ひだまりのまんなか

  


どんだけ胸がでかくても。
どんだけ好みの顔してても。
オレは、絶対にメンヘラ構ってちゃんとは付き合わない。

植原の眼から溢れる大粒の涙を見て、そう誓った。


「ユキちゃんごきげんななめだね〜」

ぷにぷにと人差し指でオレの頬を突いてくる葦木場が鬱陶しいことこの上なかったので、二の腕に肘鉄を食らわした。痛いよユキちゃあんと痛みを涙声で訴える葦木場をギロリとねめつけることで黙らせる。葦木場は「ひい」と恐怖心を露にした表情で息を呑んだ。

生徒でごった返しになった食堂で、オレは葦木場と塔一郎と昼食を摂っていた。真向かいにいる塔一郎が上品な手つきで魚をほぐしている。ラーメンを啜りながら頭に浮かぶのは、植原の泣き顔。いかにも『傷つきました』という顔が腹立たしくて仕方ない。せっかく、気にかけてやったというのに。確かに、少々きつい口調で言ったかもしれないが、泣くほどキツイ口調で言ったわけではない。オレだったらあんなので泣かない。たいていの人間もそうだろう。

「あんのメンヘラ…。ツイッターでリスカしよ…って呟くタイプかアアン…?あーマジあのメンヘラクソ女…」

「ユキ、言葉遣い悪いよ」

眉をハの字に寄せた塔一郎がオレをやんわりと窘めてくる。ぎろっと睨みつける。が、葦木場と違って物怖じせず、オレの睨みをしっかり受け止めてから「何があったんだい?」と腕組みをしながら訊いてきた。

よくぞ聞いてくれた。

「聞けよ塔一郎!!」

「だから聞くって」

オレは塔一郎に、オレの身にふりかかった理不尽で不愉快極まりない出来事をありのままぶつけた。話していくうちに怒りが沸々とまた沸いてきた。「な!?意味わっかんねーだろ!?」と怒りながら同意を求める。

「学校来れねー理由がちょっと陰でぐちぐち言われたから〜ってなんだよ、ガラスのハートか?人間ンなやわにできてねーよ。オレだって陰口叩かれたことあっけどよ、っつーかそんなんで傷つくとかバカじゃね?ほんとはここまで言ってやりたかったけど、言葉選んでなるべく優しく言ったのに、泣き出すとか。オレ正論しか言ってねーのに泣かれて悪役みたいになって、アーーマジ糞腹立つ!!マジでアイツおかしい!!」

しかし、それでも怒りは収まらなかった。髪の毛をガシガシ掻きながらまくし立てる。怒りながら一気に喋っただけあって、流石に疲れた。肩で息をしているオレを、何故か塔一郎は少し悲しげに見つめていた。

「…ユキ、」

続きの言葉は聞けなかった。

世界で一番ムカつく声が、嘲笑を滲ませながらオレに向けたからだ。

「さっすがクソエリート様」

…は?

隣から、世界一気に食わない声が聞こえた。嘲笑の響きを持って。

声の先に視線を遣ると、荒北さんが何事もなかったかのようにラーメンを啜り始めた。ずるずると啜る音が喋り声の中へ消えていく。

「どういうことッスか」

刺々しい声色で問い掛ける。荒北さんは「そのままの意味だけどォ」と、オレに見向きもせず答えた。

「意味わかんねーんスけど」

「わかんねーの?エリートなのに?」

「だからそのエリートっつうの、」

食って掛かった言葉は「あァ、そういうことか」と、わざとらしい気の抜けた声を作り上げた荒北さんによって防がれた。

「エリートだから、わかんねェんだな。一度も間違ったことのねェ、エリート様には」

いつも、いつも、オレを煽る目的で荒北さんから吐き出される『エリート』という単語。それが、今日は侮蔑の色がいつもより濃かった。ただでさえ、イラついてイラついて仕方ないというのに、世界で一番ムカつく人間にわかったような口を利かれて、オレの怒りは理性を吹き飛ばした。

「言いたいことあんならはっきり言えよ!!」

どれだけ荒北さんにムカついても、後輩として一定の態度はとってきた。それが、今、オレは初めて荒北さんにクソエリートと揶揄された時のように敬語を遣わず、怒りをむき出しにし、瞳に嫌悪を宿して睨みつけている。こんなに怒りで全身が包まれたのは人生で初めてだ。しいんと食堂が静まり返る。荒北さんとオレの間に流れる空気があまりにも殺伐しているので、周りの奴らがちらちらと視線をオレ達に寄越している。すっかり空気が冷え切っていた。荒北さんは周りの視線など一切気にせず、ラーメンを食べ続ける。

「そのナントカっつー女に、エリート様によるエリート様目線のご立派なご講義をなさってて、いやァ、ご立派なこったって感心したっつーことだよ。流石世界の中心のエリート様は言うことが違うわァ」

