■ 10:ほんとは忘れてほしくなんかなかった

 私が裕介くんを知ったのはピッカピカの高校一年生の頃だった。怒声に驚いて振り向くと、生活指導の先生に『なんだその髪色は!!』と裕介くんが怒鳴られていた。

 うっわァ、なにあの髪。ないわー。

 私が裕介くんに対して思ったのはそれだけ。つまらなさそうに一瞥してから、振り向くことなく自分の教室へ戻った。
 『間違えた高校デビューに浮かれている痛い奴』、それが裕介くんに抱いた認識だった。






「めぐみ災難だったねー。超痛そうじゃん」
「痛そうってか痛い」
「だよね〜、うわあ〜、でも大分腫れ引いて良かったね!」
「うんうん!っていうかさ〜、そんなヤバイほど付き纏われてるんだったら言ってくれれば良かったのに!そしたらうちらももっとちゃんと考えたのにさ〜」

 どうやら彼女達の間でこの前私が持ちかけた相談は『きちんとした相談』にカテゴライズされなかったらしい。もっと切迫した様子で言えば私達もきちんと考えたと彼女たちは声を揃える。一応相談を受けたものの適当に流してしまったことに対し、罪悪感を覚えているのだろう。愚痴を適当に流したのはそっちだと抗議してもいいが喧嘩に発展したら面倒くさい。「まさかここまでするとは思わなくてさあ」と薄笑いを浮かべ、適当に話を流すことにした。

「学校まで来るとか私も予想外だった」
「ね!あの人せっかくかっこいいのにねー。いくらイケメンでも性格がああだったら無理だなー」
「ねー、性格以外は最高のスペックだよねー」
「巻島より全然かっこいい、」

 そこまで言うと、友人Aは慌てて掌を口に押し当てた。不自然な沈黙が空間を支配する。

 彼女たちが裕介くんに低評価を下していることは初めから知っていた。後から色々と突っ込まれるのも煩わしかったのであらかじめ『裕介くんと付き合ってる』と言った時、彼女たちの目は『信じられない』と言っていた。
 緑の髪の色で、奇抜なセンスをしていて、取り立ててカッコいいというわけでもない。なんで、と、瞳に疑問が浮かんでいた。

 このまま気まずい雰囲気の中休み時間を過ごすのも面倒くさいので「そうだねー」と笑顔を貼り付けて同調する。嘘ではない。顔だけなら、元カレのが上だと私も思っている。私が気分を害さなかったことにホッとしたのか、失言した友人Aはわかりやすく安堵の笑みを浮かべ「だ、よねー。うん、あはは!」と徐々に本来の調子を取り戻し始めた。

「今だから言うけどさ、めぐみが巻島と付き合い始めたって言った時、ほんと吃驚したもん」
「あーうん。そんな顔してたねみんな」
「あ、ばれてたか」
「バレバレだっつーの」
「あはは。だってめぐみが巻島と付き合うとか予想外過ぎんじゃん。チャリ部にしても金城くんとかならわかるけどさー」
「巻島もめぐみに告るとかチャレンジャーだよねー」

 あれ。

 裕介くんが私に告ってきた、ということになっていてぱちくりと瞬きをする。逆だよと訂正しようと口を開くよりも前に、友人Bが軽やかに笑いながら言った。

「ていうか、身の程知らず?」

 友人A、Cも笑いながら同調する。
 私は口を中途半端に開いたまま、固まっていた。

「めぐみみたいな可愛い子、巻島レベルが告るとかさー、正直いやいや出直してこいって感じ」
「ぶっちゃけそうだよねー」
「アイツこの前体育でパスミスしててさ、もう、ほんと面白くてさ」

 私は貶されていない。褒められている。彼氏である裕介くんを貶すことによって遠回しに彼女である私を貶しているのかもしれないが、そういったことはもうどうでも良かった。

「めぐみも優しいよね〜、あんなのと付き合うとか。私無理」
「私もだなー。友達に紹介すんの恥ずいし」
「だよね〜。ほんとめぐみ優し〜」

 華やいだ笑い声が耳から耳を通り抜けていく。すうっと心が冷え切っていく感覚。心臓は燃えるように熱いのに、思考は氷のように冷たかった。

「みんなさあ」

 ゆったりとした穏やかな声だった。みんなが振り向いて「ん?」と反応を取る。にっこりと笑いかけながら、小首を傾げた。

「いつからそんな口叩けるくらいに、偉くなったの?」

 全員の口元に浮かべられていた笑みがピシリと音を立てて固まった。私はゆっくりと囁くような声量で、そっと息づくように言葉を続ける。

「裕介くんのこと自分より『下』って思ってるとか、そっちこそ身の程知らずも甚だしいんだけど。なにを根拠にそんな自信が沸いてくるのか全然わかんない」
「べ、つに、そこまで、」
「あれだけ言っといて今更いい子ちゃんぶんないでよ」

