6 やがて花を咲かせるだろう




 明の瞳からぽろりと涙が零れ落ちた瞬間、思考が止まった。
 なんかやっちまったのか。なんか言っちまったのか。ぐるぐると行き詰まった思考回路を必死に回らせて考えたがそうしている間にも明は泣いていて、焦りはどんどん募っていくばかりだった。
 俺は久しく泣いていない。体育祭で、まぁ、…目頭は熱くなったが、明のようにぼろぼろと泣く事はもう何年もしていない。
 でもそれは明だってそうだ。いや、明は俺以上だ。だって俺はあんなに泣いている明を初めて見た。
 ずっと傍にいたのに。ずっと傍にいてくれたのに。
 声をあげて苦しそうに震えながら泣いているお前の背をたださすることしかできなかった。



「焦凍?」

 心配そうに呼ばれてハッと我に返る。お母さんが心配そうに俺を見つめていた。
 また、心配させちまった。お母さんにまで。
 ごめんと急いで謝るが、お母さんは眉を寄せながら「大丈夫?」と上半身を動かして俺の顔を覗き込んだ。その拍子にパジャマの上から羽織っていたカーディガンが少しずれる。身を起こして俺を気遣うお母さんに「大丈夫だから」と慌てて手で制した。
 今俺はお母さんのお見舞いに来ている。
 何故かお母さんが泣きながら謝った。許しを乞われるとは思わなくて吃驚して言葉に詰まった。
 アイツに出会って人生を滅茶苦茶にされたのに。それでも、アイツの遺伝子を色濃く受け継いだ俺の幸せを願ってくれた。
 自分を後回しにしてひたすら誰かの幸せを想うその笑顔はあの時の明に、似ていた。

『おめでとう』

 鼻の先を赤くさせて嗚咽を必死に押し殺して笑う明を思い出すと、胸の奥がもぞもぞと動く。

「…、お母さん、明って覚えてるか?」
「ああ、明ちゃん。覚えてるわよ。今も仲良しなんでしょう? 冬美から聞いてる」
「…………うん」

 小さく頷いてから、黙り込む。明の話を持ち出したのは俺なのに何と続ければいいかよくわからなかった。

 気づいたら、明はいつも傍にいた。ショート、ショート。ガキの頃からの呼び名をいつまでも続けて、俺の隣で大きく笑っていた。

『ショート、プリンいる? これ美味しいよー! コンビニのだけどケーキ屋並!』
『ショート、また背ェ伸びた? いいなぁ。五センチちょうだいよ〜!』
『ショート……暑い………かき氷作って…………』

 親父を否定する事に憑りつかれて荒んだ日々の中でも時折、安らぐ瞬間が在った。遠慮がちに淡く灯る、小さな小さな光。

「……ずっと、隣にいてくれてたんだ。あいつ」

 独りごちるように呟くと言葉が実感を伴ってじわじわと体に馴染んでいく。明は、ずっと傍にいてくれてた。

「俺、ずっと、親父のことばかりで。面白い事もなんも言えねぇのに、傍にいてくれた」

 明への気持ちは親父に向ける憎しみでもお母さんに向ける懺悔でもなく、感謝と戸惑いだった。どう言葉にしていいかわからず、俯きながら下手くそに言葉を継いでいく。いつもそばで笑ってくれる俺の幼馴染み。どんな時も笑顔だと思い込んでいた。
 
「だからありがとうって礼を言ったら、明、泣いちまったんだ。……なんで泣いてるのか、全然、わからなくて」

 右往左往とするばかりの自身が歯痒くて自己嫌悪が募る。無償の優しさを降り注いでくれた明に俺はなにもできなかった。お母さんの猿真似して背中を擦ることしかできなかった。
 なんで泣いてるのか何がそんなに悲しいのか、ちっとも理由が掴めなくて、掴めないことが寂しくて。
 ガキの頃からいつも傍にいてくれた明が、ひどく遠い存在に感じられた。

「わかりたいって思ったの?」

 優しい声に誘われるように視線を上げると声色と同じ視線が俺に注がれていた。お母さんの指摘はすとんと深く胸に馴染んだ。霧が開けたように思考が鮮明になる。

「そうか」

 ひとつ頷いて、お母さんの言葉を胸の中でなぞる。
 涙の理由がわからなくて寂しかった理由は、ただひとつ。

「俺、あいつのことわかりたいんだ」

 ずっと近くにいたのに明のことを何も知らないんだ、俺は。それが歯痒くて寂しくて悔しい。

 お母さんが入院してからは怒りと憎しみに駆られる日々だった。だけど楽しい思い出が少しもない訳じゃない。
 明といっしょに食べたプリンはちょうど良い甘さだった。
 明が貸してくれた漫画から技のヒントをもらった。
 小さな小さな思い出が少しずつ降り積もって、俺の心を暖めてくれていた。
 氷付けられた世界にかすかに灯る優しさに、ずっと、気づかないうちに、救われ続けてきた。
 
「あいつのことちゃんとわかって、泣かすんじゃなくて、笑顔にしたい」

 胸の奥に宿った願いが、するりと口から出てきた。緑谷のおかげで体の中の風通しがよくなったのだろう。今まで蓋をしていた願望がぽろぽろこぼれでる。

「じゃあ、明ちゃんとたくさんお話ししないとね」
「ああ。………なにから話そう」
「なんでも大丈夫よ。明ちゃんだもの。あなたが話すこと、何にでも喜んで耳を傾けてくれる」
 
 俺は会話が下手くそだ。面白い話題など何も持っていない。不安が滲み出ている俺の背を押すように、お母さんは強く頷いてくれた。

 それでもまだ一抹の不安は拭えなくて、俺が話しかけても喜んでくれるだろうかと明を思い浮かべてみる。

 すると、ショートと弾んだ声で嬉しそうに笑いながら駆け寄る明がいともたやすく浮かんだ。
 都合の良い虚像かもしれない。だけど、こんな驕った想像を簡単にさせてくれるほどあいつは俺に安心感を与えてくれていた。

 胸の奥底から暖かいなにかが溢れ出る。だけど何故か、少し苦しかった。
 この気持ちは感謝とそれからなにかが混じっている。
 何かかは、まだ、わからないけど。その気持ちはたくさんの願いで構成されていた。

 今までは明が来てくれた。だけど今度は俺から会いに行きたい。
 今度は俺が笑わせたいんだ。

「……笑いの講座とかやってねぇかな…」
「……………ん?」




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