■ 08:たぶんきっとそういうこと

 下手くそだった。
 強引に塞いできた唇は粗削りで余裕など一欠けらも見当たらず、衝動に駆られただけのぎこちないキスだった。

 本当に、下手くそなキスだった。




「…くそうぜえ」

 ぼそりと呟いた声は地を這うように低く、ドスが効いていた。友人B、C、Dの笑顔が固まって私を凝視している。「ど、どした?」と恐る恐る問いかけきた、私の神経を逆なでしないようにと努めて発した猫なで声に更に苛立ちを煽られる。私は憮然としながらケータイを三人に見せつけた。

『会いたい』

 四文字のメッセージを送ってきたのは、裕介くんではない。元カレだ。
 束縛が激しいため振った二つ年上の大学生の元カレが何を思ったのか突然『ヨリを戻そう』と言ってきた。裕介くんと付き合っていなくても私に彼とやり直す気は一ミクロンたりとも残っていない。無理と断ってもしつこくしつこくやり直そうと言い募ってくる。

「…毎日毎日しつこくて、ほんっとにウザくてさあ…」

 はあ。鉛を孕んだような溜息を吐いて、舌を鳴らす。耐え切れなくなった私はとうとう着信拒否をしたので、昨日の三時の電話が最後だ。酔っ払っているらしく舌がろくに回らないままでお前がいないと生きていけないと言われたような気がする。イマイチ覚えていないのは眠気に浸された朦朧とした意識にろくに入って来なかっただろう。

 友人Cは困ったように眉をハの字に寄せながら「まあまあ」ととりなすように言った。

「めぐみのことマジで好きだったんだよー」
「そうだよそうだよー。ていうかすっごいかっこよかったよね、めぐみの元カレ!」
「ごはんとかいつも良いとこ連れて行ってもらってたじゃん!私ほんっと羨ましかった!」
「大学生の彼氏っていいよね〜!ドライブとか憧れる〜!」
「そんで駐車してる時の彼氏にきゅんとするんだよね!」
「定番過ぎんだろ〜」
「もっと想像力使えし」

 あははと笑い声が起きて、また次の話題へと移っていく。カッコいい元カレにヨリを戻そうと言い寄られるという現象は彼女達の目には大したことのないように映ったみたいだ。ブサイクならまだしも、カッコいいならいいじゃん?ということなのだろう。彼女達の中で、カッコいい大学生に言い寄られるのは愚痴ではなく、自慢なのだ。自慢をこれ以上続けたらどうなるか。そんなこともわからないほど、私は馬鹿ではない。

 イケメン大学生とどうやったら知り合えるかと訊かれた私は『知らねえよブス』と心の中で毒づきながら「学祭とかいいんじゃないかな」と笑いながら答えた。



 てんてんてんとボールが転がっていった先に、ころころとバスケットボールが回っていた。やがてそれは壁に静かにぶつかって動きを止める。がさ、と草を踏む音に顔を上げる。息を呑む音が降ってきた。

「裕介くんだ」

 やっほー。手を挙げると、裕介くんは私から若干目を逸らしながら「よ、ォ」とボソボソと答えた。相変わらずな反応にやれやれと肩を竦める。

 裕介くんの家に行ってから、彼はずっとこんな態度だ。裕介くんのお母さんの前で完璧に『良い彼女』を演じた私は大層気に入られ、『裕介送ってあげなさい!こんな可愛い子を一人で歩かせたら大変よ!』と追い立てるように私達二人を家から出した。
 裕介くんの脚は長い。なので彼が私の歩幅に合わせてくれないと私はついていけなくなる。先先進んでいく裕介くんに『速い』と不平を零すとポカンと口を開けてからやっと気づいた彼は『あ、わ、りィ』とボソボソと謝ってきた。

『女の子の歩幅に合わせる。これ常識。そんなんだからモテないんだよ』
『…っせえな。別にモテたいとか思ってねえッショ』
『あはは、確かに。モテたいのにその口癖と髪の毛してたら馬鹿すぎてウケる』
『…おっまえなァ』

