Extra:目が慣れたら探すから




 気づいたら。いつの間にか。無意識のうちに。
 明に、手を伸ばしていた。
 



「朝、一緒に勉強しねえか」

 図書室で苦手な英語を勉強していたという明にそう誘いを持ち掛けると、明は目を見開いた。夕方は予定が詰まっているが朝なら空いている。同じ学校とは言え科も寮も違う俺達は会おうとしなければ会えない。明は硬直したように驚きながら俺を見つめていた。何か変な事言ったか? と首を傾げると、少し間を置いてから明は「する!!」と勢いよく声を上げた。少し裏返っていた。

「じゃあ、明日しよう。七時に迎えに行っていいか」
「うん!」
「言い出して何だが、時間早くねえか」

 ぶんぶんと左右に大きく首を振った後、明は「ぜんっぜん大丈夫!」と笑った。緩んだ頬には笑窪が刻まれている。見るからに柔らかそうな頬を見ていると、右手が中途半端に動いた。自分の手がどこに行き着こうとしているか途中で気づき、明に気づかれないように下ろした。
 
 なんだ、今の。







 翌朝、明を迎えに行くと明は寮の出入り口の前で鏡を覗き込んでいた。前髪を触りながら真剣な顔をしている。

「明」
「ひょおっ」

 声を掛けたら妙な声を上げて飛び上がった。「しょ、しょ、しょーと、」あたふたしながら慌てて鏡をカバンの中に突っ込む明は挙動不審だった。コイツどうしたんだ。何か悪いモンでも食ったんだろうか…心配になって観察していると、明がいつもと違う事に気づいた。髪の毛の上半分を妙に入り組んだ三つ編みして纏めている。花で作った冠みたいだ。

「それすげぇな」

 明の髪型を指しながら言うと、明は一瞬何に対して『すげぇ』と言われたのかわからず目を丸くした。少ししてから気づいたようで「えっ! あ、こ、これ!?」と素っ頓狂な声を上げた。

「ていうか気づいたんだ!?」
「そりゃ気づくだろ」
「嘘! 私が中学の時ロングからミディアムにしても気づかなかったじゃん!」
「何で肉の話になるんだ?」
「いやミディアムはミディアムレアの事じゃなくて…! まあいいか…。まあ、えっと、まぁ、その、気分転換っていうか……」

 ごにょごにょと口ごもりながら歯切れ悪い口調の明に「いいんじゃねえか」と返す。明は器用ですげぇなと感心の意味を籠めて。すると、明は目を見張らせて「ほんとに!?」と食って掛かってきた。にわかには信じがたいといった体だ。

「嘘ついてどうする」
「……へへ、そうだね、ふふ、へへへへへへ……」

 明は締まりなく笑ってから「ありがとう」と笑った。花がふわりと咲くように。俺はそれを吸い寄せられるように見ていた。体の火照りを感じる。ふわふわと宙に浮いているような気分だった。

「ショート?」
「あ、わりィ。今日暑いな」
「そう?」

 明は不思議そうに首をひねった。俺の方が明より体温が高いようだ。



 学校に到着し、どの教室で勉強するかという話をすると、明は俺の教室が良いと主張した。俺が普段どんな席で授業を受けているのか体験してみたいらしい。その話を聞くと俺も明が普段どんな席で授業を受けているのか体験したくなり、次は明の教室で勉強しようと持ち掛けると明は嬉しそうに笑って頷いてくれた。
 明は可愛い。自然と、またそう思った。

「ショートの席、ここ?」
「ああ」
「いい席! 私も一番後ろが良かったなぁー。座ってもいい?」
「ああ」
「ありがと!」

 何がそんなに嬉しいのかわからないが明は上機嫌で俺の席に座った。「こんな感じかぁ」と感慨深げに呟きながら、左右をきょろきょろ見渡している。八百万、席借りるな。心の中で一礼してから八百万の机を俺の机にくっつけてから、席に座る。すると、明に「ショート!」と呼ばれた。振り向くと、満面の笑顔の明がひらひら手を振っている。

「へへへ、同じクラスの気分」

 明すげぇ。すげぇ可愛い。
 明の可愛さに感心して「すげぇな」と呟くと明は「ね! なんかすごいね!」とはにかみながら同調した。なんかも何もねぇだろ。明はすげぇ。反論しようとしたら、明が「じゃあ勉強しよっか!」と話題を変えたのでわざわざ反論しなくてもいいかと思い引っ込めた。

