■ 04:ひとつ残らず溶けていった

 大量のノートを運びながらふらふらと覚束ない足取りで歩いている小柄な男の子は、とうとう足をもつれさせて、どしんと尻餅をついた。「あいたた…」とお尻を摩りながら起き上った男の子は、廊下に散りばめられた大量のノートを見て「わーーー!」と叫んだ。あたふたと慌てふためきながら、四つん這いになって必死にノートをかき集めている。丁度私の足元まで散らばってきていたので、腰を屈めてノートを手に取り、彼に近づいた。

「ねえ」
「あわわわわ!」
「おーい」
「あ〜やってしまった〜!」
「もしも〜し」
「ええっと、皆のぶ…!?」

 パニック状態で何も聞かない彼に痺れを切らした私は、視線を合わせるように腰を下ろして、ぐいっと顔を持ち上げた。眼鏡の奥で瞬く、更に真ん丸になった丸い目を覗き込みながら「ねえ」と、言い聞かせるように語りかける。

「これ、落ちてたよ?」

 小首を傾げると、彼の頬にぼんっと赤みが差した。「へ、え、あ、は、はい、あ、あり、あり、ありがとうございます…!」とつっかえつっかえになりながらも、必死にお礼を述べる姿に誠実な人柄が伺えた。

「たくさん、散らばっちゃったね」

 顔を巡らせぐるりと辺りを見渡しながらそう言うと、「あ、は、はい、僕の不手際のせいで…!す、す、すみません!!」と、何故か彼は大きく頭を下げて、私に謝ってきた。私に謝られても。

 ていうか。あ、この子。
 
 記憶が解れて浮かび上がった顔立ちが目の前の慌てふためいている男の子と結び付いた。ああ、この子が。そうかそうか。

 そういうことなら。
 
「手伝ってあげる」
「へ」

 ぱちくりと目を瞬かせる彼を置いて、私はノートを拾い集める。暫く呆けていた彼も、慌てながらまたノートを拾い集めることを再開した。





「何から何までほんっとうに…ありがとうございました!!ほんっとーに!!ありがとうございました!!」

 彼―――小野田くんは、何度も何度も私に頭を下げてきた。(お礼を言う一秒前、急に「僕、小野田坂道です!」と自己紹介をしてきたのだ)「いいよいいよ」とひらひらと手を振って、にっこり笑う。ぶわ、とわかりやすく頬に熱を昇らせた小野田くんは「えっとえっと」と舌をもつれさせながら懸命に言葉を紡ごうとしていた。一生懸命であることがありありと伝わってきて、わたしは緩やかに和んだ瞳で慈愛を持って彼を見つめる。

「そ、その…!」

 小野田くんはぐっと拳を強く握りしめた。

「き、きららにそっくりですね…!!」

 心に一拍の空白が生まれた。

「…は?」
「あ、きららはですね!ラブ☆ヒメというアニメに出てくるライバルポジションの女の子でしてね!わざと意地悪言ってくれるんですけどほんとはすっごく優しい、とっても可愛い女の子なんです!!」

 先ほどもごもごと口籠っていた小野田くんはもういない。打って変わって饒舌な口振りでべらべらとまくし立て始めた小野田くんはケータイを高速で操作してから「この子です!」ときらきら目を輝かせながら見せつけてきた。オタクという種族が好きそうな絵柄で描かれた可愛らしい女の子のイラストに、私はぱちくりとひとつ瞬いた。

「可愛いね」
「ですよね!すごい、すごい似てるなって先輩を見た瞬間から思いまして!!」
「それって、私も可愛いってこと?」
「えっ、あっ、え、えっと…っ」

 途端に言葉数が減り、また顔を赤らめて「ええとあのその」と目を左右に泳がせている小野田くんに加虐心を擽られた私は、わざと、彼に詰め寄った。

「へっ」

 瞬間湯沸かし器のように、頭上からぼんっと煙を上げた小野田くんの顔を下から覗き込みながら「ね」と、こてんと首を傾げて上目遣いで見上げた。男子にしては小柄だけど、私の方が背は低い。

「可愛い?」

 カァーッと、熱が小野田くんの首筋までに及んだところで、ブレザーの襟首を掴まれた。

「…そこらへんにしとけ」

 背後に目を遣ると、裕介くんが苦い顔でわたしを見下ろしていた。「あはっ」と笑ってみせると、重苦しいため息を掛けられた。

「わりーな小野田。コイツ、こういうことする女ッショ。あんま気にすんな」
「えっ、あ、は、ははははははい! で、では僕は…!ま、巻島さんまた部活の時によろしくお願いします!」

 小野田くんはハッと我に返ったようにぴしりと背筋を正して気をつけの姿勢を取ったあと、ロボットのようにぎこちない動作で背を向け、帰って行った。耳朶まで真っ赤に染まり上がった後ろ姿が可愛くて、ふふっと笑いが零れた。

「…南条」
「ごめんごめん。あの子、可愛くて。裕介くんの部活の後輩だよね?」
「そうだよ。…アイツ、女子にすっげー慣れてねえから、ああいうことしてやんな」

 そういう声は、優しく労わりに満ち溢れていた。心の底から、小野田くんを気遣っていることがありありと伝わってきた。私が小野田くんに近づいたことに対する嫉妬心は一欠けらも滲んでいなかった。

「可愛くて可愛くて、仕方ないんだねー?」

 からかうように問いかけると、裕介くんはぴくりと眉根を動かした。「ふん」と拗ねたように目を逸らすその行動は、肯定と宣言するようなものだ。

「いいじゃんいいじゃん。美しき、先輩後輩の間柄」
「うっせー」
「あ〜照れてる〜」
「…っせえ」
「ねえ」
「んだよ」

 じ、と私は静かに視線を上げる。少し呆けたように私を見下ろしている裕介くんをしっかりと捉えながら、おもむろに唇を開いた。

「イギリス行くってこと、あの子知ってるの?」

 裕介くんの目が大きく見開かれて、表情が凍てついたように固まった。

 …言ってないんだ。

「そ」

 胸の内で自己完結した私は小さく呟いてから、ふいと背を向けた。呼びとめられることも、追ってくる気配もない。きっと裕介くんと私の関係もこのように終わっていくのだろう。日常の中のひとつの出来事として、最初からまるでなかったかのように、ほろほろと空気に溶けてやがて消える。

 以前、裕介くんと小野田くんが喋っているのを見たことがある。小野田くんは透明な輝きを湛えた瞳で裕介くんを見上げていた。子どもがテレビに映るヒーローに憧憬の眼差しを送るように、小野田くんは裕介くんの背中をひたむきに追いかけているのだろう。

 互いを高め合う、一瞬一瞬が尊い関係性。
 一点の曇りも見当たらない輝かしい光を放つ強い絆に眩暈を覚えて、私は目元に手を宛がう。掌によって影が生まれた。

 後輩は卒業しても『後輩』だけど、彼女は別れてしまえばそこでおしまいだ。
 刹那に終わる、紙よりも薄っぺらい関係。
 裕介くんの記憶には高校の時ちょっと付き合った女子、という程度でしかうっすらと残らないのだろう。
 まあ、恋愛なんてそんなものだ。
 人よりも年齢の割に少し交際経験が多い私は『現実』をよく知っていて、今更落胆もない。恋で世界は変わらない。ドラマや漫画で描かれるような全てを変える出会いなんて、そうそう落ちているものではないのだ。

 目元から手を外し、髪の毛を耳の裏にかける。窓から差し込む眩しい光に、私は再び目を細めた。




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