荒北さんはやっとオレに視線を向ける。言葉とは裏腹のオレを馬鹿にしきった冷たい揶揄が瞳に浮かんでいた。ぶちぶちとこめかみの血管が音をたてて切れていく。この場の雰囲気に似つかわしくない慌て方をしている葦木場と頭痛でも抱えているようにこめかみに手を当てている塔一郎の姿は怒りのあまり視界からフェードアウトしていた。

「エリートエリート言うんじゃねえ!!意味わかんねーよ!!」

荒北さんは箸を動かす手を止めた。冷めた瞳に怒りで熱をあげているオレの姿が映っていた。荒北さんはぱっくりと口を開けた。

「バァーーカ」

ブチッと堪忍袋の尾が切れた。勢いよく掌を机に叩き付けて胸倉を掴んだ。荒北さんは平然としていて、それがさらに怒りを増幅させる。先輩とか、まともに喧嘩したら間違いなくオレが負けるとか、そういった理性は頭から吹っ飛んでいた。ぶん殴ってやる、と掌を拳に変えた時、手首を掴まれた。ひんやりとした体温の持ち主は。

「落ち着け」

ロードバイクに跨っている時のような静けさを纏っている東堂さんが、氷のように冷静な瞳でオレを射抜いた。東堂さん、と震える口で小さく呟く。東堂さんは先ほどまで部誌をつけていた。憧れのクライマーの東堂さんに醜態を見られたことが恥ずかしくて、羞恥で顔に熱がともる。東堂さんは荒北さんに視線を移した後、ハァッと溜息を零した。

「荒北、お前もわざわざ黒田が嫌がるような物言いをするな。煽ってるようにしか見えんぞ」

「煽ってんだよ」

「煽んじゃねーよ」

へいへい、と、雑に返した後、荒北さんは乱れた襟元を直しもしないで再びラーメンに手をつけ始めた。何事もなかったかのように。苛立ちという言葉ではおさまらないほどの怒りが再び湧き上がりそうになるが、それは東堂さんに名前を呼ばれたことで沈められた。

「今日、一緒に登るか」

憧れの東堂さんからの申し出だ。普段なら二つ返事で了承するところだ。しかし、今、何故か親に叱られて不貞腐れているガキのような羞恥を覚えているオレは、ほっといてほしかったが、東堂さんの真摯な瞳で見つめられると、首を縦に動かすことしかできなかった。




風が頬をうっていく。山頂に近づいていくにつれ、空気が浅く、そして澄んだものになっていく。東堂さんは、いつもと同じことをオレに話し続けた。そう、つまり、主に女子の話。いかに自分が女子にモテるかという話。無駄に動く口と極限までロスを削ったクライムスタイルは、面白いほど極端だった。

「黒田」

「ハイ」

「お前は良い後輩だ。努力家が集まっている部内の中でも特に努力家だ。礼儀正しい。オレのアドバイスを全て吸収しようと心がけて、素直で良い後輩だとオレは思っているよ」

突然、賞賛の言葉を投げかけられて、ポカンと口を開いてしまう。憧れの先輩から褒められた。普段なら飛び上がるほど嬉しいことだ。けど、荒北さんとの一悶着を見られたあと、褒められても、適当なフォローを入れられているようにしか感じられず「ども」とぶっきらぼうに返した。

「お、お前今オレが適当なこと言ったと思ったな」

東堂さんはにやりと口角を狡猾に上げた。

「…別に」

「オレは世辞は言わんぞ」

「そッスか」

シャーッと、ロードバイクの走行音の間に、風の音が聞こえる。「黒田」と、東堂さんが前を真っ直ぐに見据えながら、オレの名前を呼んだ。

「泉田から話は聞いた。お前は正しいよ。あの女子に、間違ったことなんて一つも言っていない」

東堂さんはオレ側についてくれるのか。と、舞い上がりかけた心は、次に紡がれた東堂さんの言葉によって、氷づけられた。

「ただ、相手の事情を顧みない正論は、相手を追い詰めるだけだ」

言っている意味がよくわからなかった。東堂さんはオレを見て、不敵に笑った。

「何言ってんのかわかんねーって顔だな」

「…いや」

「隠すな。バレバレだぞ。あとお前、オレに腹立ってんだろ」

「…」

この人には何もかもお見通しだ。観念したオレは小さな声で「ハイ」と肯定した。「ワッハッハ、素直でよろしい」と、東堂さんは我が意を得たとばかりに大きく笑った。

「自分以外の人間の考えなんて、意味わかんねえってのが当然だ。人はそれぞれ違う価値観を皆持っている。細部まで同じということは決してない。オレがとんでもなく傷つくことが、お前にとってはどうでもいいこと。その逆も勿論ある。逃げることでしか、自分を守れない人間もいるんだ。困難が立ちはだかっても、真っ向から立ち向かえるお前には理解できない精神だろうがな」

