■ 07:そういうものでできてるよ

 南条めぐみは可愛い。
 人の美的センスというのはそれぞれだが、まァ、この世の大抵の人間がアイツを『可愛い』と評するだろう。
 くりくりの大きな瞳、そばかすひとつない滑らかな白い頬、すっと通った鼻筋。艶のある長い睫毛。どことなく醸し出される倦怠感は、なんか、エロい。
 というわけで。

「いーいーなーいーいーなー、まーきしまくんっていーいーなーーー!!」

 そんな奴の彼氏であるオレは全身全霊でやっかまれている。

 体育後、むさ苦しさが充満している男子更衣室で久々に『可愛い子って誰だ』トークになった。南条はその手の話題の常連だ、当然登場する。『やっぱ南条さんだよな〜』と男子Aがなにげなく口にすると、全員の視線がオレに集まった。じっとりとした嫉妬の眼差しが体中に突き刺さって痛い。

「巻島別に南条さんのこと何も言ってなかったくせにさ〜。何ちゃっかり付き合ってんだよ〜」
「それ前も聞いたッショ」
「しょうがねえだろ羨ましいんだから!!あ〜いいな〜、いいな〜。ハァーーー…」

 がっくりと肩を落としながら鉛を孕んだかのような重たい溜息を吐く男子Aを見て、戸惑いと喜びが入り混じった複雑な気持ちに包まれる。

『私と付き合えば、クラス、ううん、学校中の男子から一目置かれるしさ』

 いつかの南条の言葉が人を食ったような笑みと伴に浮かび上がり、確かにな…と今更同意する。南条と付き合い始めてからオレは周囲の人間から、少し尊敬の目で見られるようになった。毎日のように南条はどうだと問い詰められる日々。正直うぜえッショ。

「いいな〜南条に誕生日祝ってもらえるとかさ〜」

 男子Aが嘆いた時、心に一拍の空白が生まれた。誕生日…?と首を傾げてから「あ」とぽろりと零れ落ちた。

「そういやオレ、明日誕生日だったッショ」
「は!?お前忘れてたの!?」
「合宿とか色々あって忘れてたッショ」

 あんぐりと口を開けて信じられないといった顔でオレを見る友人Aを横目に、ぽりぽりと頬を掻きながら「いやでもなァ…」とぼやく。
 南条がオレの誕生日を祝う。なんだか、あまり想像がつかない。
 南条とオレは付き合っているが、互いに恋愛感情を持っている訳ではない。笑顔が見られればそれで良いとか、胸がぎゅうっと締め付けられるとか、そういった感情を味わったことがない。一緒にいるとドキドキするっちゃあするが、あれは南条が『可愛い』からだ。好きだから、というわけではない。南条も南条で、オレに気がある素振りを見せたことは一度たりともない。ビジネスのような交際関係、そこに温度はない。感情は淡々と凪いでいる。
 別にそういう関係は嫌いじゃない。
 けど。

 あの日網膜に焼き付いた、歪んだ大きな瞳。ぞくりと肌が粟立ち、内側から心臓を掴まれたような衝撃。







「―――巻島さん?」

 ハッと我に返ると、眉を寄せた小野田がオレの顔を覗き込んでいた。「体調悪いんですか?」と心配そうに続けてきた小野田に「何もねえッショ」と笑ってから、今日の走り具合を褒めてやると、ぱああっと表情を明るくさせた。わかりやすい奴、と思わず笑いを零しながらロードバイクを押していくと、前方から上擦った馬鹿でかい声が聞こえてきた。

「おっわー!オッサン!!見て見てあの別嬪さん!!めっちゃかわいい!!も、もしかして…!!」
「あ? あ〜、それは絶対ねえな。ご愁傷様」
「なんやねんその断言は!!聞いてみなわからんやろ!!」
「いーや。聞くまでもねえな」

 前方の田所っちと鳴子はいつものように馬鹿でかい声で言い合いをしていた。ふいに、田所っちが振り向いてにやりとオレに笑いかけてきた。

「巻島ァ、今日、やっぱ無しな」

 突然、全く悪びれることなくドタキャン宣言をされて「は?」と面食らう。今日、オレは誕生日ということで金城と田所っちがメシを奢ってくれるという話になっていた。「え」と呆然するオレにニヤニヤ笑いかけたまま、田所っちは親指を己の向こう側に向けた。釣られるようにして、その先に視線を辿っていくと―――息を呑んだ。

