「よくあの場所にいることわかったね」
そう訊くと、廊下で黄瀬くんが森山先輩とすれ違った時、教えてくれたそうだ。あの髪の毛短い子、明らかに連行されていたぞ、と。
「マジで、焦った。…まだ、痛いッスよね?」
弱弱しく目を伏せたあと、心配そうな眼を私に向けてくれる黄瀬くんに、私は頬に氷をあてながら大丈夫だよと返した。そう返すことしかできなかった。
氷を当てているのに、頬の熱はなかなか冷めなかった。
「なんかひろ顔赤くない?」
二時間目授業が終わったあと、よっちゃんが私の元にやってきて、開口一番、片眉をさげてそう訊いてきた。
「え、まだ腫れ治ってない?」
「腫れは治ってるけど、なんか顔が全体的に赤いっていうか」
よっちゃんはそう言いながら私の頬に手を伸ばす。ぴたりと触れたあと、眉間の皺がさらに深くなって、手を額に動かした。
「ちょ、あっつ…!これあんた絶対熱あるよ!」
「私元々体温高いよ?」
「いや、そういうレベルの熱さじゃないって!ってゆーか、よくそれで学校来れたねアンタ!朝練もどうせしたんでしょ!?凄いってレベルじゃないよ!馬鹿だよ馬鹿!」
「大丈夫だって、昨日夜ちょっと走っただけ」
「はァー!?あの雨の中走ったの!?は!?馬鹿!?ちょっと今日はもう帰んな!!」
「やだ!」
「は!?なんでよ!」
「だって、今日!黄瀬くんと久々にバスケする日だもん!」
そう言い返すと、よっちゃんは呆れて言葉も出ないのか、ぽかんと口を開いたあと、ハァッと息を吐いた。
私は弁解するように「最近、文化祭の準備とかで忙しくて、できなかったから、久々なのに、それを楽しみにして今日学校に来たのに、やめるなんて、絶対やだ…!」と早口でまくしたてる。駄々をこねる。
「あのさァ…」
よっちゃんがため息混じりに何か言いたげに口を開く。私はそれから逃げるように、ガタッと立ち上がり、男子の群れに突っ込んだ。
「ねえねえ、何してんのー!?あ、ジャンプ私にも読ませてー!」
「ちょっ、林野!今週のナルトまじやっべーぞ!」
「え、マジマジどんなの!?」
よっちゃんの何かを孕んだ視線が背中に刺さっているのに、気付かない振りをしながら、私はジャンプを手に取った。
部活が終わったあと、私はいつものように黄瀬くんのところへ突撃した。半年前みたいに、何にも考えずに。黄瀬くんを見ると感じるものから、目を逸らす。
黄瀬くん!と名前を呼ぶと。私に気付いて、目を細ませるところとか、風が金色の黄瀬くんの髪の毛をさらって、揺れることや、私の名前を呼ぶ時の声とか。
そんなことに、何も感じない。感じる訳が、ない。
感じては、いけない。
他愛ない会話をしながら、バスケットコートにやってきた。
「黄瀬くんとバスケするの久々だよね、私今日これを生きがいにして生きてきたんだ!」
「大袈裟ッスねー」
「そっかなー」
「ね、林野さん」
「ん?」
「見てて」
そう言うがいなや、黄瀬くんは掴んでいたボールを一度強く弾ませると、私の横をものすごい勢いで駆け抜けた。
黄色い光が走る。
今のは。
瞬きをする一瞬、瞼の裏で青色の光が点滅して、ガンッと後方で、ボールをリゴールに叩き付ける音がした。
バッと振り向くと、黄瀬くんがぽんぽんと転がるボールを拾って、口の端だけ上げた笑顔を、私に向けた。
「青峰くん、の…!?」
今の動きは、敏捷性は、ゼロからマックスへの加速度は。青峰くんそっくりのプレイスタイルだった。
見るのはあの試合振りだ。
けど、あの時より。