「…説教ッスか」

東堂さんから目を逸らして、口の中でもごつきながら不貞腐れたように言う。東堂さんは、切れ長の瞳を細めた。

「そんな大それたものじゃないさ。ただ―――、」



荒北さんから投げつけられた言葉。
東堂さんから諭された言葉。

何とも言えない苛立ちがふつふつと沸いていた。真実を言い当てられ、認めたくなくて反発したい気持ちなのだろう、これは。ガキか。オレバリアーしてたからセーフ!!とか言う小5か。あ、思い出した、小5の時鬼ごっこしてたらアイツ直前でバリアー貼りやがって…。

「ユキ」

「塔一郎…え、お前怪我したのかよ」

「あ、うん」

「気をつけろよ、お前来週大会なんだろ」

塔一郎は少し経ってから「ありがとう」と穏やかに笑った後、もう一度オレの名前を呼んでから、言った。

「植原さん、保健室にいるよ」

突然、塔一郎の口から植原の名前が挙がって、体が石のように固まった。けど、それは一瞬のことで「そうかよ」と塔一郎から目を逸らして雑に返す。

「植原さん大丈夫?って先生に話しかけられてたからわかったんだ」

「あっそ」

「ユキ」

「んだよ」

「ユキ」

「…なんだよ」

「ユキ」

無言で、じいっと、目を見据えられた。お前目力つえーんだよ、ああ、わかったよ。忌々しげに舌を鳴らしてから、塔一郎を睨みつけた。

「行けばいいんだろ行けば!!」


小5の時、タッチしようとした瞬間バリアーを張りやがったクラスメートと喧嘩した時、仲裁に立ってくれたのが塔一郎だったことを思い出しながら投げやり気味に言い放つと「うん」と微笑まれた。んだよその優しい目は。田舎に帰ろうに出てくる婆ちゃんか。



「…失礼しまーす」

伺うような口振りをしながら、ドアをゆっくりと開けて入ると、保健室独特の消毒液の匂いが鼻をつんとさした。「あら、黒田くん」と、保健室の先生が反応した。何しにきたのか、と問いかけられるのだろうという予測は一瞬にして破られた。

「植原さんなら奥のベッドで寝てるわよ」

「…え」

なんでオレが植原に用があるってわかったんだ?という疑問が顔に出ていたのだろう。先生はふふっと口元をゆるませた。

「植原さんねー、ちょっと良くなった時にね、黒田くんの話してたのよ。ユキちゃんって可愛い呼ばれ方されてるじゃない」

揶揄するような口振りが恥ずかしくて、「アイツが勝手に呼んでるだけッスよ」とボソボソと口ごもりながら答える。

「保健室登校すらもしなくなったのに、今日学校に来るって連絡入って吃驚しちゃった。登校しきる前にばたんきゅーって倒れちゃったけど。でも、ほんと、頑張ったって思う」

先生は目を伏せながら、暖かい声色で言った。なんだか責められているように感じて、若干視線を下に落とす。するとその時、小さくくぐもった声が奥の方から漏れた。あら、と先生が視線を遣る。

「起きたみたいよ。いってらっしゃい」

先生にぽんと背中を奥のベッドに向けて軽く押された。脚が鉛のように重い。思い浮かぶのはぼろぼろと涙を二つの眼から零している植原の顔。慰めることも、怒ることもできず、オレは呆然とすることしかできなかった。

良いことを言ったと、思っていたから。

カーテンを開けて、中に入ると少し青白い顔色をした植原がベッドに横たわっていた。光が入ってきて眩しそうに目を開けて、オレの姿を確認するように「ユキ、ちゃん?」と名前を呼んで、それから。

「ユキちゃん」

へらーっと、嬉しそうに笑った。
自分を泣かせたヤツの姿を見て。

「部活?」

「…まァ」

「そう。お疲れ様。…ユキちゃんは偉いね。授業も部活も出て。わたしは、駄目だった。ふふ」

植原が無理矢理口の端を上げて笑っていることが、ありありと伝わってきた。

「中学の時、ちゃんと挨拶しなさいって怒られたぐらいで部活辞めちゃったし。ユキちゃんは北荒さんに叱られてもちゃんと出てるのにね」

「荒北だよ誰だよ北荒って」

「あ、間違えた。…ふふふ、ユキちゃん。わたし、ほんと、間違ってばっか」

落ちてくる髪の毛が鬱陶しいのか、植原は髪の毛を耳にかけながら自嘲を零した。

「今日も学校来てみたけど、気持ち悪くなっちゃって、保健室行っちゃった。放課後まで寝ちゃった。朝起きて制服着たところまでは良かったんだけど。お母さんも応援してくれて、」