 ひくひくと口角を痙攣させている裕介くんを笑うと、裕介くんは引っ手繰るように、乱暴に手を繋いできた。指の間に指を差しこまれて掌が密着する。

 …え。

 ぱちぱちと瞬きながら裕介くんを凝視すると、彼はにやりとほくそ笑む。

『お前もそういう間抜け面する時、あんだなァ』

 すっかり虚を突かれてしまい、頬が緩んでいたのだろう。ハッと我に返った私は恥ずかしいやら悔しいやらで頬に込み上げてきた熱を必死に押し戻し、すうと新鮮な酸素を肺に取り入れてから、にっこりと笑った。

『発情してる裕介くんに比べたらマシだとは思うよ?』

 ぼんっと頬に赤みが差して、裕介くんが狼狽えた。

『…かっわいくねェ女』

 そんなこと言われたの初めてと驚きながら返せば、『そうかよ』と苦々しく返された。夏と言えど夜だから少し肌寒かったのに、裕介くんの掌はびっしょりと汗ばんでいた。裕介くんは話すのが下手くそで、すぐに会話が途切れた。
 甘い囁きもない。面白い話もない。手はぐっしょりと汗ばんでいて気持ち悪い。
 今までで一番最悪の帰り道だった。でも、とても綺麗な夜空だった。元カレに連れて行ってもらった高級レストランから見える夜景よりも綺麗だった。月に雲は隠れて、星は少なくて綺麗じゃないのに、綺麗だった。


「男子はバスケなんだ」
「お、う」
「体育館大分遠いけどここまで転がるってどうなってんの」
「…取り損ねたッショ」
「うっわ、ダッサァ」
「ほっとけッショ」

 ごにょごにょと言葉を濁す裕介くんにプッと噴出すと、苦い顔を向けられた。それが面白くて私はまた笑う。こうして話すのはちょっと久しぶりだ。胸の中に蟠っていた苛立ちが少しずつ溶けていく。やっぱり裕介くんは面白い。
 裕介くんは最近よく寝ている。大きな体を折り曲げてすやすやと気持ち良さそうに。部活が最後の追い込みらしく、今まで以上にハードな練習量らしい。一時間目、二時間目、三時間目、四時間目、五時間目、六時間目、もちろん休み時間も寝ている。若干避けられている上にずっと寝ているのだから、当然話す時間はなくなる、というわけだ。

「裕介くん最近全然目合わしてくれないよね〜」
「………そんなことねえッショ」
「そんなに間を空けられて言われても説得力ないよー。あの日のこと〜思い出して〜ドキドキして〜目を合わせられない〜って感じ?」
「…お前、どんだけオレ馬鹿にしたら気が済むんだよ」
「バカにしてないってばー。可愛いとは思ってるけど」

 ふふふと口元に手を宛がいながら私は笑う。裕介くんはじいっと値踏みするように私に視線を注いでいた。ん?と小首を傾げてみせる。元カレは私のこういった仕草を、可愛いと絶賛した。小動物みたいで、守ってやりたくなる、と。

「南条」

 静かなのに、苛烈さを秘めた声が空気を切り裂くように響いた。見上げると、裕介くんがすっと目を細めて鋭い眼差しで私を見据える。突き刺すような視線に捉われて言葉を失っている隙を突いて、裕介くんは厳かに言い放った。

「笑うんじゃねえ。お前が笑ってると、なんか、苛々するッショ」

 そう言い切ると、裕介くんはくるりと背を向けてボールを拾い、去って行った。

 可愛くねェ、とか。笑うんじゃねえ、とか。

「…初めて言われた…」

 あまりにも驚きすぎて怒りは全く沸かなかった。人は予想だにしない言葉を投げつけられると虚脱状態に襲われるらしい。私はいつまでもいつまでも、その場に一人立ちすくんでいた。




 コンパクトミラーを覗き込みながら、にっこりと笑う。うん、可愛い。我ながら可愛い。大きな瞳、長い睫毛、白い肌、うっすらピンクに色づいた頬、小さくぷるぷると艶やかな唇。こんな可愛い顔に笑いかけられたら、男なら悪い気はしないだろう。

 …裕介くんって、変。口の中で声帯を震わせないようにそう呟いてから、立ち上がる。鞄を肩に掛け、廊下ですれ違う友人たちにバイバイと手を振り、下駄箱からロッカーを出し、校門を出ようとしたところで、私の日常は崩された。

