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「巻ちゃんどうだね今日の調子は!ちゃんと髪を乾かしたか?腹は出さなかったか?風邪は引いてないか?」

 起き抜けの朦朧とした頭には、矢継ぎ早に打ちこまれる明るく弾んだ声は少々いや大分しんどかった。うっせえと声を荒げる気にもなれずに「あー、まあ、ウン」と乾いた返事を打つ。寝起きのせいか声は掠れていたが東堂は聞き逃すことなく「そうかそれは良かった!」と楽しげに笑った。朝からどんだけハイテンションなんだコイツは。

「は〜、それにしても!オレも今日の大会参加したかった!何故だ!何がオレと巻ちゃんの間を引き裂いているのだ!!」
「補習ッショ」

 大仰に嘆いた東堂にあっさりと返すと「巻ちゃんには情緒というものが足りん!」と何故かキレられた。だって実際にそうじゃねーかマジでこいつめんどいな。
 東堂の成績が悪いというわけではない。見た目こそ軽薄でアホっぽい言動も多々あるが東堂のクライムスタイルは緻密な計算の上に成り立つ知性を必要とするものだ。そして名門箱学の副部長だ。何十人ものの部員を纏めあげる指導力や統率力が必要とされる役目は、アホには任されない。任すような部活だったら、箱学は王者として奉りあげられていない。東堂が補習を受ける原因は、部活によって削られた授業を休日に回されたからだった。

「あ〜すっげ〜悔し〜〜〜」
「なあそろそろ切っていい?」
「巻ちゃん!!」

 悲痛な声が鼓膜を打ち、たまらず顔を顰めて反射的に「うるせえッショ!」と怒鳴ると「ひどいぞ!!」と涙声が返ってきた。ああうざったい。つーか、オレだって東堂が出場しないと聞いてテンションがかなり下がっているのだ。言ったらめんどくせえことになるから、絶対言わねえけど。

「巻ちゃん」
「切りたい」
「もうちょっと、もうちょい待って」

 んだよ。鬱陶しげに呟くと、電話の向こう側で東堂がにたりとほくそ笑んだような気がした。何かを溜めこむようにすうと息を吸いこんで、弾けるように高らかな声が放たれた。

「とびっきりのプレゼントを用意したぞ!」
「…は?」

 言葉の意味を理解できずに不審な声を上げたが東堂は我が意を得たと言わんばかりに「ワハハ」と満足げに笑う。一歩引いた場所から、からかうような色が乗せられていた。





 …一体何だったんだヨ…。

 意味のわからない言葉にうんうん唸りながら考え込むが思考はすっかり袋小路に陥ってしまい、お手上げだった。ボストンバッグを片手に受付場所へ向かう足取りはどこかの馬鹿の謎々に真剣に取り組んでいたせいで少し遅くなっていた。別に急いでいる訳でもないが、早めに用事を済ませて準備をしておくに越したことはない。スピードを早めようと脚を大きく一歩前に出した時、ぐいっと、シャツを引っ張られた。

「うおッ!?」

 大会を通じて顔見知りは何人かはいるが声を掛けあうような仲ではない。故に誰からも接触されないと無意識のうちに思い込んでいたオレは突然の接触に素っ頓狂な声を上げてしまった。

 聞き覚えのある、けらけらと楽しげな笑い声が耳朶をくすぐった。

「そこまで驚く〜?」

 ―――え。まさかと思いながら振り向くと、こういった山中よりも街中の方が馴染むであろう華やかなオーラを放つ女子が―――南条がいつも通り、人を食ったような笑みを浮かべて立っていた。

「来ちゃった」

 語尾にハートを添えて、ニヤニヤ笑いから一変、にっこりと愛らしく笑った。…客観的に思う。コイツマジで可愛い。笑いかけられただけで体温が三度くらい上がった。可愛い女子ってマジですげえよ…。美少女が放つ極上のスマイルを真正面から受け取ることはモテたことのないオレには至難の業で「お、おう」と若干目を逸らしながらボソボソと返すことしかできない。ちょっと待て。今オレどもった?どもったなうん。ああーーー。っていやいや今はそんな自分のDT具合に死にそうになってる場合じゃねえッショ…!なんでこいつがここに…!?浮かんだ疑問が顔に出ていたのだろうか、南条はオレの表情を読み取って「ああ」と頷いた。

