■ 11:インスタント・ラバーズ


 廊下の端っこでビジネスのように持ちかけられて、なんとなく気分が乗って頷いた。
 情緒からかけ離れていて何の面白みもない。
 けどそれが、紛れもない、オレ達の始まりだ。
 

 表彰式も終わり、帰宅の準備も終え、休憩時間をもらったオレは突き抜けるような青空をポケットに手を突っ込みながら、ぼうっと空を仰いでいた。この三日間色々あり過ぎて、正直なところ頭からすっぽり抜けていたがいざその事実を突きつけられると虚無感に襲われ、ふっと自嘲が唇に滲む。

 …マジで来なかったな。

 一日目も二日目も、南条は姿を現さなかった。電話もメールもない。絶対行かないと取り乱しながら叫ぶ南条に脈有りだと踏んだが、…違ったか。

 昔見た恋愛映画の主人公は恋人にフラれた時、悲しみを『世界が色を失くした』と表現した。恋人が傍にいると、世界が鮮やかに色づいて全てを魔法がかけられたように特別な瞬間に変えると、言っていた。オイオイ、それじゃあオレの場合、ロードバイクが恋人になっちまう。そう鼻で笑い飛ばした。

 アイツにフラれても、世界は綺麗だ。どこまでも広がる青空は高く澄み切っていて、勝利に涙ぐむ仲間たちの瞳は輝いていて、オレも、アイツのことすっかり忘れていた。
 けどこうして元の世界に帰った時に、生意気にほくそ笑みながら待っているアイツがいないと。

「…ふざけんなって話ッショ」

 自分は忘れていたくせに。置いていくくせに。
 寂しいと、思うなんて。

 前髪をくしゃりと掴みながらクハッと苦笑を零すと、とんとんと肩を叩かれた。特に何も思わないで振り向く。

 比喩ではなく本気で一瞬呼吸が止まった。

「やっほ〜」

 ひらひらと手を振りながらにっこりと笑っている南条が、確かに、オレの目の前に立っていた。

 南条はくりくりの大きな瞳でオレを見つめ「ねえねえ」と甘えた声で話しかけてきた。

「私、裕介くんに訊きたかったことあるんだ」
「え、は、え、な、なんだよ」

 緩やかに瞳が細められ、桃色の唇が弧を描く。南条は甘ったるい声で、毒を吐いた。

「あれだけ大見得切っといて、負けるってどんな気分?」

 グサァァァッと言葉のナイフが心臓に刺さった。ウッと言葉に詰まるオレを見上げながら、南条はわざとらしく首を捻る。

「来いとか言いたいことがあるとまで言っておきながら負けるってどんな気分なんだろ?どんだけ恥ずかしいんだろ?って私、不思議で不思議で。あっ、ていうか東堂くん初めて見た〜、イケメンだったね〜、ファンもたくさんいたね〜、裕介くんのファンは一人もいなかったね〜!!」
「………普通、高校生にファンとかいねえッショ…」

 そう返すので、精一杯だった。昔レースの時に見かけるちょっと可愛いなって思っていた女子に『あの、メアド、教えてくれない…?』『え、あ、まあ、いい、』『東堂くんの!!』『あ、ウン』という会話を繰り広げた時の傷とか、全然思い出してねえッショ。

「まあでも。確かに東堂くんかっこよかった。あれはモテる」
「………まあ、そうだな」

 東堂の顔立ちが整っているなんて空が青いのと同義だ。だからそれを口にされたことで別に何も思うところはない。はず、なのだが。
 苛立ちがふつふつと沸きあがる。腹の底からせり上がってきて、やがてそれは体中を支配する。

 女子が東堂のことカッコいいと黄色い声を上げるのは当然のことで。別にそれに対して特に何か思ったことなんて一度もないのに。
 胸を巣食うこの感情の名前を察しているがそれを心の中と言えど明確に言葉にするのは悔しくて、代わりに唇を浅く噛む。

