ひだまりのまんなか

  



大きく開けた口に掌を宛い目を丸くして驚いているたっちゃんが覗き込んでいたものはユキちゃんが描いた絵だった。

「ユキちゃん絵描くの下手くそだね」

その隣にわたしは並んで中腰になって覗き込み、実感をこめながらしみじみと漏らすとユキちゃんは「…うっせえ…」と恥ずかしげに視線を逸らしながら悔しそうに呟いた。

「別に、絵描くとか、そういうのはオレの専門外だからいいんだよ」

唇を尖らせて言い訳するように言葉を並び立てる。こういう発言をちょいちょいするところにプライドの高さが伺える。ほけーっと口を開けながらユキちゃんって結構めんどくさい性格してるとある意味感心してしまった。

美術の時間、集中力が途切れたわたしはユキちゃんのところに遊びに行った。どんな感じ〜?とひょっこりと覗いたら、花瓶を模写しているはずなのにキャンパスには何やら新しい物体が描かれていて、目が点になった。

「どうしてこんなに下手なの?」

「どうしてお前はンな煽ってくんの?」

こてんと首を傾げ純粋に生まれた疑問を投げかけると、ユキちゃんはこめかみに血管を浮かばせながら逆に質問してきた。

「ユキちゃん!質問に質問で返すなんて失礼だよ!」

「お前ら揃ってボケんのやめてくんね?」

人差し指を立てて「め!」と注意するたっちゃんにユキちゃんは口の端を引き攣らせながら苛立ったように言う。ボケてない。わたし達はいつだって真剣だ。

もう一度、ユキちゃんの絵を見る。なんって下手くそなんだろう。ピカソのような芸術的センスも全く感じられない。とにかく下手だ。

「黒田どんなん描いて…ギャハハハハ!!やっぱヘッタクソ!!」

しげしげと食い入るようにして見つめていると、ひょいと覗き込んできた山田くんが見るなり大笑いを始めた。っせーな!とユキちゃんが恥ずかしげに怒鳴る。

「おっまえ中学の時からマジで下手くそだよなー!!クラスメートの顔描きましょうっつーやつでさァ、斎藤描いてたじゃん。そんであまりにも下手過ぎて斎藤切れたの思い出した!」

目尻に涙をうっすらと浮かばせながら息も絶え絶えになって言う山田くんの話をふうんと思いながら聞き流す。って、二人って同中だったんだね。今の会話の流れで初めて知った事実だ。それにしても、下手な、

「もしかして別れた理由って、それ?」

脳内の動きが停止した。

…へ?

思考回路がストップしてもわたしを残して世界は回る。

「んなわけねーだろ」
「フッツーになんかどっちも飽きて別れたんだよ」
「なーんだ」
「ユキちゃんの元カノ!ねえねえどんな子?」
「結構可愛かったぜー。目がこうくりっとしてて」

どくりどくりと血液が唸るようにして巡回する。元カノ。彼女。映画館での慣れた素振りを思い出してああそうかと納得する。昔の出来事をなぞっていたのか、あれは。胸の辺りが何故か苦しくて胸元に手を添えてからきゅっと掴んだ。

「あとおっぱいでかかった」
「ちょっ、おいっ」
「わー!ユキちゃんのエッチー!やるー!」
「…!?黒田巨乳の彼女いんの!?」
「マジ!?」

耳を塞ぎたい。斬り落としたい。鼓膜を揺らすはしゃいだ声がやけに耳につく。

「今いねーよ!!元だよ元!!」
「ハァ〜!?元でもいたのかよ死ねよ!!」

ぎゃあぎゃあと喚きながらも楽しそうな男の子の群れを女の子がしらーっと白い目で見ている。「これだからガキは…」「やっぱ男は年上に限る…東堂先輩とか〜!」「えー私新開せんぱ〜い」と今度は女の子達が黄色い声で色めき立てる。

