■ 09:忘れる気はそもそもなかった
感動系の映画は苦手。
適度に物音がないと集中できないから、勉強中は海の音を流している。
ピーマンは苦いから嫌い。
声を上げないで泣く。
オレが南条について知っていることは、それくらいだった。
「巻島くん巻島くん、南条さんをゲットできた巻島くん」
「…お前いつまでそのネタ引っ張るッショ」
「いいじゃないか巻島くん。僕は君を褒めているんだよ」
音楽室からの帰り道。友人Aは馴れ馴れしく肩に腕を回しながら、勿体ぶった口調で話しかけてきた。わざとらしく優しい笑みを浮かべて「ところでだね巻島くん」と言葉を続ける。
「南条さんの友達を僕に紹介してくれないかな?」
「なんで」
「そりゃあ君、可愛い子の友達は可愛いって相場が決まってるからだよ。僕は…オレは、可愛い彼女が!!欲しい!!」
友人Aは勿体ぶった口調を止め、悲痛に叫んだ。切々と熱烈に訴えかけてくる友人Aを「あーはいはい」と適当に流す。それを了承と受け取った友人Aは目を輝かせ「ありがとな!!」と礼を述べてきた。わかった、なんて一言も言っていないのに。…まァ、一応頼むだけ頼んでみるかァ。『えー、めんどくさーい』と一蹴される可能性大だが。
友人Aはすっかりご機嫌なようで昂揚に上擦った声で「それにしてもさァ」と言った。
「なんで、可愛い子の友達って可愛いんだろうな。少なくともブスはいなくね?」
「あー…確かに」
「無意識のうちに選別してんのかな。うっわ女子おっそろしい〜!」
己の体を両腕で抱きしめながら大仰に身を竦んでみせた友人Aを笑いたいところだが、うまく笑えなかった。『私友達作りとか困ったことないんだよね』とコミュ障に喧嘩売ってんのかと言いたくなるようなことを、付き合いたてのころ、南条が口にしていたからだ。グループ内で発言力も強く、ちやほやされて生きてきた南条。口下手なせいでなかなか友人が出来ず、しかも肝心の部活では変な走り方だと強制されていたオレには、南条はとんでもないイージーモードの人生を歩んでいるように見えて、若干、嫉妬していた。―――最近までは。
男に殴られて頬を腫らした南条が頭に思い浮かぶ。無理矢理キスをされたと言った時、駆けつけた時、うんざりとした表情の中に諦観が滲んでいた。
別にこんなことなんでもないと当たり前のように自分を粗末に扱う南条。のらりくらりと躱して、綺麗な笑顔を浮かべる。
ちり、と心臓がささくれ立った。
「巻島?」
「―――え、あ、わり、ぼーっとしてたッショ」
物思いに沈んでいた意識を掬い上げられ、ニカッと笑うと「お前の笑顔ってマジでキモいよな〜」としみじみと言われた。ほっとけ、と返しながらまた一歩足を進める。もうすぐで教室に到着するという時だった。
「そこまで言うことなくない!?」
ヒステリックな女子の声がびりびりと空気を震わせて鼓膜に響いた。教室の中から聞こえてきた怒声にオレと友人Aは顔を見合わせる。
「え、何」
「…喧嘩?」
女子同士の喧嘩は男子と違って手が出ない分、言葉で殴り合う。きんきんと甲高い声で感情的に相手の急所を抉りこむ言葉を投げつけ合い、どちらかが泣くまで、潰されるまで、それは続く。小6の時に一回見たがその時オレは『うっわァ…』とただただ引いた。高3になってまでしょうもねえことすんなよ…と鼻白みながら教室を覗きこんで、目が点になった。
クラスメートが遠巻きに見守る中、中心に立っているのは四人。だが、三対一に分かれていた。渦中の人間は、よく目立つきらびやかで華やかな女子達のグループ、南条が所属しているところだ。
南条はひとり、怒りに滾った眼差しを面倒くさそうに受けていた。
「…は?」
予想だにしない事態が5メートルほど離れた先で展開していて、脳みそが大量の疑問符に犯されてしまい、思わず間抜けた声を口の端から漏らしてしまった。
なんで、お前がそこにいるッショ。
お前はこういう時、一歩離れたところで『やだあ、女子ってこわーい』とニヤニヤ笑いながら楽しむような、そういう女だろ。
なん、で。
南条はオレの疑問を嘲笑うように、はっと短く息を吐いた。酷薄な笑みを浮かべた唇は人形のように整っている。嗜虐的な微笑みは畏怖を感じるくらいに綺麗だった。