「ショート、英語教えてくれない?」
「わかった。わかんねぇとこどこだ?」

 明が「あのね」と俺の方に身を寄せて、わからない箇所をシャーペンで指した。明が動いた時、空気に乗って明の匂いが俺の鼻孔をくすぐった。石鹸と人工的な花の匂いにふんふんと鼻を鳴らしながら嗅ぐ俺に気づいた明が「あ」とばつの悪そうな声を上げた。

「ごめん、ショート。臭かった?」
「いや、臭くねぇけど。良い匂いだと思う」
「ほんと!? よかったぁー…」

 明は安心したように息を吐くと、「えっと、その、」と照れくさそうに笑いながら言った。

「た、たまたまなんだけど、フレグランスあるの思い出して、気分転換につけてみた」
「明今日はすげぇ気分転換してるな」
「そ、そだね! 気分転換の日! みたいな…!?」

 何故かあたふたと説明している明を観察する。凝った髪型をし良い匂いを纏っている明は、どこからどう見ても女子だった。明が女子であることは昔から知っている。だけど今日はとりわけ強く女子≠ニして意識してしまう。

「え、えっと、完了形なんだけど!」

 明が再び勉強の話に戻り、俺も我に返った。今日は集中力が途切れやすい日だ。駄目だ駄目だ、と雑念を落とすべく軽く首を払い、明が指示した問題を目で追った。



 三十分後、明の脳みそから煙が上がっていた。うんうん唸りながら長文を解き終え、
恐る恐る答えを見た。正解だったようだ。明の瞳に光が宿り、ぱあっと顔色が明るくなる。

「ショート! 合ってた!」
「よかったな」
「ショートのおかげだよー! ありがと! 命の恩人!」
「大袈裟な」

 明は「あ、そうだ!」と手を合わせるが否や、椅子事俺に近づいた。ポケットからスマホを取り出して、「これ見て!」とスマホを見せてきた。明の匂いが一層強まると、心臓がどくんと跳ね上がり、体が熱を帯びた。

「お蕎麦食べ放題だって。ショート暇な日あったら行かない?」

 蕎麦食い放題。明から放たれた言葉は魅力的なものだった。しかも明と行ける。好きなものと好きなものが合算されたらすげぇ良い。

「行く」
「やった!」

 間髪入れずに答えた俺に明は「わーい!」と両手を挙げながら喜んでくれた。

「お前こういうのよく見つけれんな」
「ショートが好きそうなことないかな〜って探してたら見つけた!」
「俺の?」

 自分の好きなもの探せばいいのに。そう思いながら聞くと、明は「うん!」と頷いてから、大きく笑った。

「ショートの!」

 その笑顔を見た瞬間、五感の全てが明に吸い寄せられた。腹の奥底からじわじわと熱が高まり、やがて全身を支配する。気付いたら流れるように、右手が明の頬に触れていた。想像通り滑らかで柔らかい。明は目を丸くして、俺を凝視していた。半開きになった口から白い歯が覗いている。視線が桃色のはなびらのような唇に行き着く。どうしようもなく、さわりたくなった。無意識のうちに顔を斜めに傾けると、息を呑む音が聞こえて。

 肩を掴まれて押し返された。

 水を打ったように静まり返り、俺達は若干距離を開けたままお互いの顔を見ていた。明の瞳は大きく見開いている為か顔から浮彫になっていた。驚きと戸惑いが綯交ぜになった視線を一直線に俺に向けている。

 俺、今、明に。

 サァッと血の気が引いて謝ろうと「明」と呼びかける。すると、明の肩が跳ね上がった。畏れを宿した瞳が、俺に向けられている。

 怖がっている。俺が、怖がらせた。
 明が怯えていることを理解すると、目の前が一瞬真っ暗になった。後悔が津波のように押し寄せてきて、俺はたまらず頭を下げる。

「………悪い…」
「……えっ、あ…っ!」

 明はあわてふためきながら「違う」「待って」と言葉をぽろぽろ零していく。俺に怖い思いをさせられたというのにも関わらず、俺を気遣ってくれる。その優しさが今は辛い。

「無理すんな」
 
 傷つけた側だというにも関わらず明の顔が怖くて見れなかった。目を逸らしながら明の声を押し止めるように言葉を重ねると、明の息を呑む音が聞こえた。

「しょー、と、」

 明の弱々しい声が、ぽつりと取り残されたように響く。俺にひどいことをされたのに責めるような色は少しも帯びていない。こんな優しい明に、俺は。自責の念が更に強まり、俺は一層いたたまれない気持ちになった。