「あれからもっと研究して、青峰っちのコピーが前よりできるようになったんスよ。夏の時より、すごいっしょ?」
得意げに言ってくる黄瀬くんに、私は首が取れるのではないかってほど、こくこくと何回も縦に動かす。
「一番得意なのは青峰っちのなんすけど、他の皆のも、コピーしてってるんス」
「え…っ!?」
驚きで目を見張る。
青峰くんだけじゃない。緑間くん、紫原くん、赤司くんのもまで。
キセキの世代の技はコピーできないと言っていたのに。
黄瀬くんは、ああ、やっぱり、ものすごく、
「すごい、なあ…」
感動で胸がいっぱいになる。思わずほうっと息をついてしまう。
すると。突然、足がぐにゃりと力を出せなくなった。
え。
体勢を保てず、へなっとその場に座り込む。
「え…っ、林野さん!?大丈夫!?」
ああ、なんだか。黄瀬くんの声がやけに遠くに聞こえる。
大丈夫だよ、と言いたいのだけれど、声が喉にからみついて、うまく出ない。
タタタと黄瀬くんが私にむかって駆けてきて、しゃがみこみ、私の前髪をかき分けて、額にひんやりした手を押し付けた。
「あっつ…!今日顔赤いなとは思っていたど…!もしかして熱、いや絶対熱あるッスよね!?」
誤魔化しきれない、と観念した私はゆっくりと首を動かす。
「なんで言わなかったんスか!!」
「ごめ、ん。その、どうしても、黄瀬くんとバスケ、したく、て…」
ボソボソと言い訳をする。なんて、迷惑な奴なんだろう、私は。こんなことなら大人しく家に帰っておけばよかった。我が儘を押し通して、黄瀬くんに迷惑かけて、かけてばっかで。
「…ごめん、マジで、ごめん…」
体を保つ力が、どこかへ飛んだ。
私はぽてっと黄瀬くんになだれ込み、そのまま。
「林野さん…!?」
意識を、はるか遠くへ飛ばしてしまった。
夢を見た。
ぽかぽかの陽だまりみたいな暖かさにしがみついている夢。
私の体は上下に小刻みに振動していて、それが心地よくて、眠気を誘う。夢なのに眠くなるなんて変な話だ。
あれ、これ、この大きな背中。もしかして、黄瀬くん?
黄瀬くんだ。
私が黄瀬くんの背中を間違えるはずがない。
だって、中学の時からずっと追い続けてきたんだもん。
髪の毛から漂う、ワックスの甘い香りが、鼻孔をくすぐる。
しつこくない、爽やかな甘さ。
バスケをしている時だとか、話している時だとか、私の横を通り過ぎた時だとか、そんなときにね。
ふわっと私の鼻にまで届いて、その度に。
心臓が跳ねるんだ。心が暖かくなるんだ。
この匂い、私、好きだなあ。
うん。好き、好きだ。
すっごく、好きだ。
夢はゆるやかに幕を閉じた。
瞼をゆっくり開くと、白い天井があった。後頭部、背中には、ふわふわした感触があった。
ぼんやりする頭でも、ここが知らない場所ということはわかった。
「林野さん…!よかった、目、覚ました…!」
声がした右の方向に視線を向けると、黄瀬くんがハァッと安心したように息を大きく吐いていた。
ここはどこ?と言いたげな私に気付いたのだろう、黄瀬くんは説明してくれた。
「林野さんち、わかんなかったんで、とりあえず俺んちに連れてきたんス」
ここが、黄瀬くんの家。そしてここは黄瀬くんの部屋なのだろう。
漫画や雑誌が積み重ねられた学習机、フックにはおしゃれな帽子がいくつかかかっている。
コンパクトな折りたたみテーブルにはピアスがいくつか転がっていて、それから二冊のファッション雑誌が置かれている。
ああ、なんだか、黄瀬くん、らしいなあ。
ぼんやりとそう思っていると。私はとある考えに行きついた。
がばっと身を起こす。
