18、ワタクシ
「よくあの場所にいることわかったね」

そう訊くと、廊下で黄瀬くんが森山先輩とすれ違った時、教えてくれたそうだ。あの髪の毛短い子、明らかに連行されていたぞ、と。

「マジで、焦った。…まだ、痛いッスよね?」

弱弱しく目を伏せたあと、心配そうな眼を私に向けてくれる黄瀬くんに、私は頬に氷をあてながら大丈夫だよと返した。そう返すことしかできなかった。

氷を当てているのに、頬の熱はなかなか冷めなかった。










「なんかひろ顔赤くない?」

二時間目授業が終わったあと、よっちゃんが私の元にやってきて、開口一番、片眉をさげてそう訊いてきた。

「え、まだ腫れ治ってない?」

「腫れは治ってるけど、なんか顔が全体的に赤いっていうか」

よっちゃんはそう言いながら私の頬に手を伸ばす。ぴたりと触れたあと、眉間の皺がさらに深くなって、手を額に動かした。

「ちょ、あっつ…!これあんた絶対熱あるよ!」

「私元々体温高いよ?」

「いや、そういうレベルの熱さじゃないって!ってゆーか、よくそれで学校来れたねアンタ!朝練もどうせしたんでしょ!?凄いってレベルじゃないよ!馬鹿だよ馬鹿!」

「大丈夫だって、昨日夜ちょっと走っただけ」

「はァー!?あの雨の中走ったの!?は!?馬鹿!?ちょっと今日はもう帰んな!!」

「やだ!」

「は!?なんでよ!」

「だって、今日!黄瀬くんと久々にバスケする日だもん!」

そう言い返すと、よっちゃんは呆れて言葉も出ないのか、ぽかんと口を開いたあと、ハァッと息を吐いた。

私は弁解するように「最近、文化祭の準備とかで忙しくて、できなかったから、久々なのに、それを楽しみにして今日学校に来たのに、やめるなんて、絶対やだ…!」と早口でまくしたてる。駄々をこねる。