 皆まで言わせず言葉を被せると、友人Bは「ちょ、めぐみ」と引きつった笑みを浮かべながら、執成すように声をかけてきた。

「ごめんって、その、めぐみがそんな怒るとは思わなくてさあ。そんなマジになんないでよ、冗談じゃん」
「冗談だったら何言っても良いって?」
「ちょ、ねえなんでそんなキレてんの、らしくないって」

 軽薄な笑顔を前に苛立ちがどんどん募り上がっていく。叩き潰してやりたい。思う存分、ぐちゃぐちゃに傷つけてやりたい。凶暴などす黒い蟠りは見る見るうちに膨れ上がっていき、ずっと溜め込んでいた言葉が気付いたら外に飛び出していた。

「あんたらが今の地位手にしてんのも、男寄ってくんのも、みんな私のお零れなんだよ。調子乗ってんじゃねーよ」

 言葉とは裏腹に可愛らしい笑顔を貼り付けて首を傾げた時、視界の端で緑色が揺れ動いた。
 ―――終わった。
 ピリオドが打たれた音が、心の中で静かに響いた。







 また怒られてる。

 緑色の髪の毛の男子はまた生活指導の先生に怒られていた。気弱そうなのに絶対に髪の色を戻さない。

 そんなに緑色がいいのかな、変な子。

 緑色の髪の毛の男子は、マキシマと言うらしい。先生が大声で『マキシマ』と怒鳴っていて、それで私は彼の名前を知った。
 マキシマくんは姿勢が悪く、いつもつまらなさそうに下を向いていた。クラスの隅っこでぼうっと空を眺めていそうな男子なんて本来なら全く興味を持てないけど、その鮮やかな緑色は視界に入ってくる度に目が離せなくて、なんとなく追ってしまった。

 ある日マキシマくんは(多分)部活の先輩にからかわれていた。食堂に続く廊下の真ん中で変な走り方だと大声で笑われていた。

「今日も頑張って治そうな!」
「………はい」

 蚊の鳴くような小さな声には不満が滲んでいる。しかし先輩はマキシマくんの思惑など汲み取らずに、大いに気を良くした様子で快活に笑いながら「じゃあな!」と去って行った。
 ひとり取り残されたマキシマくんは、ぎゅっと強く拳を握りしめていた。

「…めぐみ?」
「あ、ごめん。聞いてなかった」
「いいよいいよー」

 一瞬ムッと眉間に皺を寄せてから何でもないように笑った友人に気付かれないように、こっそりとマキシマくんに目を遣る。大声を受けて悪目立ちしていたマキシマくんは居心地が悪いらしく、そそくさと食堂に入っていった。

 あんな笑われるくらいに、変な走り方なんだ。ていうか、マキシマくんって陸部だったのか。そう思っていると、スカートのポケットが震えた。友人の話に適当な相槌を打ちながら、私は彼氏からのメールに適当な返事を送った。

 夏休みに入る前、マキシマくんは陸部ではないことがわかった。
 忘れ物をして学校に戻った時、マキシマくんがカッコいい自転車を押しているのを見たからだ。そう言えば、なんか、自転車の部活あったなあと漠然と思い出す。マキシマくんは晴れやかな笑顔を浮かべ、いかにも先輩といった風貌の男子と楽しく談笑していた。マキシマくんの目は真っ直ぐ前に向けられていたので、私と視線が重なることは当然ない。

 夏休みが終わった後、マキシマくんは表彰されていた。でもみんな自転車競技部にあまり興味を持っていないから、居眠りをしたり友達と話したり、とマキシマくんに注目することはない。マキシマくんは緊張で引き攣った笑みを浮かべ、変な足取りで階段を下りていく。

 私が平均以上に可愛い容姿だということは、小学校の中学年頃にはきちんと自覚していた。可愛い子は虐められるという説もあるが、あれは自分の手札をきちんと理解してないから起こる悲劇だ。可愛いね、と言われたら『そんなことないよー』とは言わない。行き過ぎた謙遜は人に不快感を与える。『えーでも私結構皮下脂肪とか凄いしさあ』と困ったように笑って、無い脂肪を掻き集めて見せつける。相手が自慢と受け取る出来事は例え本当に困っていたとしても話さない。ある一定のラインを節度を持って弁えていれば、同性も私をちやほやする。『ブスの僻み』という言葉を、女は何よりも嫌う。

