10 言わなかっただけのこと
1-Aと掲げられた表札の下、私はドアから向こう側に顔を出すべきか出さないべきか、逡巡をずっと繰り返している。
…言うか、言わないか。
ショートにストーカー被害に遭っている事は言わないと決心していた。少々気持ち悪い内容の手紙をもらっているだけだし実害は出ていない事にショートを煩わせたくなかった。けど、昨日の夜。深刻な顔をした両親に改まった調子で、話を切り出された。
「焦凍くんにボディーガードしてもらわない?」
「…え?」
ぽかん、と口を開けながら両親を凝視する。
眉を寄せながら心配そうに私を見つめる両親。冗談で言っている訳ではなさそうだった。
「今日も手紙来てたの。警察も見廻ってくれてるけど、本腰入れて捜査してくれてるわけじゃないし…」
お母さんは胸の前で両手を組んでいる。その手は微かに震えていた。
「実害が出てからじゃないと踏み切れないらしいが、実害が出てからじゃ遅いだろう。お前にもしもの事があったと思うと、お父さんと、お母さんは」
そこまで言うとお父さんは苦しそうに唇を真一文字に結んだ。そこから先は口にも出したくなかったのだろう。二人が心の底から私を慮ってくれてることが伝わって、胸が熱くなる。
「本当ならエンデヴァーさんにお願いしたいところだが、あの人に付きっきりでボディガードしてもらうとなると、相当お金がかかる。もちろん、焦凍くんに頼むとしてもお金は払うよ。危険な事を頼むんだし」
「いったん、お願いしてみない? もし無理そうならこれからはお父さんとお母さんが送り迎えするから」
心の底から心配しきった顔で私を見つめる両親に『ショートは今忙しいんだから頼めないよ』と突っぱねる事はできず、
「……わかった。言ってみる」
私は小さく呟くように、返事した。
軽い調子で、明るく元気に、切り出そう。
うん、と小さく頷いて決意を固める。浅く深呼吸してからドアの向こうへ足を踏み出した時だった。
柔らかく暖かいものが顔面を包み込む。どことなく甘い匂いがした。
「まぁ! す、すみません!」
慌てたようなハスキーボイスが聞こえたのと同時に暖かいものが顔から離れる。瞬きを繰り返して状況を確認すると、サイドポニーの女子が顔を赤らめながら慌てていた。女子にしては長身で、胸が私の頭の位置に………あの、柔らかいものって……。
「こ、こっちこそごめんなさい!」
「いいえ! 私が前方確認を怠ったからですわ!」
「いやいやそれを言うなら私の方だよ! 私の確認不足のが上だから!」
「いえそれを言うなら私の確認不足のが更に更に上を超えていますわ!」
「どういうマウントの取り合いしてんの。あ、轟の友達じゃん」
ボブの女子が呆れたように突っ込んだ後、私を見てそう言った。ヒーロー科の子に知られていたとは思わず、「え、私の事知ってたの?」と心の声がそのまま漏れる。
「うん。轟と一緒に学校来てんの見た事あるから。轟に用事?」
「あ、まあ、うん」
「そうなんですね、轟さーん!」
サイドポニーの女の子が教室の中を振り返って、ショートを呼ぶ。「なんだ」とショートの声が聞こえた。
「お友達がお呼びですわよ」
「友達……」
考え込むような声の後に「明か」と答えを独りごちるように導き出す。私しか他クラスに知り合いいないんだろうなぁ、ショート…。やれやれと仕方なく思う気持ちと同時に、どこか、嬉しくも思う。まだ、私は、他の子よりもショートに近い位置にいることが実感できて。
「何か忘れ物か?」
「えーと…、」
今ストーカーに遭ってるからボディガードしてほしい。単刀直入にお願いする前に、心の準備もかねて少し雑談を挟みたい。さっき対応してくれた女子たちを話題に上げる事にした。
「さっきの、ショートを呼んでくれた子、モデルみたいだったね。背、高いし。ショートとあんま変わらないんじゃない?」
「八百万か? そう言われてみればそうだな。あいつと話す時、目線下げてない」
あの子と喋るんだ。胸にちくりと、小さな棘のようなものが刺さる。
「へえ! ショートが女子と話すの、めずらしい。どういう話すんの?」
きっとそんな大した話をしていない。そんな確信を得たくて、不穏に軋む心臓に気づかない振りをして、話を更に深堀する。
「席隣だから普通に…。あ、でも。この前大分喋ったな」
心臓が不穏に軋む音が聞こえた。なにかが皮膚の下で、どくりどくりと穿つように唸っている。
口の端を必死に上げながら、ショートを見つめる。ショートはしみじみと実感を籠めながら、彼女の事を語った。
「この前、二人一組で先生たちと戦う授業があったんだが、俺は八百万と組んだんだ。最初は俺の策でいったんだが…相澤先生にはあっという間に破られちまった。でも八百万が練った策だと勝ててな。やっぱアイツ、作戦とかそういうの立てんのうまい。
―――八百万はすげえやつだよ」
敬愛の想いを籠めた噛みしめるような呟きが、氷柱のように鋭く尖って、私の心に抉りこむ。
明はすげぇよ。
いつかのショートの言葉を、時々思い出してはにやけていた。宝物を時々持ち出して、うっとりと眺めるような、そんな気持ちで。
『八百万はすげえやつだよ』
感嘆混じりに彼女の名を呼ぶショートの声が鼓膜の中で渦巻いている。ぐわんぐわん。ぐわんぐわん。宝物を失くしてしまったような喪失感が胸を支配して、ぽっかりと、空洞が空いた。
少しだけ息を吐いて、頬の筋肉を持ち上げる。
「そうなんだ、すごい子だね!」
嫉妬と寂しさで心あらずの癖に、ショートに好かれたい一心で無理矢理明るい声を作って同調する私は、なんてみじめで、愚かなんだろう。
きっとヒーロー科の子はこんなことしない。好きな男子に合わせて自分を偽るなんて、そんなバカみたいなこと。
「私次移動教室だから行くね〜。じゃーね!」
「え。何か用あるんじゃないのか」
訝しがるように首をひねったショートにへらりと笑いかける。
「ショートと喋りたくなっただけ!」
言うが否や、踵を返して足早にその場を去る。去り際に見たきょとんと瞬くショートの顔が可愛かった。
ショートの視界から消えたであろう範囲に差し掛かると、足取りが急に水の中を歩くような重くなった。心も鉛のように重い。劣等感がぐるぐるとお腹の底で渦巻いていた。
すごい女子≠フ話を聞いた後にストーカーから守ってくれなんて言えなかった。
だってヒーロー科の子なら自分でストーカーへの対策を練れるだろう。八百万さんなんて相澤先生を出し抜いたそうだ。プロのヒーローと互角に渡り合えるような、聡明で自立した、格好いい女の子を知っているショートに『どうか守ってください』
奥歯を噛んで、劣等感を押しつぶすように、ぎゅっと拳を握りしめる。
守ってくれと頼んだらショートは快く引き受けてくれるだろう。ヒーロー科の子と比べるような事もしないだろう。だけどプライドだけは一丁前に高い私は、これ以上劣等感に押しつぶされたくなかった。
大丈夫。大したことじゃない。全然平気。
警察にだって連絡している。迷惑かけて悪いけど、お父さんとお母さんに迎えに来てもらおう。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
心の中で何度も念を押すように、唱えた。