「なんかねー、ムカつく人が教えてくれたのー」
「…ムカつく人ォ?」
「うん」

 怪訝に眉を潜めるが南条は話を続ける気はないらしく「ねえ、裕介くん」と下から顔を覗き込んできた。くりくりの丸い瞳に見つめらると問答無用で息が詰まる。顔が可愛い女子の上目遣いは凶器だ。心臓がドコドコと暴れ出し血液は唸るように回り始める。ぐらりとバランスを奪うような眩暈に必死に堪えながら「んだよ」と冷静な声を絞り出す。

「優勝したらご褒美あげる。何がいい?」

 こてんと小首を傾げ、南条は笑う。瞳の奥でぎらつくように挑発が瞬いていた。

「なんでもしてあげるよ?」

 南条の唇は桃色に色づいて、きらきらと光っていた。程よく乗せられたグロスは十代の初々しさを残しつつも、微かに女としての色気を醸し出している。見るからに柔らかそうな唇は甘美な声を紡いだのちに満足げに緩められた。

「―――、」

 声が出ない。まるで遅行性の毒のように、頭の中で反響する甘ったるい声が体を蝕み自由を奪っていく。なんでも、なんでも、なんでもしてあげる。なんでも、え、なんでも、なんでもなんでもなんでもなんでもなんでもなんでも。

「ゆーすけくーん」

 ぬっと。突然目の前に南条が現れて「うおっ!?」と仰け反ってしまった。「わ、びっくりしたー」と言葉とは裏腹に南条は澄まし顔で落ち着いてて、オレの向こうを指さした。

「なんか、もうそろそろ行った方がいいんじゃない?選手の人はうんたらかんたら〜って言われてたよ」
「えっ、マジかよ。サンキュ!!」

 ばっと勢いよく踵を返し、受付場まで一目散に駆けていく。「行ってらっしゃ〜い。がんばれ〜」とひらひら手を振る南条を尻目で確認すると、『なんでもしてあげるよ?』が頭の中で再生されて、つんのめった。なんとか転ばずに済んだが滑稽なポーズを取ってしまった。




「おい、巻島いる」
「あーやっぱな」
「東堂は?」
「今回はいねえっぽい」
「…なあ巻島すっげー可愛い子と話してたよな…」
「あれって彼女、なんだろうな…」
「絶対勝つ」
「巻島にだけは勝つ」

 ざわざわと周囲が沸き立っている中、オレの頭は『なんでもしてあげるよ?』で埋め尽くされていた。なんでもしてあげるよなんでもしてあげるよなんでもしてあげるよ。紙面上や動画の女のエロいポーズやエロい仕草やピーーーッはもう見慣れたため『まずまずッショ…』と上から目線で評しているオレだが、生は、初めてだ。生。すぐ傍で生きてる人間が、エロいことをオレに、オレに―――って今!そういうこと考えんな!!

 108どころでは収まらないむくむくと膨れ上がる煩悩を振り払うようにぶんぶんと大きく首を振ると周りが「な、なんだ!?」「もしかしてあれが巻島流の気合の入れ方なんじゃ!?」「流石巻島だぜ…!」と勝手に誤解して勝手にプレッシャーを受けているがもうなんだっていい。おい裕介精神統一しろ。エロいこと考えてチンケな成績出してみろ、あのうっせえカチューシャが―――、

『どーしたのだ巻ちゃん!!あれほど体調管理はしろと耳にタコができるほど言ったというのに!何故だ!!…はっはーん、そうか、そういうことか!!このオレがいないと!!張り合いがないと言うのだな!!ワハハハハハハ!!』

 腰に手を添えながらけたたましい笑い声を轟かせる東堂がいとも容易く脳裏に浮かび上がって、頭から冷水をぶっかけられたように心が冷え切った。確かにアイツがいねえと物足りねえ、物足りねえ、けど…、

 ―――なんか、イラつく。

 ぎらっと正面を強く睨み、ハンドルに力を籠める。オレがあれこれと脳味噌をぐるぐる回らせている間に、レースが始まる準備は整えられていたようだった。ざわつきは消え失せ緊張感の滲んだ心地よい静寂がぴりぴりと肌を打つ。ぞくりと鳥肌が立って、自然と口角が上がった。

 ぱあん、と発砲音が放たれる。その軽快な音色は青く自由な空に瞬く間に消えていった。








 はーっと息を吐き出しながらベンチに座ると、ぴたっとうなじが冷たい感覚に襲われた。

「っ!?」

 突然の感覚に飛び上がると、また、鈴が鳴るような笑い声が背後から聞こえた。

「裕介くんのビビり方ほんっとウケる〜」

 アクエリを片手に腹を抱えながらケタケタと笑う南条はオレの横にすとんと腰を下ろしてきた。その拍子にふわりと花のような匂いが漂ってきて、途端に自分の汗臭さが気になった。気付かれないようにすんと嗅いで、まァ…多分いけんだろと希望観測を半ば無理矢理下した。つーか物音立てずに忍び寄るって…コイツは忍者かよ。東堂かよ。