 明ちゃんは元気で明るくて友達の多い、可愛い女の子だ。
 明朗快活で初対面の人にも臆することなく話しかけ、そこにいるだけで不思議な存在感を放つ。
 ただ轟くんの事となると、

「ショート、なんだけど……」

 身を縮こまらせて畏まり、弱々しくなる。
 
 相談に乗ってほしい事があるというラインを受けた私は今日明ちゃんとお昼を一緒にすることとなった。明ちゃんと私はあの一件を経て仲良くなったのだ。今では明ちゃん、お茶子ちゃんと呼び合っている。朗らかな明ちゃんは饒舌でいつも話題をぽんぽんと提供してくれるんだけど、轟くんの事となるとごにょごにょと口ごもったり歯切れが悪くなる。恋する乙女やなぁ、と微笑ましく見つめる。

「今日、どんな感じ……?」
「んー…と」

 今日の轟くんを思い返すために記憶を巻き戻す。デクくんが心配そうに轟くんに話しかけてたなぁ。少し会話を交わした後、デクくんが「えええっ」とマスオさんのように驚いてて、面白くて可愛かった。…ってちゃうちゃう! デクくんの話ちゃうねん! そう、轟くん。轟くん。なんか、うん。

「落ち込んでたかも」

 改めて言葉にすると記憶が鮮明によみがえってきた。うん、落ち込んでた。肩を落として、頭を沈めて、何回もため息を吐いていた。

 明ちゃんは私の返答を聞くと、顔を青ざめさせた。え、と私が驚いている間に明ちゃんはテーブルに突っ伏して「ああ〜〜〜…」と呻き声を上げる。

「違うんだってぇ…」
「ど、どしたん?」

 必死に言い募るように何かを説明しようとしている明ちゃんに怖々と問いかけると、明ちゃんは腕の中に突っ伏した顔をわずかに動かして、私を見上げた。逡巡するように左右に瞳を動かして、重々しく恥ずかしそうな口ぶりで「あの、」と口火を切る。だけどそこで一旦また止まった。もう一度亀のように顔を引っ込めて声にならない悲鳴を上げながら悶絶する。

「口では言えないから、ラインする」
「う、うん」

 いったい何があったんや。口に出すのも嫌って。…いや、違う。スマホを打っている明ちゃんを見ながら、その考えを修正する。嫌そうではない。恥ずかしそうだけど、嫌そうじゃない。
 ヴヴ、と私のスマホが反応した。タップして明ちゃんのメッセージを確認する。

『ショートにキスされそうになって、拒否しちゃった』

 驚きのあまり声が出ず、口をパクパクさせながら明ちゃんを凝視する。明ちゃんはテーブルに突っ伏すのはやめていたけど、髪の毛を左右にクロスさせて顔を隠していた。だけどそこから見える肌は茹で上がったタコのように赤く、いかに彼女が恥ずかしがっているかわかった。

「……い、嫌、やったん?」
「違う、嫌じゃないの、ほんとに、ほんとに。なのに、私、めちゃめちゃ吃驚して、だってだって、そんな、あああああああああああ」

 明ちゃんは顔を両手で覆いながらぶんぶん左右に振った。情緒不安定な明ちゃんを呆然と見つめていると明ちゃんは「聞いて!」と強い口調で言ってきた。もう聞いとる。

「だって、私十年近くずっと片思いだったんだよ!? つい最近までショートは私から離れていくもんだって思ってたし、ショートが私の事、す、す、すきっていうのもまだ実感わいてないとこあるし、そんな中、あんな、あんな近く、あ、あ、あああああああ………」

 早口でまくし立てている明ちゃんは何かを思い出したのかまた顔を覆いそして押し黙った。顔も手も腕もすべてが赤い。見えてないだけで足も真っ赤なのだろう。
 キスされかけた発言と明ちゃんの狼狽っぷりに圧倒され続けてきたが、ようやく状況が呑み込めてきた。
 まあ、つまり。