ユキちゃんの元カノ話で盛り上がっている男の子の間にも、大好きな東堂様の話で盛り上がっている女の子の間にも、どちらにも入る気が起こらない。

「オレが育ててやったぜ的な感じですか黒田くーん!」
「死ね!!マジで死ね!!」

鉛のように重い足取りで席に着く。話に加われないから寂しいのだろうかと胸にそっと手を添えて自身に問いかける。心臓はどくりどくりと鳴るだけで何も答えてくれなかった。



お昼休み、わたしは女の子の友達とお弁当をいっしょに食べていた。きゃっきゃっと華やいだ声で話に興じている。ふいに佐奈ちゃんが「そういえばさ〜」と声を上げた。

「黒田ってさりげ〜にモテるよね〜」

どくりと心臓が跳ね上がった。

わたしを置いて、話は進んでいく。ああ〜と同調する声が続いた。

「あんた黒田と同中だったんでしょ、元カノどんな子か知ってる?」

「ああ〜…えっと二年の時の?三年の時の?」

友達が「んー」と顎に人差し指をあてながら首を傾げて問いかける。二年の時の。三年の時の。

二人も、いたんだ。

「えーじゃあ全員」

「二年の時はー同じクラスでー可愛かった。中2だし付き合ってみる?とかそんな感じで始まってたような…」

「ような、ってはっきりしないなー」

「だって私二年の時は黒田とも彼女とも違うクラスだったんだからしょうがないじゃん」

むっと頬を膨らませてから「でも」と得意げに胸を張って、友達は得意げに言う。

「三年の時なら知ってるよー!黒田とも同じクラスだったし、斎藤とは友達だしね!」

「え、マジでー!?」と友達が色めき立つ。興味深そうに目を爛々と輝かせて話の続きを待つ。わたしは視線を下に向けて、お弁当をじいっと見つめていた。見つめることしかできなかった。

「斎藤ってあれでしょ、おっぱいでかい子でしょ」

「そうそう。あいつ中学の時点ででかかったな〜」

「告ったのはどっちから?」

「斎藤から〜。私告白に着いてったもん。斎藤は違うクラスだったからさ〜。喋ったことないけどいけるかな〜って言ってて、まああんた可愛いからいけるいけるって背中押してさ。ま、結果OKだったしね。黒田すっげーにやけてたもん。満更でもないって顔無理矢理しててさ、ウケる〜」

「想像つくわ〜」

「アイツ面食いなの超わかる」

胸の奥に貯まった嫌な空気を逃がすかのようにわたしは浅く息を吐く。

「初チューは夏祭りのあとだってさ〜」

「うわ〜」

「ベタ〜」

「青春じゃの〜」

「二回したってさ〜」

「わ〜お」

お腹の奥で何かがぐるぐると渦巻いて、気持ち悪い。
下唇をきゅっと噛んで、胸にそっと手を添える。

「日和、どしたの」

佐奈ちゃんにつんつんと肘で突っつかれた。心配そうに眉を寄せ、わたしを気遣ってくれている。

「日和こういう誰と誰が付き合ったかって話題好きじゃ、」

佐奈ちゃんは不意に言葉を切り、「あ」と思いついたように声を漏らし、「ああ〜」としげしげと感慨深く頷いてから、にんまりと楽しげに口角を上げた。

「そうかそうか。ヤキモチかあ」

うんうんと確かめるように頷きながら、おかしそうに笑う。

…へ。

ぱちくりと瞬いている間に「えー!」と友達が一斉に声を上げた

「マジか〜!」

「え、ごめんね無神経な話して!」

「春ですねー青い春ですねー!」

みんなから好き勝手にからかわれて、頬に熱が集まる。目の前がぐるぐると回る。違う。そんなんじゃない。そんなんじゃない。視線を教室に走らせてユキちゃんがいないことを確認してほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。

「日和はもっとこう…東堂様っぽい男子が好きなんだと思ってた!」

「いやあれは心のアイドル的な感じでしょー」

わたしを置いてどんどん話が進んでいき、焦燥感も生まれる。

「いつから、黒田のこと、」

「―――違う!!」

否定が口から衝いて飛び出した。きょとりとみんなが瞬いている間に、ばーっとまくし立てていく。

「違う、そんなんじゃない!なんか、そういう、とっかえひっかえ、みたいなの、なんていうか、やだ、無理」

お箸をお弁当箱の上に置いて、手遊びしながら早口で次々に言葉を吐き出しながら、思い出すのは映画館での出来事。

彼女と映画館に来たことがあるのだろう。だからあんな風に手馴れていたんだ。経験済みの出来事をもう一度なぞっていけばいいだけだから、簡単だったんだ。ああ、そういえば今彼女いないとか言っていた。大して気にも留めず受け流していたけど、そう、『今』と言っていた。今はたまたまいないだけで、過去にはいた。