「林野さん!?」
黄瀬くんが目を見開いて、驚く。
「わ、私、ここまで黄瀬くんに運んでもらったってコト…!?」
熱を出して、迷惑かけて、そして、足をまだ痛めている黄瀬くんに運んでもらったって。
眩暈をおこしそうになる。自分の、馬鹿さ加減に。
「大丈夫だよ、林野さん軽かったし。それにちょっとッスよ、ちょっと。駅からはタクシー使ったんで」
笑って気にしないで、と言う黄瀬くん。
でも、駅までって。そこまで私をおんぶしてくれたってことじゃん。まだ足完治していないのに。私なんかを、背負って。
いつもそうだ。私は黄瀬くんに、いつも、してもらってばっかりだ。いつもいつも。
ずっとずっと憧れていたんだ。黄瀬くんに。どんなことがあっても、絶対に超えてみせるという心構えを捨てないで、上を目指す黄瀬くんに。ずっとずっと。もちろん、今も。
そんな黄瀬くんと一緒にバスケができるようになって、話をして、黄瀬くんのことを知っていった。
知ってしまった。
尊敬とは違う、感情を。
バスケを教えてくれた。優しくしてくれた。冷たいところもあるけれど、優しい黄瀬くんに、私は、なんてことを。なんて迷惑を。
視界が水でぼやける。
「なにか飲みたいものとか食いたいものとかある―――林野さん?」
優しくて、暖かい声が鼓膜に響く。
「え…っ、林野さん、なんで泣いているんスか…!?」
それは焦った声に変わり。
私は涙が溢れる目元を掌で覆った。掌から雫が落ちて、布団に染みを作る。
「ごめ、ん、ごめん…っ、ごめ…っ」
「だ、大丈夫だって!全然俺気にしてないから!」
「…っ、ごめ…ッ!!」
ごめん、ごめん、ごめん。
何度“ごめん”を言えば、いいのだろう。
何回謝っても、きっとこの罪悪感は消えない。
黄瀬くんは、こんなに私に優しくしてくれたのに、私は君に、最低なことしかできない。
黄瀬くんが一番されたくないことを、私は今している。
ふとした瞬間何をしているのかと思うのも、声が聞きたいと思うのも、姿を見たいと思うのも、君の香りがしただけで胸が押しつぶされそうになるのも、触られると体全体が火照るのも、全部全部。
「気にしないでって、大丈夫だから、マジで」
…ね?と私の頭をぽんぽんと包み込むように、黄瀬くんは撫でてくれる。
黄瀬くんが、好きだからだ。
好きだ。尊敬とかじゃなくて、違う方で、好きだ。恋をしている。これが恋じゃなかったら、私は何を恋と呼ぶのかわからない。
あんなに、嫌がっていたのに。煩わしそうだったのに。
最低だ、とんだ恩返しだ。
そして更に最低なことに、今私を苦しめているのは罪悪感だけじゃない。
黄瀬くんに嫌われたら、どうしようという恐怖も私を苦しめていた。
あの子達みたいに、あんなことを言われたら、思われたら、どうしよう。
黄瀬くん、私もいっしょなんだよ。黄瀬くんが嫌いと蔑んだあの子達といっしょの気持ちなんだよ。
しかも、ごめんと言いつつ、今私は、黄瀬くんに頭を撫でられて嬉しいと思っている。
触れられると、嬉しくて、胸が詰まって、苦しくて、幸せで。この気持ちをかき消すことはできない。
嫌われたら嫌われたでしょうがない。黄瀬くんが嫌いでも、私は黄瀬くんと黄瀬くんのバスケが大好きだから、と思えたあの頃の自分が他人に思える。
今の私はそんなこと到底言えない。とんだメソメソウジウジヤローだ。
「ほんっとにっ、ごめん…ッ」
許されないとわかりつつも、私はもう一度、馬鹿みたいに同じことを言った。
好きになって、ごめん。
ワタクシ、恋してます故
きらわれたくないのです