「…つーかお前見てたのかヨ」

 不機嫌に問いかけると南条は「まあね」と頷いた。

「行かないつったのはどこのどいつッショ」
「気が変わった」

 からかうように問いかけても南条は感情を波立てることなくあっさりと返す。あの夜見せた動揺に揺れた表情は幻だったんじゃないかと思えるほどだ。

「暑い。怠い。虫いた。キモい」
「オレのせいじゃねえッショ」
「裕介くんが呼んだんでしょ。あ、あと交通費結構かかった」
「…わーったよ、払う」
「いらない。文句言って困らせたいだけ」
「………お前な…」

 肩から背中にかけてずっしりと疲労感が圧し掛かってくる。無理矢理持ち上げた唇の端がぴくぴくと痙攣する。

「裕介くん」

 一言一言に、真摯な想いが籠められていた。声音同様に南条の大きな瞳にはしっかりとした意思が感じられる。強い眼差しでオレを真っ直ぐに見上げながら、南条は言った。

「話があるって言ってたけど、正直、そのこと忘れてたでしょ」

 痛いところを突かれて、言葉に詰まる。不自然に目を泳がせると南条はふうっと息を吐いた。

「ま、そんなことだろうだと思ったけど」

 そっと寂しげに瞳を伏せて諦観したような笑みを浮かべる南条に、ぎゅうと心臓を掴まれて、何を言えばいいかわからないまま声を掛けようとしたら、それを押しとどめるようにチッと盛大な舌打ちが響いた。

「ほんと人生詰んだ。なにこれ。モテないし童貞だしつまんないし負け犬だし彼女のこと忘れるし、ほんと全然良くないマジ最悪」
「…おい、もしかしてそれってオレのこ、」

 無理矢理浮かべた引き攣った笑みは、ずっと鼻を啜る音を聞いて硬直した。南条は鼻の先を赤くし、何かに耐えるように唇を噛んでいた。鼻の穴が膨らんでいて、唇を強く噛みすぎているため顎に不自然な窪みが浮かんでいる。

「…こんなのにハマるとか、不覚過ぎる…」

 全然可愛くない、それどころかブサイクな泣きっ面だった。

 東堂、オレ、やっぱ変な性癖みたいッショ。

 胸が高鳴りを覚え、どくどくと心臓が忙しなく動く。背中を這うぞくりとした快感がオレを変態と示す何よりの証拠だ。

 いやでも変態で何が悪い。男なんていや人類なんて、みんな変態だ。

「…南条」

 口内に貯まった唾を飲みこんで、若干上擦った声で呼ぶ。赤く潤んだ目でじとりと睨み上げられた。強い眼差しから放たれる鋭い眼光、その剣幕に一瞬気圧されるが足を地に踏ん張って、しっかりと視線を返す。

「…前、お前がクラスの女子泣かせた時、『お前はそんなことする奴じゃねえ』つって、わかったように言うんじゃねえってキレられたこと、あっただろ」

 南条はクラスの中で浮いた存在となっていた。高校生などで目に見えるイジメはないがハブられている。終業式間近に起こってすぐ夏休みに入ったからといって有耶無耶に終わらないだろう。
 なんで計算高い南条が自分を不利な立場に追いやるようなことをしたのか。自惚れだと笑われるかもしれないが、オレが関わっているような気がした。

「あれ、お前がイジメとかするような良い奴だから、とかそういう理由じゃねえッショ」

 信じている、なんて綺麗な感情ではない。
 二ヶ月という短い月日だけど、オレは知っている。
 南条めぐみはひどく計算高い女だということを。

 南条の目をしっかりと見て、オレは言った。

「お前が虐めるとしたら、自分が主犯だってわからないように人の手を汚させて虐めるッショ」

 南条は大きな目をぱちくりと瞬かせた。奇妙な沈黙が流れる。南条は顔を俯けさせたかと思うと、腹を抱えながら笑い始めた。

「…ぷ、くく、はは、あははははは!確かに、そーだね!あはは、あはははは!!」

 裕介くん、私のことよく見てんじゃん。南条はにやりと笑いかけてきた。艶やかに光る桃色の唇に弾む心臓に気付かない振りをして「…だから、」と籠った声で言葉を継いだ。

「納得いかねえッショ。お前があんなとこでキレた理由とか、直接的な言葉を遣ったとことか。お前だったら、もっと相手を褒めるように見えて毒を吐くとか、そういったことすんだろ。…もしかして、」
「裕介くん」