きっと、また、すぐ作る。
可愛い子に告白されたら、あっさりと。
わたしのことなんか、気にも留めずに。

そう考えると、自然と目が潤んで鼻の奥がつんと痛みを持ち、湿っぽい息が零れた。

「そんな、一回も話したことない人と付き合うって、なんか、ユキちゃん軽い。やだ、不潔」

手遊びをやめ、膝の上に手を下ろす。皺がつくくらいにスカートをぎゅうっと掴んだ。

「―――軽くて悪かったな」

背後から、怒りを帯びたユキちゃんの声が聞こえてきてびくりと飛び跳ねた。心臓が早鐘を打っている。怖くて振り向くこともできいない。視線を膝に向けてから、自然と口内に集まった唾をごくりと飲み込んだ。

「え、あー、黒田、あのちょっとこれには訳が…」

「そ、そう!ほら日和ってロマンチストじゃん!?」

あはは〜と空虚な笑い声をあげて友達がわたしを庇うように気遣った言葉を投げてくる。けど、ユキちゃんはそれに何も返さない。背中にぶつけられるようにして注がれる視線が痛い。

ふわりとユキちゃんの匂いが喉元を通って、胸の内がきゅうっと痛む。

恐る恐る顔を上げるとユキちゃんは丁度通り抜けたところのようで、わたしに背中を向けていた。

ユキちゃんが荒々しく椅子を引いた音が、鼓膜を強く揺らがした。




放課後、中庭の掃除をしているのでわたしは箒を持っている。同じく掃除当番の佐奈ちゃんは言い辛そうに呟いた。

「…まあ、日和が悪い」

ぐさりと容赦ない一言が心臓に突き刺さった。がくりと項垂れるわたしに「あーごめんごめん!もうマジ豆腐メンタルなんだから!」と佐奈ちゃんは慌てながら顔の前で手をわたわた振った。

「日和はさあ、潔癖すぎるんだよ。知らない奴に告られてもぱっと見でなんかこいついいなーって思って付き合うなんて始まりザラだよ?」

呆れ果てたように片眉を下げて、小さな子に言い聞かせるように言ってくる佐奈ちゃんに「…わかってるもん」と口を窄めて返す。

「わかってるならなんであんな軽いとか不潔とか言うの」

佐奈ちゃんは頬杖をつきながら問いかける。すうっと細めた目は咎めるような色をしていた。何も返せなくて、下唇を噛んで押し黙っていると、佐奈ちゃんは小さく息を吐き、逡巡してから「あのさ」とゆっくりと口を開いた。

「私、日和のこと最初嫌いだったんだよね」

真っ直ぐに放たれた言葉に目が点になった。

き、きら…きら…い…?

ぶわっと大粒の涙を目尻に浮かべて震えはじめたわたしを見て「あー!!だった、だから!過去だから!そういう態度とると思ったよもう!!」と慌ててとりなしてきた。

「今は違うよ?違うんだけど、前は、男子にばっかべたべたくっついてるし、うじうじしてるし、男子いないと生きてけないって感じでいらって…あーだから過去だから」

佐奈ちゃんは頭が痛そうにこめかみに手を当てながら瞑目し、「めんどくせえ」と独りごちる。

「そしたら、黒田が、『アイツ男子にだけ構ってちゃんって訳じゃなくて全人類に構ってちゃんだから』って言ってきてさあ。その時はハァ?ってだけだったんだけど。意味わかんなかったんだけど…今思えば、あれ、黒田なりに日和を馴染ませようとしてたんだよ」