 ふわりと巻かれた髪の毛、淡い水色のワンピースの上に白いカーディガンを羽織っている、清楚な佇まいの美少女と視線がぶつかり合う。
 そいつは、南条は小首を傾げてにっこりとほほ笑んだ。



 ちょこんと行儀よく座りながら、南条は興味深そうにしげしげとオレの部屋を見渡していた。

「噂には聞いてたけど、ほんとおっきいねー」
「…ほら、これ」
「わ、ありがとー」

 カチャリとテーブルの上に紅茶とクッキーを置くと、南条は「おいしそ〜」と嬉しそうに笑った。今家には誰もいない。チクタクと進む秒針の音がやけに鮮明に大きく聞こえる。

 南条は今、オレの部屋にいる。何故、こんなことになったのかというと。


 驚きで目を最大限に見開かせながら『な、おま、どうして、』と舌をもつれさせながら小走りで近寄ると、南条はふふっと笑ってから、勿体ぶるようにゆっくりと喋った。

『まず、裕介くん。ハッピーバースデー』
『あ、サンキュ…って、だから、』
『せっかく誕生日なんだし、学校休みだからって会えないのもなんだかなーって思って、どうせならサプライズしよっかなーって思って、』

 大きな瞳は緩められ、うっすらとチークが色づいた頬にくぼみが浮かぶ。にっこりとした愛らしい笑みだった。

『来ちゃった』

 南条が茶目っ気たっぷりにウインクすると、小野田と鳴子がロードバイクを倒した。鳴子お前頭だけじゃなく鼻も赤くしてどうすんだ。

『わ、小野田くんだいじょうぶー?自転車倒しちゃってるよ?』
『えっ、あっ、はいっ。スミマセン!!』
『いや私に謝ることはないけどー』

 口元に手を宛がいながらふふっと笑う南条に小野田はますます顔を赤らめる。『あ、あの!』と上擦った声が飛んできて、南条が『ん?』と顔を向けると髪の毛以上に顔を真っ赤にした鳴子が唾を飛ばしながら質問した。

『巻島さんと付き合うとるんですか!?』
『うん』
『即答ー!!うおおお!!』

 鳴子はきらきらと尊敬に輝いた瞳でオレを見上げながら『巻島さんめっちゃすごいですやん!!』と言う声は興奮で溢れていた。オレが手練手管で南条を落としたのならその賞賛は素直に受け止められるが、何が何だかよくわからないうちにギャンブルするように付き合い始めたので、南条を『落とした』という実感がどうもいまいちピンとこない。『ハハ』とぎこちなく口の端を持ち上げると、鳴子は『うわ』と少し仰け反った。うわ、って何ッショ、うわって。

『はいプレゼントー』
『え、あ、おう、サンキュ』

 上品な小さな白い紙袋を押し切るように渡されて、狼狽えながら受け取る。

『これから時間ある?』
『あるぜ』

 オレが答えるよりも早く、田所っちがオレの肩に手を回しながら強く言い切った。

『いいのー?これから田所くんと何かあるんじゃないの?』
『いいんだよ!むさい男に祝われるよりも彼女に祝われる方がコイツも嬉しいだろ!』

 ガハハと大きく笑う田所っちに背中を強く殴られ「いてェ!!」と悲鳴が上がる。よろめいたオレを心配するのは小野田だけで(『ま、巻島さあん!』と情けない声が有難かった)、鳴子も興奮しながら『そうですよそうですよ!』と便乗した。

『こんな熊みたいなオッサンに祝われるよりもお姉さんみたいな別嬪さんに祝われる方が男冥利に尽きるわ!』
『ほ〜〜う、言うじゃねえか〜〜?』
『うわーー!!なにすんねん!ちょっ、待っ、ギブギブギブ!!』