「まとめると、明ちゃんは轟くんに好きって思われてる状況にまだ理解が追いついてないって訳やね」

 明ちゃんは三泊間を置いてから小さくこくりと頷いた。掌の指の隙間から潤んだ目で私を窺うように見つめ、「どうしよう…」と泣きそうな声で聞いてくる。

「ショートの事、傷つけちゃった…」
「う、ううん。でも、事情を説明したらわかってくれると思うよ? やから、一回話し合い……」

 視界の端に見慣れたもじゃもじゃ頭を見つけた。デクくん。胸の奥が少しもぞもぞと動いてむずがゆい気持ちになる。…ってデクくんは今ええねん! 轟くんの話…って。

「明ちゃん、轟くんおる!」

 急いで小声で教えると明ちゃんは目を見張らせすぐに身を縮めた。つられて私も上半身を屈めてなるべく見つからないようにする。デクくんと轟くんと飯田くんは私たちの右斜め前から更に右にズレた場所に座った。ふたりとも私たちには気づいていないようだ。デクくんと飯田くんはしきりに轟くんを励ましている。食堂はざわついている為、何を言っているかは耳を澄ましてようやく微かに言葉を拾える程度だった。

「……悪い…した…」
「罪……贖えば…」
「……メンバー……」

 いやメンバーってなんや。
 思わず突っ込みたくなったけど盗み聞きしていることをバレる訳にはいかないので、ぐっと堪える。
 聞き取れた内容から察するに、轟くんは、ものすごく自分を責めている。
 デクくんと飯田くんが必死に宥めているけど、轟くんの自己嫌悪は止まらないようだった。あちゃあ〜…と観察していると不意に至近距離から負のオーラを感じた。そちらに目を向けると、轟くんに負けず劣らずの憔悴しきった表情の明ちゃんに、思わずぎょっとする。

「私の…せいで…ショートが………」
「ま、まぁまぁまぁ! 話したらわかってくれ…」

 るんか…?
 轟くんをこっそり見やると負のオーラはどんどん強くなっていた。明ちゃんが『吃驚しただけ』『気にしないで』と言ったところで、『気を遣っている』と解釈しそうだ。話したらわかってくれるなど適当なことを言えず、私は口ごもる。
 話してもわかってくれないのならば。じゃあ。

「……お茶子ちゃん」

 怖々としながらもしっかりとした声に呼ばれる。明ちゃんは唇を真一文字に結び、意を決するように私を見据えていた。厳かなほど真摯な光が震えながらも確かに、瞳の中で瞬いていた。




 性的暴行を犯してしまった。
 しかも、明に。
 一番大事な女子に。
 相手が誰であろうと性的暴行は許されない事だが自分勝手な俺はそれを自身の大切な存在に行ってしまった事が更に俺を追い込んでいた。

 悪い事をした。相手の了承も取らずにキスをしようとする。自分の欲望を明に押し付けた。この罪をどうやって贖えばいいのだろう。轟メンバーだ、俺は。

 俺を気遣う緑谷と飯田にそう言うと二人はそんなことないと言ってくれた。『君は轟メンバーじゃない、轟焦凍くんだ! 恋愛事はわからんが交際をしている状態という事もあり想うがあまりつい行動に出してしまったと言ったら常野さんならわかってくれるだろう!』と飯田は言ってくれたが、わかってくれるくれないの問題じゃない。俺が明を傷つけた。この事実が辛いんだ。

 謝罪の言葉を色々考えるがどう言葉を連ねても薄っぺらく感じる。自室のベッドの上に腰を下ろしながら今日何回目かわからないため息を吐くと、スマホが振動した。長ぇ。電話か。めんどくせえな。億劫な気持ちになりながら、スマホをタップする。

『明』

 画面に表示された名前に驚いて、目を見開く。いつもならすぐ出るが今日は躊躇った。
 だって、もしかしたら。
 瞼を閉じて深呼吸してから恐怖心を抑えながらタップすると、柔らかな声が俺の鼓膜をくすぐった。

「…ショート?」

 明の声が耳の中に流れ込むと、胸の奥がじわりと温まった。

「…おう」
「あの、さ。ちょっと今から会えない?」

 どくん、と心臓が不穏に強く軋んだ。ぽっかりと胸の中に空洞ができて吸い込まれそうになる。何の反応も返さない俺に明は「ショート?」と心配そうに呼びかけてきた。
 からからに乾いた喉奥から必死に声を振り絞り、「わかった」と返す。

「じゃ、じゃあ、今からそっちに行くね!」

 いや俺から行くと言おうとしたら、明#に電話を切られた。ツーツーツー、と電話音が空しく響き渡る。
 虚脱感が全身を支配する。体が怠くて重い。

「当然の報いだ」

 言い聞かせる為に自戒の為に、そうつぶやく。改めて言葉として声に出したら本当にその通りだと納得できた。
 明を大切にできない奴は、明の傍にいてはいけない。





 空は濃紺に包まれていた。寮の壁にもたれながら、明を待つ。雄英の中だから安全だがやっぱり俺が迎えに行くべきだった。今度は明に電話を切られる前に伝えよう。そう思って、自分の馬鹿さ加減にため息を吐く。
 今度なんて、もうない。