 凛とした声が響く。南条はにこやかにほほ笑んでいる。全てを跳ねのけるような、そんな笑顔だった。それ以上オレが何を聞いても答えはしないだろうと悟ってしまった。

「…お前、これからどうするッショ」
「んー。とりあえずあやまろっかな。流石に言い過ぎちゃったしねー。うまく持っていけばグループ復帰できるかもしんないし。ま、学校外での遊びには誘われなくなるだろうけどねー。ぼっちライフの開幕〜」
「楽しそうに言うことかァ…?」
「裕介くんだって一年の頃ぼっちで練習してたんでしょ」
「オレは別に………え」

 なんでお前がそれを知って…?

 表情が物語っていたのだろう。南条は「ああ」と頷いてから、

「なんででしょう?」

 三日月のように細めてにやりとほくそ笑む。茶目っ気たっぷりの声音はじわじわと思考を蝕んでいき、やりきれない思いが胸に広がる。

 別に守りたいとか思わないし、傍にいるだけで幸せとかも思わないし、南条に出会って世界が変わったとかそういうこともない。

 だけど、なんか、ただ、欲しい。
 汚い欲望に塗れているそれが、オレの本音だ。

「南条」

 背筋を伸ばして、南条を見据える。畏まった雰囲気から察した南条はにやにやとおかしそうに笑い始めた。小さく舌を鳴らし、コホンと咳払いする。頬が異常に熱い、絶対赤い、ああ格好悪い。

「…お前と付き合って、何回もムカついたし、意味わかんねえ女って思ったッショ。けど、なんか、」

 何言っているんだか、自分でも全然わかんねえ。雑誌でも読んで研究してきた方が良かったのかァ…?…いや、やめといた方がいいな。

「すげえ、これからも、オレの彼女でいてほしい」

 だって。雑誌で載っているような『これで落ちる!』という言葉だったら、間違いなく鼻で笑い飛ばす。
 オレを窺うようにじいっと見上げているこの女は、そういうヤツだ。

 どぎまぎと忙しく鳴り立てる心臓の音が大きくて、聞こえてやしないかと緊張が滲む。暫く視線を交わしてから、南条は静かに目を伏せながら呟いた。

「じゅーろくてん」
「…は?」

 つまらなさそうにオレを見つめながら「今の告白。マジ微妙。16点」と淡々と駄目だししてくる。

「じゅ、じゅうろ…く…?」
「何から何まで駄目過ぎて、どこから駄目って言えばいいかわかんない。私じゃなかったらフラれてるよ」

 呆れたように言うものだから、一瞬聞き逃しかけたけど。でも。今、『私じゃなかったらフラれてる』と、南条は言った。

 『私じゃなかったら』。

「…っ」

 ぶわっと鳥肌が立ち、頬が熱くなる。南条はやれやれと肩を竦めながら、ふうっと息を吐く。愛くるしい顔立ちが色づくように甘く艶やかな笑みに埋もれていく。でも瞳の奥が挑発的に瞬いていた。

 甘くて、ぴりっとする。ぞくりと肌が粟立った。

「あーあ。残念だなあ」

 ぼうっと意識が朦朧としていたオレは一拍たってから「なにが、ッショ」と茫洋と返す。南条はちらりと視線を寄越し、またにやりと笑った。

「東堂くんとの勝負に勝てたら、また胸揉ませてあげようって思ったのに」
「……!?」

 思わず噎せこんだオレをけらけら笑いながら「大丈夫?」と背中を擦ってくる。大丈夫じゃねえ、全然、大丈夫じゃねえ。ぎろりと睨みつけても南条にとっては痛くも痒くもないようで、まだけらけらと笑い続けている。

「ほんっと裕介くんって面白い!」

 無邪気な体を装ってけらけら笑う小悪魔。良いように転がされてんなァ、と溜息をつきながらも。まんざらでもない気分だった。

 ロマンチックの欠片もなくて、ドラマチックな出来事もなくて。誰にも羨ましがられないような即席の恋愛。

 でもそれが、オレ達の恋の形だ。




インスタント・ラバーズ


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