「あのさァ…」

よっちゃんがため息混じりに何か言いたげに口を開く。私はそれから逃げるように、ガタッと立ち上がり、男子の群れに突っ込んだ。

「ねえねえ、何してんのー!?あ、ジャンプ私にも読ませてー!」

「ちょっ、林野!今週のナルトまじやっべーぞ!」

「え、マジマジどんなの!?」

よっちゃんの何かを孕んだ視線が背中に刺さっているのに、気付かない振りをしながら、私はジャンプを手に取った。













部活が終わったあと、私はいつものように黄瀬くんのところへ突撃した。半年前みたいに、何にも考えずに。黄瀬くんを見ると感じるものから、目を逸らす。

黄瀬くん!と名前を呼ぶと。私に気付いて、目を細ませるところとか、風が金色の黄瀬くんの髪の毛をさらって、揺れることや、私の名前を呼ぶ時の声とか。

そんなことに、何も感じない。感じる訳が、ない。

感じては、いけない。


他愛ない会話をしながら、バスケットコートにやってきた。

「黄瀬くんとバスケするの久々だよね、私今日これを生きがいにして生きてきたんだ!」

「大袈裟ッスねー」

「そっかなー」

「ね、林野さん」

「ん?」

「見てて」

そう言うがいなや、黄瀬くんは掴んでいたボールを一度強く弾ませると、私の横をものすごい勢いで駆け抜けた。

黄色い光が走る。

今のは。

瞬きをする一瞬、瞼の裏で青色の光が点滅して、ガンッと後方で、ボールをリゴールに叩き付ける音がした。

バッと振り向くと、黄瀬くんがぽんぽんと転がるボールを拾って、口の端だけ上げた笑顔を、私に向けた。

「青峰くん、の…!?」

今の動きは、敏捷性は、ゼロからマックスへの加速度は。青峰くんそっくりのプレイスタイルだった。

見るのはあの試合振りだ。

けど、あの時より。

「あれからもっと研究して、青峰っちのコピーが前よりできるようになったんスよ。夏の時より、すごいっしょ?」

得意げに言ってくる黄瀬くんに、私は首が取れるのではないかってほど、こくこくと何回も縦に動かす。

「一番得意なのは青峰っちのなんすけど、他の皆のも、コピーしてってるんス」

「え…っ!?」

驚きで目を見張る。

青峰くんだけじゃない。緑間くん、紫原くん、赤司くんのもまで。

キセキの世代の技はコピーできないと言っていたのに。

黄瀬くんは、ああ、やっぱり、ものすごく、

「すごい、なあ…」

感動で胸がいっぱいになる。思わずほうっと息をついてしまう。

すると。突然、足がぐにゃりと力を出せなくなった。

え。

体勢を保てず、へなっとその場に座り込む。

「え…っ、林野さん!?大丈夫!?」

ああ、なんだか。黄瀬くんの声がやけに遠くに聞こえる。

大丈夫だよ、と言いたいのだけれど、声が喉にからみついて、うまく出ない。

タタタと黄瀬くんが私にむかって駆けてきて、しゃがみこみ、私の前髪をかき分けて、額にひんやりした手を押し付けた。

「あっつ…!今日顔赤いなとは思っていたど…!もしかして熱、いや絶対熱あるッスよね!?」

誤魔化しきれない、と観念した私はゆっくりと首を動かす。

「なんで言わなかったんスか!!」

「ごめ、ん。その、どうしても、黄瀬くんとバスケ、したく、て…」

ボソボソと言い訳をする。なんて、迷惑な奴なんだろう、私は。こんなことなら大人しく家に帰っておけばよかった。我が儘を押し通して、黄瀬くんに迷惑かけて、かけてばっかで。

「…ごめん、マジで、ごめん…」

体を保つ力が、どこかへ飛んだ。

私はぽてっと黄瀬くんになだれ込み、そのまま。

「林野さん…!?」

意識を、はるか遠くへ飛ばしてしまった。



夢を見た。

ぽかぽかの陽だまりみたいな暖かさにしがみついている夢。

私の体は上下に小刻みに振動していて、それが心地よくて、眠気を誘う。夢なのに眠くなるなんて変な話だ。

あれ、これ、この大きな背中。もしかして、黄瀬くん?