「はい、これ」

 口元を手で覆って笑いを噛み殺しながら差し出してきたアクエリを「え、あ、サンキュ」とぎこちなく受け取る。「裕介くんって最初に『あ』って言うとこコミュ障全開だよねー」と笑われて眉間に皺が寄った。言われなくても知ってんだよんなこたァ、ほっとけ。

 苦い面のオレとは対称的に、南条はにこりと完璧な笑顔を浮かべながら「優勝おめでと〜」とぱちぱちと拍手してきた。

「ああ、まあ、サンキュ」
「ごほうび、何にする?」
「―――あ、」

 すっかりと抜け落ちていた。ポッカーンと開いた口から、間の抜けた声がぽろっと零れ落ちる。南条はぱちぱちと瞬いたあと「…え」と呟いた。

「忘れてたの?」

 ふよふよと宙に漂うような、実感の伴わない声だった。驚きに満ちた眼差しがなんとなく受け取り辛くて若干視線を落としながら「…わりィ」と、謝るべきことなのかわからないまま謝った。
 南条はキレなかった。えー、考えといてよー!とむっすりと不機嫌になんだろなという予測があっさりと破られて拍子抜けする。

「へえ、そっかあ、忘れてたんだあ」

 しみじみと噛みしめて「そっか」と小さく呟いた。

「忘れちゃってたか」

 ぽつりと零れ落ちた南条の声はただ事実を確認しているだけで、そこに責めるような色はない。
 ―――けど。
 語気にほんのりと漂う寂しげな気配に、胸を突かれた。

「じゃあ、今考えて」

 にぱっと、南条は笑いかけてきた。だがぼうっと見入っていたオレは突然明るく笑う南条の変化についていけず「え、あ」と意味を持たない言葉をぼたぼたと落としていく。

「はやくはやく〜」

 ちょんちょんと甘えたように袖を引っ張って、顔を覗き込みながら上目遣いで「はーやーく」と舌足らずに急かしてくる。計算尽くしの表現だとわかりながらもああ悲しきは男の性。すっかり狼狽えながら「えーとあーとえーと」と目線を明後日の方向に泳がせながら、籠った声で切れ切れに呟いた。

「また、応援しに来てほしい、つうか。その、頑張れとか、アクエリとか、おめでとーとか、嬉しかったし、サ」

 ああああ言ってて恥ずい。なんか恥ずい。東堂の野郎よくあんなべらべらとファンの皆いつもありがとうだのなんだの言えんな。
 言いようのない羞恥を覚え、ちらりと南条を確認すると、南条はぱたりと動きを止めていた。瞳をきょとんと瞬かせ、オレにじいーっと視線を注ぎこんでいるかと思うと―――ふっと、息を吐いた。
 え。何で。
 火が消えるように感情を引込めた南条は「裕介くんさあ」と呟く。

「将来、女に騙されるよ」
「―――は?」

 突拍子無く『騙される』と言われて、うまい反応を取れと言う方が酷だろう。大量のクエスチョンマークを頭上に浮かばせているオレを横目に、南条はぽつぽつと語る。

「頑張れとかそんなのただの自己満、彼の好きなものを応援してる私が好きっていう『良い彼女』な自分に酔ってるだけ」

 はんっと鼻を鳴らす南条は嗜虐的に微笑んでいた。整った顔立ちは歪んでいても愛らしいがそこに温度はない。

 オレよりもひどい捻くれ者を初めて目にして、呆然とするあまり感動に似た何かを覚えていた。しかも最近純粋を絵に描いたようなヤツと顔付き合わしてっからなァ。
 言ってしまえばそうかもしれない。欺瞞や欲望の上に成り立つ行為かもしれない。
 だとしても。

「…お前が応援してくれたって事実には変わんねえだろ」

 南条の目を真っ直ぐに見据えてそう言うと、南条は少しだけ目を見張らせて、微かに瞳の奥が揺れ動いた。静かに瞬くと長い睫毛がふるりと震える。小さく笑いながら、苦味走ったどこか自嘲するような薄笑いに、ぞくりと肌が粟立つ。

 ぐにゃりと歪んだその笑顔は今にも泣き出しそうに見えた。



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