「事実を言ったまでだけど?言い返せないからってキレないでくれる?死ぬほどウザい」
蜂蜜のように甘ったるく氷のように冷え切った声に、女子達は更に目を吊り上げた。そのうちの一人が南条ほどではないが大きな瞳に見る見るうちに湿気が張られ、照明を受けてきらりと輝く。可愛い子の友達って可愛いよな、友人Aの声が脳裏を過った。彼女たちは可愛い部類に入るだろう、けど、南条には、劣る。
「あ、泣く?そっかー、うんうん、良いアイディアだと思うよー?泣いたら被害者になれるもんね、ふふ、いいじゃん、泣きなよ、ほらほら、私、見てるから」
口元を三日月にしならせてひどく意地悪な微笑みを浮かべているというのに、それでも南条は可愛かった。他の女がこんな風に笑ったら、絶対にこんなに可愛くないだろう。
可愛いって、すごいな。
ぼんやりと場違いなことを思った時、ひとりが両目を抑えて泣き崩れた。ひくひくと嗚咽を上げながら泣く女子Cを真顔を浮かべ冷たく一瞥してから、南条は躊躇うことなく踵を返し、オレが立ち竦んでいる場所とは別の出入口から淀みなく出て行った。
歩くたびに揺れる艶のある髪の毛をぼうっと眺めてから、ハッと我に返った。
「わり!これ頼むッショ!!」
「へ、うわっ!」
友人Aに教科書を無理矢理押し付けて、猫のようにしなやかな足取りを一目散に追いかけた。
「―――おい!おい!待てって!!南条!!」
ぐいっと手首を掴むと、驚くほど細くて息を呑む。南条はチッと舌を鳴らしてからゆらりと振り向く。無表情を浮かべた南条は「なに」と温度の伴わない声で問い掛けてきた。
「なに、って。それはこっちの台詞ッショ。お前、何が、」
「虐めた」
「は」
「調子のんじゃねーよブス的なこと言ったら向こうがキレて泣いた。わかった?」
南条はにっこりと綺麗な笑顔を浮かべて、小首を傾げる。ああ、オレの嫌いな笑顔だ。腹の底から苛立ちが込み上げる。痰が絡んだようにぐっと喉奥に何かが詰まって、消化不良を起こしたように胃の奥でごりごりと何かが蠕動する不快感があった。吐き捨てるように、呟く。
「…人のこと言えねえだろ」
「えー?なにが〜?」
媚びるように大きな瞳で上目遣いしてきた南条を、切り裂くように冷えた眼差しで見下ろした。
「お前こそ調子乗ってんじゃねーッショ、ブス」
低く、冷たい声が廊下に落ちた。南条の目が大きく見開かれる。ぱちぱちと瞬きの度に震える睫毛は長くて、呆け面すらも可愛くて、だけどそれ以上にどうしようもなく苛立たしかった。
何にも見せずに全てを隠し通す南条が、ただ、ムカついた。
「…へえ」
小さく艶めいた唇が愉悦に歪む。細められた瞳の奥でちろりと感情が苛立たしげに揺れていた。
「別れよ」
あっさりと告げられたそれはあまりにも端的だったものだから、オレは何を言われているのか理解することができなかった。
「…は?」
「別れよって、言ってんの。はい、おしまい」
パン、と両手を合わせてからまたにっこりと笑う。「ばいばーい」とひらひら手を振る南条はいつも通りで、だけどオレは今別れを告げられていて。…何が何だか訳わかんねえ、どうしてそうなんだ。焦りから、声が上擦ったものになる。情けない声だと我ながら思った。
「待て、なんでそうなんだよ」
「ウザいから。裕介くんだって私のことブスって思ってんでしょ?私が可愛いから付き合い始めたのに、ブスって思うようになったらもう付き合う意味ないじゃん。ね、私何か間違ったこと言ってる?」
オレを覗き込んできた瞳はガラス細工のように色がなくて、南条が何を考えているのか全く読み取れず、それが更に苛立ちを煽った。
「…そうじゃねえッショ」
こめかみを抑えながら吐息混じりに苦々しく呟くと、南条は「え〜!?」と、わざとらしく驚いてみせた。明らかに馬鹿にしたような声音に、また苛立ちが増幅する。
南条のように可愛い女子に告られて、正直舞い上がった。誰もが認める美少女だ、そんな女子と付き合いたくないという男なんてこの世の一割も満たないだろう。悪魔の甘美な誘惑にまんまと乗せられて、からかわれて、翻弄されて、―――けど。