「めぐみ!」

 少し久しぶりに聞いたその声に、凍りづけられたように体が固まった。信じられない気持ちを胸に恐る恐る振り向くと、ぱあっと明るい表情の元カレが私に手を振っていた。

 …マジで。

 肩から背中にかけてずっしりとした疲労感が襲い掛かり、圧し潰されてしまいそうだ。元カレとは対照的に陰鬱な表情の私は察していたが「…なに」と一応、形だけの質問を投げかける。

「全然連絡つかないからさ、心配になって来たんだ」

 心配そうに眉根を寄せながら『無事で良かった』と元カレは笑う。とてつもない脱力感に包まれた。着拒されているという考えを微塵も考えていない。何の失敗もなくエリートコースを歩み続けた人間だからか、彼は間違った自信を持っているところがあったが、まさかここまでとは。半年前に彼の告白を受けた自分を殴りに行きたい。

「…やっぱオレ、めぐみじゃないとしっくりこないっていうか」

 うなじに手を回しながらしんみりとした口調で語る元カレに『知らねえよ』と心の中で返す。
 あんたには私じゃないと駄目かもしれないけど、私はあんたじゃなくてもいいの。…まァ、本当は。

 ぺらぺらと情熱に溢れた愛の言葉を回す元カレをそっと見上げながら、静かに思う。

 この人も、私じゃなくて大丈夫なんだけどね。

 私じゃないと駄目だと、彼は必死に言う。切々と懇願するように想いを紡いでいく彼を、私は白けた気持ちでしか受け取れなかった。本当は別れたくなかった、と悲しそうに目を伏せる。別れを告げた日にしつこく食い下がってきてそれでも頑として私が首を振らないでいると『あーいいよ別れてやるよ!!』と逆ギレした姿を見てしまったので、もう何を言われてもただただ白々しい。プライドが高く、負けを認めない。この人の私への執着心は愛情から来ているものじゃない、フラれたという汚点を、より戻すことで消したいだけ。

「他の子と付き合ってみて、めぐみのことマジで好きだったんだって痛感した」

 多分、私より可愛くなくて『元カノのが可愛かったな』って友達に笑われたんだろうな。真剣に訴えかけてくる元カレを見ながら冷静に分析する。類は友を呼ぶ、彼の友人は彼女で友人のレベルを図るような人間ばかりだった。だから元カレはこぞって私を紹介したし、『すっげえ可愛い!!』と褒められる度、まるで自分が褒められたように鼻を高くしていた。いや、ある意味自分が褒められたものか。この人にとって彼女という存在は、アクセサリーだ。
 別にそういう人間は嫌いじゃない。自分の地位を高めたい。羨ましがられたい。そう思わない人間がどこにいようか。元カレのことも嫌いではない。嫌いではないけど、鬱陶しくなった。飽きた。だから振った。それだけだ。
 確かに私は可愛い。可愛いけど、可愛い子はたくさんいる。代えなんてたくさんいる。こんなに固執して、馬鹿みたい。

 左右に目を動かして辺りを確認すると、当たり前だが好奇の目に晒されていた。誰もかれも興味深そうに私達を見つめている。カッコいい大学生と校内でも指折りの美少女が痴情の縺れを展開しているのだ。明日から私は噂の恰好の餌食だろう。

「…めぐみ」

 切なげに、私の名前を呼ぶ。私のことを確かに瞳に映しているが、見てはいない。見ていたら、夜中に電話なんて掛けないし、私の体裁を気遣ってこんなところで話さない。

 嫌いではない。嫌いではない、けど。

「…うぜえ」

 ぼそっと本音が落ちた。

「…え?」

 イケメンは間抜け面でもイケメンだと冷静に思いながら腕を組む。静かに見据えながら「うざい」と、はっきりと言った。なるべく穏便に済まそうと『気持ちは嬉しいけど』とのらりくらり躱していた代償がこれだ。もうずったずたにプライドを傷つけて、二度と関わらせないようにしないといつまでも付きまとわれる。そう思った私は更に毒々しい言葉を叩き付けた。