 私はそうして周りに同調して生きてきたから。だから、だろうか。

 変と笑われても、指を差されても、決して自分を負けずに貫き通したマキシマくん。マキシマユウスケくん。
 気付いたらいつも、目で追っていた。
 







 人工的な冷気が満たされた四角い箱の中で、同年代の子達がプリントと睨めっこしていた。気だるげだったり真剣だったり。5メートルほど離れた先では、ホワイトボードの前でこの夏が本番だと熱く語る塾講師がいる。はいはい夏は受験の天王山ね、耳にタコができるくらい聞いた。

 ふわあと欠伸を噛み殺し、ぎっしり詰まったスケジュールを流し読みする。それなりの大学には行きたいからそれなりには頑張らないといけない。講師の話が終え、生徒たちがまばらに席を立っていく。私も皆に倣って席を立ち、教室を出る。

「南条」

 テノールボイスが耳を打ち、顔を上げるとそこには金城くんが立っていた。今日も人好きのする笑顔を浮かべながら、私を見下ろしている。

「金城くん」
「今終わったとこか」
「うん。へー。そっちも今終わったんだ、意外」
「何でだ?」
「や、Aクラスともなるともっと長々と意気込みについて語られるのかなーって思って」
「ははっ」

 金城くんは爽やかに笑って肩を揺らした。金城くんとはクラスこそ一緒になったことがないが、塾は同じだ。塾でもオツムの出来の具合から同じクラスになったことはないが。私のパンクした自転車を金城くんが直してくれたことが友情の始まりだ。

 …普通、こっちだよね。

 誰もが認めるイケメンに助けられた。それなのにも関わらず、私は金城くんに恋愛感情を持たないで、裕介くんに落ちた。自分で自分がよくわからない。

「巻島とは最近どうだ」

 ピシッと笑顔が強張ったのがわかった。金城くんとはクラスが離れている。昨日、金曜日に起こったことだ。私と巻島くんが別れたことを、金城くんは知らない。にこやかに微笑みかけてきた金城くんから、一瞬だけ視線を逸らした。

 …いつかわかることだし、言っちゃおう。

 明るい口調でさらりと言うよりも速く、金城くんが口を開いた。

「南条は、ずっと巻島のこと好きだったからな。思いが通じて、本当に良かったとオレも思っている」

 最大限に目が見開かれ、息を吸うことも忘れた。からからに乾いた喉に声が貼りついてうまく出てこない。振り絞るようにやっとの思いで吐き出した声は情けないほど掠れていた。

「なに、言ってんの」
「なに、とは。オレは事実を言っただけだが。南条、よくオレから巻島の話を聞きたがっていたじゃないか」
「や、あれは、裕介くんが変な人だから、なんか興味持って、別に、ただ、面白いなって思って、それで話聞きたかっただけで」

 体中が燃えるように熱い。熱い頬を見られないように顔を下に向けながら、途切れ途切れの言葉を落とす。

「ていうか私、付き合ってる彼氏いたじゃん。塾の終わりに迎えに来てくれていた男の人、見たことあるよね?」
「ああ、だから言わないでいたんだ。引っ掻き回すのもどうかと思ってな」

 金城くんは優しい眼差しで私を見つめていた。きっと殆どの女子が歓喜の声を上げて倒れるような、そんな眼差し。でも私が眩暈を覚えたのは彼の眼差しではない、言葉だった。

「巻島のことを聞いている時の南条が、彼氏と一緒にいる時よりも幸せそうだなんて言ったら、混乱させてしまうだろう?」

 優しく諭しかけるような声音に、更に体温が上昇した。半ば無理矢理口を開いたけど息を吸いこむだけで終わった。火照った口内を冷ますように冷たい空気が流れ込む。きゅうと締め付けられた心臓を抑えるように、胸元を強く握りしめた。

「―――金城」

 …え。

 どくんどくんと心臓が早鐘を打つ。嘘だと思いたかった。今、こんな状態で会いたくなかった。金城くんが「ああ」と声を上げる。その続きを言わないで、そう願ったのに。

「巻島」

 あっさりと打ち砕かれた。

 ゆっくりと視線を上げると、ロードバイクから降りた裕介くんの視線とちょうどぶつかり合って、ぎゅうっと心臓が悲鳴を上げた。








「お前、オレを着拒してんだろ」

 駅のベンチに場所を移すと、裕介くんは開口一番そう言った。

「…裕介くん、元カレと同じ行動してんね。着拒されてんのに直接会いに来るとか、こわぁ〜い」

 わざとらしく震えあがってみせて、はっと鼻で笑う。私と連絡を取れない裕介くんは金城くんに事情を話して、足止めをしてもらったらしい。別っていて『巻島とは最近どうだ』と聞くなんて、…良い性格してる。チッと舌を小さく鳴らした。