「裕介くん嘘吐いちゃ駄目だよ〜?私がブスだったら裕介くん付き合った?付き合わなかったでしょ?可愛いから付き合ったんでしょ?そうじゃなかったら、ろくに話したこともないくせに急に付き合おうなんて言ってきた女と付き合わないでしょ?」
時折、一瞬だけ見せる緩やかな、あどけない笑み。ぐにゃりと歪んだ今にも泣き出しそうな瞳。ころころと鈴が鳴るような笑い声。猫舌なところ。ふんと小馬鹿にするように鳴らされた赤い鼻。華奢な肩を震わせながら、声を押し殺して泣く姿。
オレと南条の間に思い出なんて数えるほどしかない。片っ端から浮かんでは消えていき、最後の一つ、挑発的な微笑みを最後に、ぎりと奥歯を噛みしめる。
「悲しいなあ、私、裕介くんにはいつでも素直に、」
「―――お前が!!」
トランス状態になったかのように饒舌に喋る南条を遮って大声を荒げた。空気を切り裂くような怒声に、南条がびくりと肩を竦める。不安定に揺れる瞳を捕まえて、激情のままに言葉を叩き付けた。
「何も言わねえから、キレてんだよ!!何かあったんだろ!!そうやっていっつもいっつも煙に巻いて何も言わねえでなかったことにしやがって!!お前はああいうことする奴じゃねえだろ!?」
南条は零れ落ちそうになるくらいに目を見張らせて、―――苛立たしげに歪められた。肩を落として長く息を吐く。ぎろりとオレを見上げ、南条はぼそりと呟いた。
「ウザい」
声の節々から苛立ちが溢れ、棘に満ちていた。
「…は?」
「ああいうことする奴じゃねえって、たかだか二か月の付き合いで私のこと知ったような口効かないでくれる?私、知ったような口叩いてくる男、無理なんだよね」
ハッと嘲笑い、南条は腕を組みながらオレを見据える。静かな苛立ちが浮かんだ瞳に、間の抜けたオレが映っていた。
「生理的に無理。だから、バイバイ」
はっきり四文字の言葉を突き付け、南条はオレの隣を通り過ぎた。足音がどんどん遠ざかる音が無慈悲に響く。
誰もない廊下にただひとり取り残されたオレを嘲笑うように、チャイムが鳴り響いた。
「巻ちゃーん!!どうだね元気かね!!一日三食栄養を余すことなく摂取し睡眠は七時間以上を心がけているかー!?オレは今日も今日とて元気だぞ、なんたって巻ちゃんとの勝負がもうすぐだからな!ワハハハハ!!」
一気にまくし立てたあと、何も返事がないオレを不審に思ったのか「…む?どうした、巻ちゃん」と訝しがるように声をかけてきた。それに答えるのも億劫で無言を貫く。ただ、もう、面倒くさかった。
「…何かあったのだな」
騒がしいものから一変して、東堂の声が深みのある落ち着いた声に切り替えられた。相変わらず察しが良い奴だ。クハッと笑ってから、淡々と告げた。
「フラれた」
「…え?」
「前、付き合ってるヤツいるつったろ、お前が電話させろって言った女、アイツにフラれたッショ」
「それ、マジで言ってんのか巻ちゃん」
「マジマジ、大マジッショ」
自嘲混じりに喋りながら、ベッドに背中から倒れ込む。ぼすっと柔らかい感触は、押し倒されたあの日と何も変わらなかった。
「でも、何とかなるもんだなァ。普通に部活できたし、笑えるし、いつも通りッショ」
強がりでも何でもなく、本心だった。
今泉と鳴子のしょうもない喧嘩に笑って、田所っちと鳴子のしょうもない喧嘩に笑って、って、鳴子どんだけしょうもねえ喧嘩してんだ、まァとりあえず、笑って笑って。笑うことが出来た。何も躊躇うことなく、するりと。
「お前みてェに、一緒にいるだけで幸せとか、笑わせたいとか、守りたいとか、そういうのアイツに思ったことねェし。笑った顔見てると、苛つくことがあったくらいッショ」
東堂は黙って聞いていた。静かだがきちんと耳を澄ましていることだけは気配から察せる。静寂の中、ぽつぽつとオレの声が音もなく溶けていった。
「泣き顔見た時なんて、オレ、ほんとはさ、喜んでたんだよ。ぐちゃぐちゃになった顔面見たいって、ずっと思ってたッショ」
透明なベールに覆われたような笑顔が、嫌いだった。剥ぎ取ってびりびりにしたいと渇望していた。オレの前で南条が泣いた時、オレは。
「―――興奮してたんだよ、『彼女』の泣きっ面見て」