 田所っちのヘッドロックから逃れようと太い腕をぺしぺしと叩いている鳴子を南条はにこにこ笑いながら眺めていたが、緩やかにオレに視線を移した。視線と視線が繋がって、大きな瞳に捉われる。一瞬息が詰まった。

『じゃあどうする?これからどっか行く?』

 小首を傾げて問いかけてきた南条に思考が止まった。え、どっかって。…どこッショ。なんせ彼女いない歴=年齢だ。女友達も姉も妹もいないオレに女子が好むところなんて皆目見当がつかなかった。なんか女は黒猫と魔女のぺちゃくちゃサラダとか訳わかんねえ名前のメニューが載ってある店が好きだというのは聞いたことあるが、そんなのオレが知っている訳がない。親に連れて行かれた高級フレンチは高校生だけで入るには敷居が高すぎる。田所っちに聞いてみ…駄目だ、吉〇家とか答えそうッショ。鳴子…はサイ〇リヤとか言いかねない、小野田…すまん、論外ッショ。お前のこと信用してないとかそういう訳じゃねえんだけどよ…!ちっくしょー、どうしてこういう時に限って金城いねえんだよ!!

『オ、オレんちとかどうッショ?』

 ひく、と口の端が痙攣するのを感じながら口角を上げる。

 小野田はいつも通りのほほんとしていた。けど、田所っちが、鳴子が、大きく目を見開いて。南条がふるりと睫毛を震わせて。場がしいんと静寂に包みこまれたことにワンテンポ遅れてから気付いたオレは、自分がなかなかとんでもないことを口走ったことにようやく思い至った。

 サーッと体から血の気が引いていって、慌てて訂正の言葉を継ごうと口を開いた。が。

『うん』

 南条はにっこりと笑う。

『お邪魔させてもらおうかな』

 透明なベールに包みこまれた笑顔の奥に潜んでいる感情は、さっぱり読み取れなかった。




「噂に聞いてた通り、ほんとにお坊ちゃんなんだねー」
「…どっからそんな噂流れてんだよ」
「ふふー、どこでしょう?」

 南条はゆるりと目を細めて意地悪げに笑う。…こういうのに弱い男は弱いんだろうなと冷静に判断しながらティーカップに口をつけた。南条もオレに倣って唇を寄せた、かと思うと、ふうふうと息を吹きかけ始めた。

「猫舌?」
「うん。すぐ火傷しちゃう」
「…なんかわかるッショ」

 猫は死期を悟ると人知れずに去って行く。猫がどういう思惑を抱いていたのか、飼い主は最初から最後まで知ることない。のらりくらりと躱してばかりで笑顔の奥に潜む真意を悟らせない、そんな南条と重なって見えた。

「プレゼント、開けていいか」

 ぼそりと籠った声で問い掛けると、南条はようやく紅茶を飲み始めたところだった。ごくりと白い喉が上下に動く。「いいよー」と笑った。

 白い紙袋の奥底に手を伸ばすと、白いリボンに結ばれた黒く四角い箱が現れた。しゅるりと解いて蓋を開ける。照明が反射してきらりとそれは輝いた。シンプルなシルバーのネックレス。オードソックスな型で、はっきり言ってオレの好みではない。

「裕介くんみたいなお坊ちゃんには、ちゃちいかもしんないけど」

 少し照れ臭そうな声に顔を向けると、南条がふふっとはにかんでいた。和らいだ頬にあどけない口元はいつもより少し幼く見えた。

 あ、可愛い。

 いつもより、すとんとその感情が胸に落ちた。…まァ、計算だろうけどな、どうせ。オレが顔を赤らめようものなら『裕介くんかわいい〜』とけたけた笑いだすのだ。流石にもう手口は読める。

「そんなことねえッショ。ありがとな」

 けど。嬉しいという気持ちは紛れもなく本物で自然と零れた笑みをそのまま浮かべる。例え、好みじゃなくても嬉しかった。…チョロいって思われてんだろうなァ、と小さく自嘲を零す。南条の目が一瞬だけ大きく見張られた。唇が小さく開かれて少し震える。そっと瞼を下ろしてから「裕介くん」と静かに呟いた。哀愁漂う仕草を少し不審に思いながら「ん?」と答える。

「ちょっと、そこ座って」

 南条はベッドを指した。なんで、そう問おうとしたら、じいっとオレを見つめる大きな瞳に静かな意思が瞬いていた。抗えないものを感じ、「…おう?」と腑に落ちないままベッドに腰を下ろす。

 柔らかい髪の毛が頬に触れた。ふわりと甘い匂いが鼻をくすぐる。

 ―――What are little girls made of?