「私はもう興味ない。うざい。しつこい。連絡つかないのは私があんたを着拒したから。…なんで気付かないの?」

 ハッとせせら笑うと、ぽかんと呆けていた元カレの顔が徐々に赤らんでいった。今更理解したのか。頭の良さと、勉強が出来るはイコールではないと私は改めて思った。

「あんたはフラれたの。…フラれたって事実がそんなに嫌なら、私がフラれたってことにしてあげてもいいけど?」

 唇を三日月にしならせて嘲笑を滲ませる。元カレの目が見開かれて、固まった。真一文字に結ばれた唇が震え、それは次第に全身に伝わっていく。

「ざっけんなよこのクソアマ!!」

 唸るように低い声が端正な唇から放たれ、視界の端で大きく振りあげられた腕を捉えた次の瞬間に、頬に強い衝撃を受けた。私の身体では支えきれないほど大きく、耐え切れずに地面に突っ伏す。

 騒然とする周囲の声が聞こえてきて、ああ明日から本格的にめんどくさいことになるなと冷静に判断する。ちょっと下手に出てりゃいい気になりやがって、とかそういった言葉が降り注いでくるが耳から耳を通り抜けて行った。バン、とドアが強く閉められた音が響く。校門前に停めんなと毒づいてから排気ガスに噎せながら立ち上がる。

 水を打ったように静まり返った中、スカートの埃をぱんぱんと払っていると、荒く大きな足音が近づいてきて。

「…!?」

 声にならない叫びが降ってきた。

 顔を上げると、風に揺れる緑色の髪の毛と額に汗を滲ませて呼吸を乱している裕介くんが立っていた。

「まき、まきしまさ、は、あ、はあ…ひい…」

 大分遅れてから、裕介くん以上に呼吸を見出し、ぐるぐると目を回らせている小野田くんが到着した。その間も、裕介くんは目を見開いたまま私を凝視している。

「…部活じゃないの」

 呆然自失としている裕介くんに私から言葉を掛けると、裕介くんは「え」と意味の無い言葉を零してから「おの、だ、に、」と舌をもつれさせながら続けた。

「お前が、変な男に絡まれてるって」
「変な男」

 確かに、と思いながら笑う。一応過去に付き合っていた人間が『変な男』扱いされていることがなんだか面白くて、笑った。
 けど、笑っている私とは対照的に、裕介くんの眉間に皺が刻まれる。

「…どういう関係ッショ」
「えー、何疑ってるのー?」
「茶化すな」

 低く怒気を孕んだ声に一瞬気圧される。私を睨む裕介くんの目は視線だけで誰かを殺せるんじゃないかと言う程鋭かった。舌で乾いた唇を湿らせてから「元カレに付きまとわれてた、みたいなー」と、笑った。

「…は?知らねえんだけど、オレ」
「当たり前じゃん、言ってないもん」

 裕介くんの眉間の皺が更に深くなった。釣られて、不穏な気配が更に濃くなる。

「なんで言わねえッショ」
「付き合ってるからって何でもかんでも言うわけないじゃん。お子ちゃまだなあ」

 小首を傾げて、ふふっと可愛らしく笑う。男はみんなこういう仕草が大好きだ。守ってあげたくなるって、可愛いって、みんなみんな、口を揃える。

 ブチッと、何かが切れる音がした。

「ケータイ」

 地を這うような低い声だった。端的に告げられた単語を一瞬で理解できず、また裕介くんの放つ淀んだ雰囲気に言葉に詰まって何も言えないでいると「ケータイ、寄越せ」と、もう一度、言った。首筋にぞっとするような恐怖を覚え、息を呑む。言われるがままに、無言でケータイを渡すと、引っ手繰るようにして奪われた。

 彼が何をしようとしているのか理解した。

「や、別にいいよ。もう来ないと、」
「喋ったら死刑」

 おろおろしている小野田くんが「し、しけ…!?」と目を見開かせた。淡々と告げられた死刑宣告。普段だったら小学生かよと一蹴するが、今の裕介くんだったらやりかねない、なんて、馬鹿げたことを本気で思った。それくらい、裕介くんは怒っていた。

「…東堂以上ッショ」

 ぼそっと呟いてから、裕介くんはケータイを耳に宛てた。緊迫した沈黙が流れる。少し経ったあと「もしもしィ」と、裕介くんは軽快な口調で話し始める。けどそこに、温もりはなく、底冷えするような冷たさだけがあった。