「ショート」

 おっかなびっくりしながらの呼びかけだった。視線を遣ると、明が心細げに立っていた。

「…明」
「や、やっほ…」

 気まずい空気が俺たちの間にどんよりと立て籠る。明は薄く笑いながら左右を見渡し「ちょっと場所、変えない?」と言った。「あっちとか」と差された場所は木の下にベンチが置いてあった。あそこで座りながら本格的に話をしようという算段か。これからされる話題を思うと胃が猛烈に重くなった。
 だけど、仕方ない。嫌だけど、仕方ない。俺は、明を傷つけたんだ。

「わかった」

 情けないほど掠れた声が出る。明は「じゃ、じゃあ、あっちね」と裏返った声で言い、手と足を一緒に出しながら、ベンチに向かった。今朝の恐怖がまだ尾を引いて挙動不審になっているのだろう。
 なんと謝ろう。悪いだけじゃ済まない。
 泥の中を進むようにベンチに向かう足取りは重い。明は一足先に俺より早く着いていた。続いて俺が座ると明はぎゅっと拳を握った。

「ショート」

 明は何かを決意するように、俺を呼んだ。躊躇うように一瞬視線を彷徨わせてから、もう一度、俺に焦点を合わせる。
 明の瞳は潤んでいる。だけど、見た事もないような強い光を湛えていた。その光に圧倒されている間に、明は更に言葉を連ねる。

「目を、瞑って」

 なんで、と思ったが次の瞬間に理解した。
 なるほど。一発殴らせろ、ということか。
 怒っているように見えないが内心ではものすごく腹を立てているのだろう。傷ついてることを隠されるよりも気遣われるよりも、怒りをぶつけられる方がマシだ。

「わかった」

 頷いて、目を閉じる。視界を閉じると、他の五感が活発になった。明の息遣いがよく聞こえる。すう、はあ、と緊張しながら息を整えていた。明が人を殴るのは初めてだろう。明が誰かと喧嘩している姿を俺は見たことない。

 両肩に恐々と手を置かれた。それじゃあ殴れないんじゃないか? 不思議に思い、眉を寄せると明が息を呑んで肩から手を離した。

「く、くすぐったかった?」
「いや」
「そ、そっか」

 あはははと作り物めいた笑い声は、何故か恥ずかしそうだった。なんで恥ずかしがっているんだろう。それに、変だ。
 明から怒りの気配を全く感じない。

 どういうことだ? 疑問がむくむく沸き上がる。明の思考を読み解こうと必死に考え込んでいると、もう一度、肩に手を置かれた。
 明の手って小せぇな。漠然と思った時だった。

 俺の唇に、柔らかく微かに湿ったなにかが掠った。

 ………え。

 無意識のうちに目を開けていた。視界の中には、暗闇でも浮き上がるほど真っ赤な顔の明が唇を真一文字に結んで、挑むように俺を見据えている。唇をもぞもぞと動かして、浅く開けた後また閉じて、もう一度、開けた。「ショート、」と俺を呼ぶ声は、震えていた。

「朝、ごめんね。吃驚しただけだから。ショートが、その、かっこよすぎて、ビビっただけだから、嫌じゃないから、その、今、………した」

 ごにょごにょと口ごもりながら小さく呟く明は最後の言葉を更に濁すと、ばっと顔を俯けさせた。膝の上で手を組んだり握ったり広げたりと忙しない。

「嫌じゃねえのか」

 明は俯いたままふるふると首を振った。嫌じゃねえのかという質問に首を振ることは嫌じゃねえという事だ。
 安心感が胸の中に雪崩込み、緊張で強張っていた体から力が抜ける。堪らず息を吐いた。

「俺、ひどいことしたって思って……お前にどうやって償っていこうかばかり、考えてて…」
「つ、償うって、なんでそうなんの」
「性的暴行的なものになると思って…」
「なんで!? なんでそんなんの!?」
「嫌がるお前にキスしようとしたら、それは犯罪になんだろ」

 明は呆然としていた。口をあんぐり開けて、俺を凝視している。それから、ばっと頭を勢いよく下げた。

「ほんっとにごめん! ショートをそこまで思いつめさせて! ほんっとにごめん!」
「いや悪いのは俺だろ。明は頭下げるな。俺の方こそ悪かった」
「だからショートは悪くないんだって! 私嫌じゃないんだから!」