「オマケ」

 オレを見下ろす細められた瞳の奥で、ぴりっと痺れるような光が弾けている。

 ガキの頃、母さんが歌ってくれたマザーグースの歌が、ぶつぶつ途切れながら頭の中で再生される。女の子は何でできてるの、ってそんな歌で。そうだ、たしか、こんな風だった。
 オレの膝の上に座る南条のように甘ったるくて、でもスパイスも効いていて。ああでも最後にもうひとつ、もうひとつあった。

「気持ち良くしてあげる」

 世界中の宝を凝縮したような極上の笑顔を湛えながら、南条は小首を傾げる。

 思い出した。砂糖とスパイスと―――all things nice=c素敵なものをいっぱい、だった。艶めいた甘美な笑顔にぼうっと見入りながら、ああ確かになと納得して―――。

「!?!?!?!」

 言葉にならない悲鳴を上げた。

「え、お、おま、は、え、ちょっ、え、は、ちょ」
「テンパってる〜かわいい〜」

 南条はけらけら笑いながら人差し指でつんつんとオレの頬を突いてくる。触られる度に、熱が込み上げてきて体は今にも爆発しそうだ。

「そっかそっか、初めてか。だいじょうぶ、私も筆下ろし初めてだから」

 下ネタとは無縁そうな可憐な顔立ちから『筆下ろし』という単語が出てきて、酸素を求める魚のようにぱくぱくと口を開閉することしかできない。コイツこんな良いお嬢さん風な恰好しといて何言ってるッショ…!!筆下ろしって、筆下ろしって、筆…!!

 ―――『私も筆下ろし初めてだから』

 不意に引っ掛かりを覚え、熱くなっていた思考が冷やされた。初めてだから、とは言わなかった。筆下ろしが初めてだと言ったのだ。それはつまり。

 頬に両手を添えられてそっと上を向かされる。影が落ちてきて、柔らかな前髪が額に触れて―――何かが唇を掠める。

 紅茶の味がした。

 そっと後ろに押し倒されて、ベッドに沈みこんだ。南条は「よっと」と呟きながらオレの上に跨る。ひ弱なオレでも耐えられるほど軽くて吃驚した。

「お前、今、」
「今?」

 きょとんと首を傾げる南条に「き、す」と戦慄くように震えた声を落とすと「ああ」と平然と頷いた。

「したね」
「したって」
「いいじゃん。裕介くん私のこと嫌いじゃないでしょ?」
「嫌いじゃねえ、けど」
「じゃあ別にいい―――ああ、でもそっか。初めて?かあ」

 少し眉間に皺寄せて「もーちょっと雰囲気出せば良かったね〜?ごめんね〜?あ、自分からしたかった〜?」と首を傾げながら、芝居がかった仕草で謝る。
 ちりっと、腹の奥底で何かが焦げた。

「…馬鹿にしてんのか」
「えー、してないよー?可愛いなーとは思うけど」

 ゆっくりと覆いかぶさりながら、南条はふんわりと微笑む。その笑顔の奥底に潜むものが何か、やっぱり今もわからない。

「じゃあカウントしなきゃいいよ。私もそうしたし」

 さらりと零れた言葉に、一瞬思考回路が停止した。「…は?」と声が漏れ、眉間に皺が寄った。「あ、」と南条は口を押える。面倒くさそうに「あ〜…」と呟きながら、ふうっと息を吐いた。

「今のどういうこと、ッショ」
「いやもういいじゃん。ね」
「良くねえよ」

 険のある声に自分自身が驚いた。瞳孔をぎゅうと狭めて鋭い眼差しで睨みつける。南条は笑顔から一変してすうっと目を細めたかと思うと大仰に溜息を吐く。更に煽られた苛立ちがどろりと胸に垂れこんできた。