「残念だったなァ、もしかしてって思ったァ?あいつが殴られてもあなたのこと好きなのとか言うような女じゃねえって付き合ってたらわかるッショ、普通」

 ハッと嘲り笑う声にカチンとくるが、まあ実際そうだ。私はそんな殊勝な女ではない。裕介くんは、唇に歪んだ笑みを浮かべながら喋り続けた。

「まァ、今、付き合ってるヤツッショ。…んなこたァ、わかってるよ。そんなことより、あんた、何年?もうすぐ、就活とかあんじゃねえのォ?」

 歪みが更に増す。細められた瞳の奥には暗闇が広がっていた。

「ストーカーした挙句女を殴るような男、雇ってくれるとこあんのかねェ」

 裕介くんは笑っていた。でも、いつもの気持ち悪い下手くそな笑顔じゃない。ゆるりと解けるような、柔らかい微笑みじゃない。怒りに歪んだ、冷たい笑顔だった。

「…まき、しまさん」

 小野田くんのからからに乾いた声が、私の鼓膜を揺らす。すうと息を吸いこむ音すら、よく聞こえた。

「…二度と近づくんじゃねえよ」

 近づいたら、死刑。

 ボソッと、独りごちるような声量だったのに。それはとても重くて私の鼓膜に深く響いた。

「―――いっ」

 不意にぐいっと手首を掴まれた私は、裕介くんに問答無用で学校の中へ連れて行かれる。ちょっと、と声を掛ける隙も与えないように、裕介くんは声を張り上げた。

「小野田ァ!」
「え、あ、はははははい!」

 突然裕介くんに呼ばれた小野田くんはピシリと背筋を正す。裕介くんは振り向きもせずに、大きな声を上げた。

「夜死ぬ気で練習すっから遅れるって金城に言っとけ!!」
「わ、わかりました!!」
「え、部活、」

 行きなよ、と続けようとしたら。裕介くんに目で『喋んな』と言われたから私は口を噤むことしかできなかった。


 保健室に連行された私は、焦った先生に処置をしてもらったあと、今度は教室に連行された。オレンジ色の光が差し込み柔らかな雰囲気に包まれているが、私達の間に流れるものは暗く淀んだ殺伐としたもの。沈黙は重苦しく、息を吸うことすら困難だ。

「…痛い」

 未だに繋がれている手首が痛くて、抗議の声を静かに上げる。が、裕介くんはじっと私を見据えるだけで答えない。突き刺すような視線が心苦しいが逸らしたら負けのようで、平静を装いながら私も視線を返す。交錯した視線は静かで冷たい。液体窒素をぶちまけたように周囲の空気も凍てつかせていた。

「付き合うって何」

 突然落とされた呟きに、「…え」とワンテンポ遅れてから反応する。裕介くんは依然としてじっと私を冷たい目で見据えたままだった。

「わかんねえんだよ、お前知ってんだろ、経験豊富だもんなァ」

 馬鹿にするような物言いに、心の底から不快感を覚えた。眉間に皺が寄るのを感じながら「そーだねえー」と、口角を上げる。

「この前初キス終えたどーていだもんね、知らないよねえ」
「無駄に経験ばっかあって、実際何も知らねえお前よりはましッショ」
「…は?」

 全てを圧するような声が自然と零れ落ちた。いつもの裕介くんなら簡単に臆するだろう。けど、今日の裕介くんは痛くもかゆくもないらしく、真っ向から受け止めて「だってそうだろ」とせせら笑う。

「別れた女に付き纏った挙句殴るような男とばっか経験してたって意味ねえッショ。オレのがまだマシだ」
「…裕介くんさ、何調子乗ってんの?」
「乗ってねえヨ。―――キレてはいるけどな」

 ぎゅうと手首を掴む手に、更に力が籠められた。たまらず顔を歪めるが一向に力を緩める気配はない。不穏な光を湛えた瞳に捉われて、圧迫感が胸に迫った。

「ベタベタした関係はオレも嫌いだ、全部言えとは言わねえ。オレだってお前に言いたくないことあるッショ、けどよ、元カレにストーカーされて困ってるって、普通言うことじゃねえの?言うまでもねえって?わざわざ学校まで来るような男に付き纏われといて?」
「…今日はよく喋るね」
「話逸らすんじゃねえ!!」