黄瀬くんだ。

私が黄瀬くんの背中を間違えるはずがない。

だって、中学の時からずっと追い続けてきたんだもん。

髪の毛から漂う、ワックスの甘い香りが、鼻孔をくすぐる。

しつこくない、爽やかな甘さ。

バスケをしている時だとか、話している時だとか、私の横を通り過ぎた時だとか、そんなときにね。

ふわっと私の鼻にまで届いて、その度に。

心臓が跳ねるんだ。心が暖かくなるんだ。

この匂い、私、好きだなあ。

うん。好き、好きだ。

すっごく、好きだ。



夢はゆるやかに幕を閉じた。

瞼をゆっくり開くと、白い天井があった。後頭部、背中には、ふわふわした感触があった。

ぼんやりする頭でも、ここが知らない場所ということはわかった。


「林野さん…!よかった、目、覚ました…!」

声がした右の方向に視線を向けると、黄瀬くんがハァッと安心したように息を大きく吐いていた。

ここはどこ?と言いたげな私に気付いたのだろう、黄瀬くんは説明してくれた。

「林野さんち、わかんなかったんで、とりあえず俺んちに連れてきたんス」

ここが、黄瀬くんの家。そしてここは黄瀬くんの部屋なのだろう。

漫画や雑誌が積み重ねられた学習机、フックにはおしゃれな帽子がいくつかかかっている。

コンパクトな折りたたみテーブルにはピアスがいくつか転がっていて、それから二冊のファッション雑誌が置かれている。

ああ、なんだか、黄瀬くん、らしいなあ。

ぼんやりとそう思っていると。私はとある考えに行きついた。

がばっと身を起こす。

「林野さん!?」

黄瀬くんが目を見開いて、驚く。

「わ、私、ここまで黄瀬くんに運んでもらったってコト…!?」

熱を出して、迷惑かけて、そして、足をまだ痛めている黄瀬くんに運んでもらったって。

眩暈をおこしそうになる。自分の、馬鹿さ加減に。

「大丈夫だよ、林野さん軽かったし。それにちょっとッスよ、ちょっと。駅からはタクシー使ったんで」

笑って気にしないで、と言う黄瀬くん。

でも、駅までって。そこまで私をおんぶしてくれたってことじゃん。まだ足完治していないのに。私なんかを、背負って。

いつもそうだ。私は黄瀬くんに、いつも、してもらってばっかりだ。いつもいつも。

ずっとずっと憧れていたんだ。黄瀬くんに。どんなことがあっても、絶対に超えてみせるという心構えを捨てないで、上を目指す黄瀬くんに。ずっとずっと。もちろん、今も。

そんな黄瀬くんと一緒にバスケができるようになって、話をして、黄瀬くんのことを知っていった。

知ってしまった。

尊敬とは違う、感情を。

バスケを教えてくれた。優しくしてくれた。冷たいところもあるけれど、優しい黄瀬くんに、私は、なんてことを。なんて迷惑を。

視界が水でぼやける。

「なにか飲みたいものとか食いたいものとかある―――林野さん?」

優しくて、暖かい声が鼓膜に響く。

「え…っ、林野さん、なんで泣いているんスか…!?」

それは焦った声に変わり。

私は涙が溢れる目元を掌で覆った。掌から雫が落ちて、布団に染みを作る。

「ごめ、ん、ごめん…っ、ごめ…っ」

「だ、大丈夫だって!全然俺気にしてないから!」

「…っ、ごめ…ッ!!」

ごめん、ごめん、ごめん。

何度“ごめん”を言えば、いいのだろう。

何回謝っても、きっとこの罪悪感は消えない。

黄瀬くんは、こんなに私に優しくしてくれたのに、私は君に、最低なことしかできない。

黄瀬くんが一番されたくないことを、私は今している。

ふとした瞬間何をしているのかと思うのも、声が聞きたいと思うのも、姿を見たいと思うのも、君の香りがしただけで胸が押しつぶされそうになるのも、触られると体全体が火照るのも、全部全部。

「気にしないでって、大丈夫だから、マジで」

…ね?と私の頭をぽんぽんと包み込むように、黄瀬くんは撫でてくれる。


黄瀬くんが、好きだからだ。

好きだ。尊敬とかじゃなくて、違う方で、好きだ。恋をしている。これが恋じゃなかったら、私は何を恋と呼ぶのかわからない。

あんなに、嫌がっていたのに。煩わしそうだったのに。

最低だ、とんだ恩返しだ。

そして更に最低なことに、今私を苦しめているのは罪悪感だけじゃない。

黄瀬くんに嫌われたら、どうしようという恐怖も私を苦しめていた。

あの子達みたいに、あんなことを言われたら、思われたら、どうしよう。

黄瀬くん、私もいっしょなんだよ。黄瀬くんが嫌いと蔑んだあの子達といっしょの気持ちなんだよ。

しかも、ごめんと言いつつ、今私は、黄瀬くんに頭を撫でられて嬉しいと思っている。

触れられると、嬉しくて、胸が詰まって、苦しくて、幸せで。この気持ちをかき消すことはできない。

嫌われたら嫌われたでしょうがない。黄瀬くんが嫌いでも、私は黄瀬くんと黄瀬くんのバスケが大好きだから、と思えたあの頃の自分が他人に思える。

今の私はそんなこと到底言えない。とんだメソメソウジウジヤローだ。

「ほんっとにっ、ごめん…ッ」

許されないとわかりつつも、私はもう一度、馬鹿みたいに同じことを言った。




好きになって、ごめん。





ワタクシ、恋してます故


きらわれたくないのです




prev next

bkm


top
- ナノ -