ…!!」
目を見張ってしまった。
いつだったか、私は思った。
『媚びとかそんな感情と、この敬愛心を同じにしないでほしい』
私の黄瀬くんへの“好き”は尊敬としての“好き”だ。
恋愛的な“好き”とは違う。
だって、ヒーローだもん。ヒーローは恋をするものではない。憧れるものだ。
黄瀬くん黄瀬くんと言う度に、色々な人から、黄瀬くんのこと好きなの?と訊かれた。
『うん!尊敬してるよー!大好き!』
『いや、そういうんじゃなくてー、恋愛的な、彼氏にしたいなーっていう“好き”じゃないの?』
そう言われたら、私はきょとんとした後、アハハと笑ってから答えるのだ。
『違う違う!』
とても、すがすがしく、きっぱりと、言い切るのだ。
今は?
今、『黄瀬くんのこと、恋愛的に好きなの?』と訊かれたら。
―――あれ?
あれ、あれ?なんで?
違うよ、っていう言葉が、出てこない。
「私は黄瀬くんのことが好きだよ、この子も好き」
セミロングの子が視線をボブの子に一瞬寄越す。ボブの子は辛そうに顔を伏せてから、私を見た。怒りに満ちた視線を、私に投げる。
「だから、私らは、あんたがムカつくの。黄瀬くんにそういう興味ないふりして、そのくせ、ちゃっかり彼女気取りして、卑怯だよ…!卑怯!」
気付いたら、ボブの子からも涙が流れていた。ずっと耐えていたのかもしれない。
だって、この子が私をなじる声、すごく苦しそうで、辛そうだ。
「そうだよ…!ずるい、ずるいずるいずるい!!」
セミロングの子が私の肩を強い力で掴んだ。
まるで、この子の黄瀬くんへの想いみたいだ。
「ずるいよ…!卑怯、ずるい、卑怯者…!!」
セミロングの子の丸いビー玉のような瞳には、怒りと、悔しさと、悲しみと、何も返すことができない弱虫な私の姿が映っていた。
「―――卑怯なのは、どっちだよ」
ぴたりと空気が動きをとめた。それに連なるようにして、セミロングの子が私の肩を掴む手から、力が抜ける。
たん、たん、たん。静かに階段を昇る音が響き渡る。たん、と最後にひとつ音が鳴らされて。
「黄瀬、くん…!」
黄瀬くんが現れた。
セミロングの子の手が、私の肩から離れてだらんと落ちた。顔が青ざめている。ボブの子も真っ青になっていた。
「こんな誰も寄り付かねえところに連れ込んで、二対一で責める方がよっぽど卑怯者だと思うんスけどね、俺は」
ぞっとするほど冷たい声に背筋が凍る。黄瀬くんが今みたいな冷たい態度を取ることは知っていたのに、ただ、怖い。
黄瀬くんは線引きが顕著だ。自分より“下”だと見なした相手には敬意を払わない。そもそも、認識すらしない。
そんな冷たいところが黄瀬くんにはある。けれど、そんなところもクールなヒーローっぽくて憧れると思っていた、のに。
何故か今、そのことが悲しくて、怖い。
二人の女の子の肩は戦慄くように震えていた。何か言いたげに口をぱくぱくと震わせて、やめて、だけどもう一度必死にいい募る。
「ち、ちが…!これは…!」
「何が違うっつーの?」
黄瀬くんは反論する隙間も与えず、畳み込むように強く冷たい口調で弾圧した。
「あんたら、俺にフラれたからってさ、林野さんにあたるのはおかしいっしょ。なんでそんなこともわかんねーの?」
ハアーッと。黄瀬くんは重いため息をついた。
よっちゃんが私に向けるため息も、呆れているのが強く伝わるけど、そんなものじゃなかった。
呆れている、なんてものじゃない。
これは、侮蔑だ。
「マジで、ウッゼー」
ぼそりと呟かれたその一言は、嫌悪しか含んでなくて。
それは、黄瀬くんのことが好きな彼女たちにとって、聞くに堪えない言葉だったろう。
二人の目が大きく見開かれ、そして、ぼろぼろと涙を落としていった。
そんな彼女たちに、黄瀬くんは、情け容赦なく、とどめを刺すように、見下ろしながら、見下しながら、言った。
「俺は、あんたらみたいな馬鹿女が一番嫌いなんだよ」
二人の女の子は、これ以上は耐え切れないようだった。
二人とも、示し合せた訳でもないのに、二人そろって、階段を駆け下りていった。
バタバタと駆けていく音が、やけに耳に響く。
すごく、すごく冷たかった。
あんな黄瀬くん、見たことない。
…見たことない?