「元カレじゃねえッショ」

 矢を射抜くようなよく通る声が、凛と鼓膜を打った。
 言われた意味を理解できなくて「…は?」と目を見張る私を真っ直ぐに見据えながら、裕介くんはもう一度、はっきりと口にした。

「元カレじゃねえッショ。オレ、お前に別れよって言われて、オッケーしてねえ」

 開いた口が塞がらないとはこのことを言うのか。私はあんぐりと口を開いて「…それ、マジで言ってんの?」と呆れ返った声で訊いた。

「おう、大マジッショ」
「普通、別れよって言われたら、別れない?」
「残念だったなァ、そんな物分りの良い男じゃねえッショ」
「…めんどくさ…」
「そのめんどくせー男に付き合えつってきたのが運の尽きだったなァ」

 にやりと口角が釣りあがる。意地の悪い笑顔に、悔しいことに胸を高鳴らせている自分が腹立たしくて、苦虫を噛み潰したような浮かべて舌を鳴らす。

「お前、すぐ舌鳴らすなァ」
「誰が舌鳴らさせてんのよ」
「オレッショ」

 ブチッと堪忍袋の尾が切れる直前、裕介くんは声を張り上げた。決して大きくはないけど、覇気のある声は真っ直ぐに私の胸に届いた。

「インハイ、来い。言いたいことがある」

 教室にいる間は弱気な瞳に、強い意思が瞬いていた。有無を言わせないような口調で畳み掛けてくる裕介くんに、私はただ気圧される。

「交通費かかるとかつまんねーこと言ってんじゃねえッショ。死ぬほど嫌ならオレが出してやる。時間は無理矢理作れ」
「は、え、ちょっと、」
「お前は、オレの彼女ッショ」

 熱を湛えた二つの瞳に心ごと捉われて、いつものように上手く躱せない。呼吸すら困難で、喉がからからに乾いていて。目を逸らそうとしたら揶揄に塗れた声が降ってきた。

「そういう顔、すんだなァ」

 見上げると、裕介くんがニヤニヤと楽しそうに笑っていて、カッと沸騰するような怒りが達した。

「…行かない」
「無理」
「行かない!!」

 激情のまま言葉を叩き付け、踵を返し肩を怒らせながら早足で歩く。手首を強く掴まれた。ぎらっと振り向くと、裕介くんはびくっと怯んだ。さっきまでの勢いはどこ行ったのと呆れながらチャンスだと思い「…離してくんない?」と冷たい声で言う。

「や、夜だし送る、」
「親呼ぶから大丈夫」
「でも、」
「今ここで痴漢って叫ばれるのと、手を離すのどっちがいい?」

 にっこりと完璧な笑顔を浮かべ、甘ったるい声で脅迫する。サァッと血の気が引かせていった裕介くんはぱっと手を離した。冷たい目で一瞥し、くるりと背を向ける。階段を昇る度に、ヒールが床を打つ音が響く。

 みんなが喜ぶような甘ったるい言葉だって聞いてきた。
 それなのに。

 ―――『お前は、オレの彼女ッショ』

 泣きそうになるほど、嬉しい、なんて。

 目の奥の熱を振り払うように、ぶんぶんと首を振る。すうと息を吸いこんで吐き出すと熱く湿った息が喉を震わせた。

 ついこないだまで彼氏がいた。その彼氏のことだって付き合っている時は普通に好きだった。
 別にずっと裕介くんのことを見ていた訳じゃない。
 他の人間とだってキスしたし、それ以上だってした。
 こんなの、誰としても同じだと思っていた。

 裕介くんがイギリスに行くと知って、床が抜け落ちたかのようにふらついた。
 突然告白するなんて、打算も計略もない行動に出た自分が信じられなかった。
 裕介くんは私みたいに派手な女タイプじゃないと知っていた。だからオッケーされた時、安心で膝が崩れ落ちそうだった。
 何気ない会話のひとつひとつに、胸がむずむずした。
 下手くそなキスが、嬉しかった。

 どれもこれも『普通』なんて表現では収まりきれなかった。
 全然、同じじゃなかった。

「…っざけんな…っ」

 憎々しげに落ちた言葉は震えていて掠れていて、あっという間に喧噪の中に消え込んだ。



[ prev / next ]
- ナノ -