■ 03:空っぽロマンス
空は好きだ。青く、どこまでも続く空を隔てるものは何もない。制限されることなく悠々と広がっているその様は自由を存分に謳歌しているようで、憧憬の眼差しを送った。クハッと口元に笑みが滲む。
ちらっと隣に目を遣ると、後輩である小野田が春のように和やかな笑顔を浮かべていた。垂れた眉尻にへらりと緩んだ瞳から、奴の穏やかな気性が伝わってくる。スポーツをやっている人間は大抵自我が強く血の気が多いが、小野田はその反対の性質だった。
「…楽しそうだなァ」
「はい、楽しいです!」
間髪入れずに返事をしたあと、ハッと目を大きく見張らせて小野田は「あっ、でも練習なんだから楽しむだけじゃダメですよね!いやもちろんすごく頑張ってます!遊び半分とかじゃないですだけどすっごく楽しくて…!!」と、何故か慌てふためき始めた。怒っていると誤解を招いてしまったのだろうか。釣られるようにして慌ててしまい、誤解を解こうと口を開いて、オレは閉じた。
下手な口を回すよりも。
ペダルを踏む足に力を籠める。体の重心を斜めに置くと、ロードバイクが傾いた。
「へっ、巻島さん…!?」
驚きに満ちた声が背中に飛んできた。振り向くと、元々丸い目を更に丸くしていて、クハッと笑いが込み上げた。
「着いてこい!」
高らかにそう叫ぶと、小野田はぱあっと瞳を輝かせて「はいっ!」と満面の笑顔で頷いた。
木々の合間を縫うようにして、さんさんと日光が降り注ぐ。ペダルを漕ぐ度に、初夏の風が強く顔を打ってきた。
部活を気持ち良く終えた日に浴びるシャワーはこの上なく気持ち良い。長い髪の毛をひとしきりわしゃわしゃと拭き終えてから、肩にかけた。ふーっと息を吐きながら、ベッドに座り込んだ、その時。携帯が鳴り響いた。
…あ〜〜〜。
面倒くせえ…と煩わしく思いながら、机の上に置いてある携帯を手に取った。名前を見るまでもない。人付き合いの少ないオレにわざわざ電話をかけてくるなんてアイツぐらいのものだ。「もしもしィ」と気だるげに耳にあてながら、ベッドに背中から倒れ込んだ。
「あれ〜?裕介くん、ご機嫌斜め〜?」
糖度たっぷりの女子の声に、反射的にがばっと身を起こしてしまった。は、え、誰だ。ぐるぐると回る脳味噌は混乱を極めていた。甘い声は「もう」と不機嫌そうに呟いてから「南条」と、つっけんどんに言い放った。
「彼女の声ぐらいわかってよ」
「いや、えっと…わりィ」
素直に謝る。南条はふうっと溜息を吐いてから「ま、いいけど」とひとりごちた。語尾に寂しさが滲んでいて、少し胸がときめいた。こちとらどっかのうるさいカチューシャと違って、女子に免疫がないのだ。
「だったら今度、何か買って」
語尾にハートマークがついてそうなきゃるんとした物言いに、ときめきは一気に消え失せた。「裕介くん、お坊ちゃんなんでしょ〜?」とせがんでくる。もしやコイツ…金目当てで近づいたんじゃ…?むくむくと疑念が首を持ち上げていると、噴出す声が鼓膜を揺らした。
「ははっ、あははっ、本気にしてる!嘘に決まってんじゃん。私、物でなんとかしようとする男、苦手だし」
…どっちだよ…。
ころころ変わる意見に白目を剥いて辟易する。女子ってこんなもんなんか、ァ…?怒ったり、甘えたり、からかったり。万華鏡のようにくるくると感情を変えるしなやかな生物に、オレはただただ圧倒されていた。
「今日、私、図書室で勉強してたんだよ。偉いでしょ」
「ハァ…」
「そこからね、見えたよ。裕介くんが自転車漕いでるの」
「え」
「遠くからでも裕介くんってわかるね〜。なんか走り方、個性的?だね?」
「あーどうも」
口に出さないだけで、変だって思っているのだろう。当たり前だ。変だと思わない方がおかしい。きらきらと目を輝かせてカッコいいです!と絶賛してくる小野田が異常なのだ。
「あれってどうやってんの?」
「どうって…こう、体を傾けて…」
「普通に漕いだ方が速いんじゃないの?」
「オレはあっちのがはえーの」
「ふうん」
取り立てて意味の持たないいくつもの言葉たちが空気をふよふよと漂い、やがて消えていく。一週間経ったら忘れてしまいそうな、他愛のない会話だった。
「…裕介くん」
一瞬間が空いて、静寂が流れた。「あのね」とたどたどしく話す声に、恥じらいが滲んでいる。
「すっごく、かっこよかったよ」
えへへ、と添えた笑い声が鼓膜を擽った。オレは目を大きく見張らせて「南条」と呟く。
「お前いい加減にしろッショ」
「あ、ばれたー?」
けらけらと楽しげに笑う南条に、ハア、と短く息を吐く。だと思ったぜ、と言えば「うふふー」と真意の見えない小悪魔の笑い声にがっくりと肩を落とした。
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