いや、違う。
ある。
『俺、前アンタに結構冷たいこと言ったつもりだったんスけど。わかんなかったッスか?あれからも変わらず俺に挨拶とかしてくるし。なに?媚びでも売ってんスか?』
『あんたも結局そういうこと、だったわけ、ね』
『なにもそうだったら、こんな回りくどいこと最初っからしなきゃいいのに。ああ、だから?だから今更クッキー持ってきて?女子力ってやつアピールしてんスか?』
この半年の間の黄瀬くんを思い出す。
あの子達に対しての言葉よりはまだマシなものだけど、性質は、本質はいっしょだ。
どうでもいい人に対しての、態度。
どくんどくんと心臓が軋む。
そして、次に浮かんだのは。
「―――さん、林野さん」
名前を呼ばれて、ハッと気が付くと、視界が黄瀬くんでいっぱいだった。
「うわ!!」
「声でかッ!!」
私と視線を合わすように屈んでいた黄瀬くんは、私のばかでかい声に飛びのき、耳を抑えた。
「あ、ご、ごめん。またばかでかい声出して」
「いいッスよ。もう慣れた」
へへっと笑う黄瀬くん。
黄瀬くんの笑顔につられて、少し、ほっと気が緩んだ。
さっきまでの黄瀬くんとは、大違いだ。
けど、黄瀬くんの顔はすぐに重たいものに変わった。
「大丈夫ッスか、ほっぺた」
「え、…ああ!だーいじょうぶだいじょうぶ!私小学生の頃は男子と取っ組み合いの喧嘩よくしていたし!こんなのへっちゃらへっちゃら!」
顔の前で両手を振って“大丈夫”ということをアピールする。しかし、黄瀬くんの表情は重たいまま。
「…ゴメン」
「なーんで黄瀬くんが謝るのさー!」
「マジで、ゴメン」
なお、謝罪を続ける黄瀬くんに大丈夫だよ、ともう一度言おうとした時、黄瀬くんの大きな掌が、じんじんと痺れる頬を包み込んだ。
心臓が、跳ねる。
頬に痛みの熱とは違う何かの熱が集中する。
「痛いッスよね」
「だ、だから大丈夫だって言ってんじゃんかー!」
心臓の動きを悟られないように、わざと調子を上げて喋る。
いつも通り、いつも通り。平常心、平常心。
「なんで、林野さんを殴るのかマジで意味わかんねー…」
私を労わる暖かい声色が、冷たいものに変わった。
続けて、黄瀬くんは、温度が下がった声でぼそりと呟いた。
「だから、ああいう群がってくるだけの馬鹿女マジで嫌なんだよ」
冷水を浴びせかけられたような、そんな気分になる。
私は思い出していた。
自分に恋愛的な好意をぶつけてくる人間が鬱陶しいと吐き捨てるように言う黄瀬くんを。
「林野さん」
「…なに?」
掠れた声しか出ない。
「とりあえず、保健室行こ。冷やさなきゃ」
目をゆるやかに細めて、穏やかに弧を描く形のよい唇は、優しさに満ちている。
けど、黄瀬くんは。
もし、もしも私が。違うけど、そうじゃないけど。
恋愛的に、黄瀬くんのことが好きだと言ったら。
どうするのだろう。
心臓が、ごとりごとり
きらわれちゃうのでしょうか