 明は頭を下げようとする俺を押し止め、身振り手振りしながら必死に力説した。

「ショートに頬っぺた触られたのめちゃめちゃ嬉しかったし、真剣な顔のショートがすごい近くで嬉しかったし、キスしようと思ってくれたのも嬉しかったし、だけど私、ショートが彼氏ってだけでもうほんっとに死ぬほど嬉しいのに、夢みたいなのに、そんな、キスとか、そんな、もうわあーってなって、だから押し返しちゃって、あの後なんであんな事したんだろうしなかったらショートとキスできたのにって、」

 理性をぐらつかせる言葉をマシンガンのように連続で打ち込んできた。
 明の言葉ひとつひとつが俺の理性をぐらつかせてくる。それなのに明はこちらの気も知らず、まだ必死になって言い募ってくる。

「だからショートが私に犯罪することはないの! ショートになら何されたって嬉しいから!」

 理性に大きな亀裂が入る。「明」と呼びかけた。急にしたら、明は驚いて逃げてしまう。それは嫌だった。逃がしたくなかった。
 明が嫌じゃないならば。

「俺からもキスしたい」

 馬鹿正直に頼むと、明は三泊間を置いてから「はえっ」と妙な声を上げた。あーとかうーとか呻きながら左右に目線を動かしている明をじいっと食い入るように見続ける。
 恐る恐る、明は俺に視線を合わせる。二人の視線が繋がった時、明は肩を少し跳ねさせてから、小さく、頷いた。

 明の肩に手を置くと、明は少し肩を震わせた。やっぱり怖いんじゃねえのか。明を傷つけてしまう不安が再び首をもたげて、肩に置いた手から力が抜ける。

「嫌じゃないよ」

 明が、俺を見ていた。顔は真っ赤だった。嫌じゃないと告げた後、一度視線を下に向けてから、もう一度俺に合わせる。唇を舌で湿らせてから、もう一度言った。
 小さいけど、はっきりと。

「…嬉しいよ」

 花びらがひとひら宙に舞っている時のような心もとない声は、やがて、俺の心の中にふわりと静かに落ちる。水面に落ちた一滴が波紋を伝わらせるように、体中に、愛しいという感情が広がった。

 明が好きだ。

 気づいたら明にキスしていた。さっきは一瞬で驚きすぎてよくわからなかったが、明の唇はびっくりするほど柔らかかった。近づくと、明の匂いが強まった。朝の人工的な匂いもいい匂いだけど、明の匂いの方が好きだと思った。
 肩から頬に手を移動させて、なめらかな頬の感触を確かめるようにふれると、明の息遣いが乱れたように感じて、唇を離す。明の瞳は恥ずかしげに潤んでいた。一瞬視線をしたに向けたあと、恐る恐る、もう一度向けられる。湿り気を帯びた瞳に見つめられると、俺の中のなにかがどくりと動いた。
 
 足りない。もっとしたい。

 明、と呼ぼうとした時だった。明の異変に気付いた俺はハンカチを取り出して、明の鼻に当ててやる。

「へっ」
「鼻血出てる」

 …と間が空いた後、明の声にならない絶叫が轟いた。







「ああ〜…私って、どうしてこう……このタイミングで…」

 鼻の穴にティッシュを詰め込みながら明は頭を抱えていた。恥ずかしいと言ってさっきから俺の方を見ない。何が恥ずかしいのかわかんねえ。

「出るもんは出るんだから仕方ねえだろ」
「だってせっかくショートと、あ、えっと、今の! 無し!」

 俺に食って掛かった後、明は恥ずかしくなったのかまた頭を抱えた。「だってまさかこんな幸せが待ってるとか思わないじゃんもう私じゃ処理しきれないよどうすんの今後どうしようこれ以上幸せになったらどうなんの誰か助けて」とぶつぶつ呟いている。緑谷みてえだ。

「明」
「へ」

 りんごのような頬に軽くキスする。ぽかんと口を開けている明に俺なりの誠意を籠めて頼んだ。

「頑張って慣れてくれ。俺、お前にもっとキスしたい」

 明は驚きを超え、真顔ような、何かを悟ったような表情になる。いつか上鳴に面白い画像として見せてもらった宇宙の猫を思わせるような顔つきだ。
 少ししてから、明の鼻に詰まっているティッシュが、更に赤く染まった。





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