 空気をびりびりと震わせるような怒鳴り声に、びくっと肩が竦む。その拍子に肩を、痛いほど強く鷲掴みにされた。「いたっ」と私が悲鳴を上げるにも構わず裕介くんは、声を荒げた。

「ただいちゃつくのが付き合うってことじゃねーだろ!!」

 殴られた時以上の衝撃が身体を貫いて、私は目を大きく見張った。裕介くんはそのまま言葉を重ね続ける。

「彼女の悩みとかそういうの何とかしたいって、何とかすんのが彼氏だろ!!言わなきゃわかんねえッショ!!わりィなァ、童貞だから察するとかそういう能力ねえ、ん、」

 裕介くんの声の調子が尻すぼみに消えて行った。それに伴い、どんどん目が見開かれていく。

 冷たい雫が溢れ出して、ぽろりと頬を転がり落ちた。
 水膜が張られた向こう側で、裕介くんがサァッと青ざめたのがなんとなくわかった。

「え、ちょ…っ」

 ようやく手首を離されて、私は顔を覆いながら静かに泣きはじめた。

「わ、わり…!えっと…!そ、その、オレ普段キレねえから、加減が、その…!マジでごめん…!!」

 おろおろと慌てている声は、もういつもの裕介くんだった。安心した私は震えながら泣けば泣くほどひそやかさは増して、まるで夜明けの入り江に潮が満ちていくようだった。

「…すけ、くん、が、」
「えっ、あ、オ、オレ!?オレがどした!?」
「ゆ、すけ、くん、なん、か、ぶか、つ」

 次々に嗚咽が込み上げてくるものだから上手く喋れない。もどかしい。胸は沸騰するように熱いけど頭は冷えていて『こんなにみっともなく泣くのはいつぶりだろう』と思っていた。
 鼻の下に何かが垂れている感触がある。多分鼻水だろう。いくらウォータープルーフと言えど、これだけ泣いたら多少は崩れているに違いない。ああみっともない、みっともない、みっともない。

「ぶか、つ、いそがし、そう、だから、じゃましちゃ、いけない」

 って、思って。
 必死になってそう紡いだ声は、ひどく掠れていて、静かに空気の中へ溶け込んだ。

 裕介くんは喋るのが下手くそだった。得意分野なら喋れるかと思い、部活どうなのとさりげなく聞いてみた。それでも裕介くんは話が下手くそで、まァうん、とか、それなりに、とか、要領を得ないつまらない返事ばかりだった。
 それでも根気よく根気よく、話を聞きだしていくと、小さな子どものように透明な輝きを瞳に宿して、下手くそな笑顔を浮かべた。
 全く興味ない話題だ。裕介くんから聞くと面白く聞こえたというわけでもない。
 それでも、なんだか、聞くだけで幸せになれた。

 ハンカチを取り出して、目元にぽんぽんとハンカチを押し当ててからそっと鼻の下を抑える。裕介くんにちらりと視線を寄越すと、呆然としていた。まさか私が泣くとは思わなかったのだろう、私も思わなかった。

「…健気でしょ」

 フンと鼻を鳴らしてそう笑いかけると、裕介くんは「クハッ」と挑発的に笑った。

「そういうの、お前に似合わねえッショ」

 そう言って、私の両方の手首を掴んで端に避けた。じいっと視線を注ぎこまれる。普段なら見返すところだがこの崩れた状態では分が悪く、「…なに」と目を逸らしながら、つっけんどんに答える。

「こっちのがいいなァ」
「…は?」
「ぐちゃぐちゃの顔面のが、オレ、好きッショ」

 ニィッと憎たらしげに口角を上げた裕介くんを、私は呆けた顔で見つめる。

「…裕介くんって、よく変な趣味って言われない?」
「なんでか言われる」
「…やっぱり」

 頬が自然と緩んで笑うと、裕介くんは少し固まってちらと視線を明後日に泳がす。
 オレンジ色の優しい光が緑色の髪の毛を照らして、とても綺麗だった。



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