植原はそこまで言うと、一旦笑顔を強張らせて、言葉に詰まらせた。じわじわと涙が眼に浮かびあがり、その涙は崩壊した。頬に流れ落ちたあと、シーツに染みを作る。植原はしゃっくりをあげだした。

すぐ泣く女は嫌いだ。うじうじしたヤツも嫌いだ。構ってちゃんもメンヘラも嫌いだ。
植原はその全てに該当する。オレが少しでもLINEの返信をしなかったらものすごい勢いでスタンプを送りつけてくるし(超うぜェ)、意味わかんねェことで泣くし、言いたいことを目で訴えてくるし。空気読めねェコミュ障なとこもマジうぜェし。

そのくせ構ってちゃんで、一人ではなんにもできねェような弱虫が、がくがく震える脚で必死に立ち上がって、オレのレースを見に来て、学校に、来て。

「…すごくねーよ」

ぽつりと言葉を落とす。植原は驚いたように目を見開いた。半開きにされた口から「…え?」と小さく驚きの声が漏れた。

「オレだって間違ってばっかだよ。今日荒北のクソヤローにムカつくこと言われて、ぶん殴りかけた」

「え…。…え!?」

「それに、お前、泣かせたし」

目を白黒させている植原は、動きをとめた。つう、と頬を涙が伝っていく。植原と視線を合わせづらくて、自分の足元を見て、誤魔化す。

「オレ、お前の気持ちやっぱよくわかんねえ。多分一生わかんねえと思う。オレ枠からはみ出たことねーし、普通に友達とかそれなりにいるし」

わかんないのに決めつけた。自分の物差しで。それが、こういう結果に行きついたんだろう。今、ようやくわかった。

オレが16年間積み上げてきた『正論』を、植原に無理矢理押し付けて、無理させた。泣かせた。オレなりに考えたことを、泣くことによって否定されたと思って、それであんだけキレたっつーのもあるけど。

『そんな大それたものじゃないさ。ただ―――、
友人を傷つけてしまった戸惑いと悲しみを、無理矢理怒りに転換しているように見えた』

東堂さんの言葉が脳裏に浮かぶ。

あー、クッソ、そういうことだよ。

「…一方的に押し付けて、ゴメン」

軽く頭を下げる。植原の顔が怖くて見られない。また泣かせちまうんじゃないかって。唾をごくりと呑みこんでから植原を見る。目を開いてオレを凝視していた。んな見開いてたら目ェ乾くぞ。ブラックホールのような吸引力を持っている植原の瞳。気まずくて逸らしたくなるけど、真っ直ぐに見据える。

「言い訳に聞こえるかもしんねーけど、オレ、泣かせたいとかそんなつもりで言ったわけじゃねェ。…良いこと言ってる自分に酔ってたっつーのはあるけど、でも、一番の理由は、」

これを言うのは少し恥ずかしくて、一瞬視線を下に向ける。でも、またすぐに視線を戻した。植原に。

「お前と、一緒に学校で過ごしたかったっつーか」

こっ恥ずかしいことを言っている自覚はある。恥ずかしすぎて顔から火が出そうだ。でも、これがまぎれもないオレの本音。

美味いって評判の購買のパン食ったらどんな顔すんだろな、とか。葦木場と会話させたらとんでもねェ不思議チャンの空間が生まれそうだな、とか。どんな風に授業受けんだろうな、とか。制服、まァ、それなりに似合うんだろうな、とか。

そんなことが、だんだん気になっていった。

羞恥が体全体に行きわたる。植原はいつまで経っても何も言わないし。あ゛〜ッと声をあげながら髪の毛をガシガシ掻くと、「わたし」と小さな声が耳にするりと入り込んできた。

「わたし、」

植原は同じことを何度も繰り返した後、押し黙った。また植原の眼からぼろぼろと涙がバカみたいに零れ落ちてきた。布団で顔を覆って、ひっくひっくとしゃっくりを上げ始める。コイツどんだけ泣くんだ。水分なくなって死ぬんじゃねーのか。震えている小さな細い肩を見ながら呆れる。

「…ユキ、ちゃ、ん」

「なに」

「あせくさ、い」

ぶちっとこめかみに血管が浮かび上がった。テメーいい加減にしろよ!!と怒鳴りつけようとした時、植原が布団から顔を出した。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔面に思わず一歩引いてしまったオレに、へらりと笑顔を見せた。

「だいすき」

怒りが一瞬飛ぶ。飛んで、飛びきったところで、今度は羞恥が飛んできて、熱が全身を包んで。

「だからそういうこと軽々しく言うんじゃねーよ!!イタリア人か!!ピザ毎日食ってんのか!!」

「わたしピザ毎日食べてないよ」



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