「好きじゃない男にキスされたのが私のファーストキスです。これでいいですか」

 淡々と投げやり気味に放たれた言葉に、目を見張った。しかし南条はそんなオレの反応を見て、はっとせせら笑った。

「あ、同情とかいいよ?イケメンだったから別に嫌とまではいかなかったし。キスなんてたかだ口と口くっつけるだけだし、セックスだって似たようなもんだよ。さっき私にキスされたけど、別に何も変わんなかったでしょ?」

 南条は付け込む暇など与えないと言うように饒舌に喋る。はらりと落ちてきた髪の毛を鬱陶しそうに耳に掛けて、また笑った。

「恋愛感情なんて人間が子ども作るためにでっち上げた適当な理由だよ」

 被虐的に緩んだ唇に、狡猾的に細められた瞳に―――、オレの中の何かがブチッと音を立てて途切れた。

 華奢な身体は簡単に引っくり返すことができた。枕に髪の毛が広がった拍子に眩暈を誘うような甘い匂いに、無性に腹が立った。呑みこまれないように、ぎりと奥歯を噛んでから、小さく柔らかな唇に乱暴に重ねる。内側から焼き尽くすような怒りに身を任せながら、無理矢理唇を舌でこじ開けると、南条は抵抗するどころか自分から絡めてきた。舌の裏を吸われて、とろけるような熱に犯されていく。

「…次、わかる?」

 薄く湿気が張られた瞳が挑発的に色づいていた。南条は呼吸こそ乱しているものの、余裕に溢れた笑顔だ。

「…かよ」
「…へ?」

 南条を真っ直ぐに見据える。紅潮した頬、唾液で濡れた唇、南条のひとつひとつのパーツが全力で男を誘っている。
 南条とヤれたらそれこそ『男』として最高の幸せで、最高に気持ち良くて、箔がつくことだろう。
 けど、オレはそれ以上に。

「お前は、誰と何話しても、食っても、キスしても、全部一緒なのかよ」

 南条の瞳が大きく見張られて、瞳の奥が大きく揺らぐ。
 あの日のように、ぞくりと肌が粟立った。どくどくと唸るようにして循環する血液を感じながら、太腿に手を伸ばすと、南条は「ん」と声を漏らす。虚を突かれたらしく、悔しそうに眉を寄せながら視線を横に逸らした。ぞく、とまたしても熱が込み上げる。服の上から胸を触ると、甘い吐息をかけられて、電撃が体を一直線に駆け抜けて。

What are little girls made of, made of?
What are little girls made of?
Sugar and spice
And all things nice,
That's what little girls are made of.

 ―――ガキの頃に聞いた、母さんの歌声が脳裏に過った。

「ただいま〜!」

 …は?

 …なんか今、普通に母さんの声が聞こえて様な気が…。妙な沈黙が横たわる中、南条と視線を交わらす。ぱちぱちと瞬いている南条はふうと仕方なさそうに息を吐き「どいて」と冷静に言った。あまりにも平然とした態度についていけず「え」と間抜けな声を漏らすオレを、南条はぎろりと睨みつけてきた。

「はやくどいて。裕介くん、お母さんにこういうとこ見られたいの?」

 起伏の無い声に、今更ながら実感が沸きあがってきてサアッと血の気が引いていった。「裕介〜?帰って来たわよ〜?」と階段を昇る音が近づいてき―――やっべえ!!

 超高速でベッドから降りて正座したオレとは対称的に、南条は落ち着き払った態度で髪の毛を手で梳かしながら、そっと床に腰を下ろした。

 ノックをしてすぐにバタンとドアが開かれ「ゆうす…あら?」と目を丸くした母さんが現れる。ノックしてからすぐ開けたら意味ねえって何回も言ってんのに、これだ。
 南条は笑う。綻び一つ見えない綺麗に整った笑顔を母さんに向けながら「はじめまして」と穏やかに言った。

 透明なベールをやっと引き剥がせたような、そんな気がしたのに。掌を見つめると、当たり前だけどそこにはなにもない。空っぽな誰かさんの笑顔のようで、気付かれないように小さく舌を鳴らした。



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