最低過ぎて、また自嘲が零れる。ぞくりと肌が粟立つ感覚、あれは興奮だった。ぐにゃりと瞳が今にも泣きだしそうに歪められた瞬間、アイツが必死に押しとどめている何かに触れられたような気がして、オレは興奮していたのだ。醜く歪んだ欲望が先走った感情、恋愛とは程遠い。
「…巻ちゃん」
ぽつり、東堂が静かに呟く。
「…巻ちゃんの愛情表現は、なかなか激しいな…」
しみじみと噛みしめるように紡がれた言葉に、「…は?」と大量の疑問符が頭上に浮かんだ。
「東堂、お前オレの話聞いてたかァ?」
「聞いているに決まってるだろう!いやそうか…そうなのか…オレは今友人の性癖に触れてしまいどうすればいいかわらかず戸惑っている…このオレを惑わすとは!流石巻ちゃんだな!!」
「や、ちょ、待て、なんでそうなるッショ」
泣き顔見て興奮することのどこが恋愛感情だ、オレの意思を全く汲まずに話を進めていく東堂にオレこそ戸惑いを覚え、もごもごとツッコミを入れる。
「ちげーだろ、こんなん、恋愛とかそういうのじゃねえッショ。なんつーか、性欲っていうか」
「好きな女に性欲持つのは当たり前だろう」
「いやまあそうなんだけど、でもアイツ顔すげえ整ってるから性欲自体なら誰でも持つッショ」
全国の女が知ったらブチ切れると思うが、男は可愛かったら、または自分の許容範囲の容姿をしていたら、好きじゃなくてもヤれる。理性で必死に押し込めているだけなのだ。
「そういえば以前もそんなことを言っていたな。オレが女になったぐらいのレベルか」
「………認めたくねえけど、そうだな」
「おお!それはめちゃくちゃ可愛いな!!そんな可愛い子と付き合えて良かったな巻ちゃん!」
「フラれたつっただろ!」
「おお!そうだったな!ワハハ!」
ワハハじゃねえッショ!と怒鳴ろうとしたら「巻ちゃん」、東堂があまりにも優しく染みわたるような声でオレを呼ぶものだから、声が喉の奥に押しやられた。
「巻ちゃんは彼女の上辺だけの笑顔ではなく、感情を剥き出しにした表情を見たいと願ったのだろう。例え醜く歪んだ顔だとしても、その顔を自分が引き出したいと思うのだろう。―――ならば、オレはそれも、」
恋だと思うぞ。
真摯な重みを孕んだ飾り気のない言葉は、すとんと胸に落ちた。
「…だったら、オレ性癖歪みすぎてやしねえか」
「そんな変な髪の色しといて今更何を言う!巻ちゃんが変なセンスだということは出会った日から知っている!」
「変なカチューシャしてるお前にだけは言われたくねえッショ」
「どこが変だどこが!!」
ぎゃんぎゃん喚く東堂の声がうるさく、ケータイを耳から少し離して辟易しながら聞く。一しきりまくし立てたころだろう、見計らいを立てて、オレは「東堂」と静かに呼んだ。雰囲気を読み取ったのか、東堂も騒々しさを潜めて「なんだ」と落ち着いて反応を返した。
「オレ、アイツのこと全然知らねえッショ。顔が良いことと、性格が捻くれてることしか知らねえ。なんでアイツがオレに告ってきたとか、ちゃんとした理由も知らねえし。何が嘘で何が本音かわかんねえ、意味わかんねえ女だけど、」
知りたいと思っている。
透明なベールを引き剥がした先にあるアイツを知りたいと、餓えた獣のようにひどく渇望している。
そう言うと、東堂は少し間を置いてからふっと笑った。きっと不敵な笑みを浮かべているのだろう、どこかの誰かさんを彷彿させて苛立ちがじんわりと沸きあがる。けど苛立っているのに、心地よさすらあった。Mなのかオレは。
「ま、とにもかくにも。インハイまでにきちんと調子を整えといてくれ。本調子じゃない巻ちゃんに勝っても意味がない」
「そっちこそフラれて泣きべそ掻くようなことねェようになァ」
「ワハハ!絶対にない!!」
自信に溢れた快活な笑い声を適当に受け流しながら、机の上に視線を滑らせる。白い紙袋があった。
感動系の映画は苦手。
適度に物音がないと集中できないから、勉強中は海の音を流している。
ピーマンは苦いから嫌い。
声を上げないで泣く。
あとそれと、もうひとつだけ知っている。
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