自然と目が見張いた。

そんなこと、してくれてたんだ。

驚くわたしを見つめる眼差しはどこまでも優しい。佐奈ちゃんはふっと表情を和らげ、わたしの頭に優しく手を置いた。

「…ついてってやるから、謝ろ?」

目が潤む。鼻が熱い。大きく頷くと、ぽんぽんと頭を撫でられた。


ユキちゃんは教室の掃除当番だから、まだ部活には行ってない。

胸に手を置きながら、すうはあと息を吸い込み呼吸を整え、正面をしっかりと見据える。

「そんなに緊張しなくてもだいじょうぶだって。黒田って日和に甘いとこあるし」

「え…!?厳しくない!?」

「あんたあれで厳しいって判定してたらこれからどうすんの。ま、だいじょうぶだから」

ぽんぽんと背中を弾むように叩かれた。優しい掌から勇気をもらう。うんと頷いてからごくりと唾を飲み込み、ドアに手をかけた。

「あーうらやましー巨乳の彼女〜!!」

一枚ドアを隔てた向こう側から、男の子の羨望を大いに孕んだ切実な叫びが聞こえてきて、びくっと震えてしまった。

「だから、元だっつってんだろ、元!」

元、を大きく強調し、苛立ちを露にした声で怒鳴りつけるユキちゃんの声が聞こえてきて、どくんと鼓動が大きく鳴る。

「元でもいいじゃん揉み放題〜」

「いいなーいいなー。あ〜人生で一度でいいからおっぱいが大きくて可愛い彼女が欲しいよユキえも〜ん」

「離れろ汚ェのび太!!」

ぎゃあぎゃあと男子特有のバカ騒ぎをしている中、堂々と入っていけるほどわたしの顔の皮は厚くなかった。どうしようと目で佐奈ちゃんに訴えると「もうちょい待っとこ」と目で返された。うん。今おっぱいに顔を埋めたいとか叫んでるし。不潔だ。汚い。サイテー。東堂様だったら絶対そんなこと思わない。白い目を教室の中の男の子達に向ける。

「でも黒田そんな巨乳ちゃんと付き合ってたんだよな」

「お前らどんだけ乳にしか興味ねえんだよなんだよ巨乳ちゃんって」

「不思議だわー」

「何がだよ」

「だって植原さん、胸ねえじゃん」

植原、それはわたしの苗字。クラスに植原という人間はわたししかいない。もしかしたら他のクラスにはいるかもしれないけど、わたしはわたし以外に植原という人間を知らない。

と、いうことは。90パーセントの確率で、彼はわたしのことを指している。

目が点になった。

少しの間、静寂が漂ってから「ハァ!?」と裏返った声が響いた。

「なんでそこで植原が出てくんだよ!」

「よく一緒にいんじゃん」

「お前らとも一緒にいるだろーが!!じゃあオレはお前らともそういう感じなんかよ!!」

「く、黒田ちょっと落ち着け。はい、ひっひっふー」

「妊婦か!!産気づいて看護師にああめんどくせえ死ね!!」

「黒田がテンパり過ぎていつものくどいツッコミを思いつかなくなってる…だと…!?」

「落ち着いて!マジで黒田落ち着いて!!」

落ち着けと諭す声音には、どこかからかうような色も帯びていた。カァーッと顔に血が集まっているような気がする。だって今、すごく顔が熱い。

「だって友達っていうにはお前と植原さんタイプ違いすぎるしさ〜」

「植原さんが学校来れるようになったのってお前のおかげだろ?」

「よ、愛の力〜!」

「ま、胸ねえけどロリっぽくて可愛い可愛い!」

パチパチと手を叩く音が聞こえてきた。目の前がぐるぐる回る。思考回路がうまく動かない。壊れたようだ。

え、あ、あ、愛?そ、そんな、ま、まさか。ていうか失礼なことを何回も言われてるような。あ、でも、もしかしたら、ユキちゃんはどこかでわたしの存在を知って、それで、迎えに来てくれたのだろうか。それで、学校に来てほしいって思うようになったのだろうか。

もしかして、ユキちゃんは、わたしのこと。

「んなわけねーだろ!!」

噛みつくように怒鳴る声が大きく響き、囃し立てる声も手を叩く音も消し飛んだ。

「お前とキャッチボールしてた時!お!ま!え!が!!取り損ねて!!校長室の窓ガラスわっちまったの担任が恩着せがましく秘密にしといてやるよっつってきた時あっただろ!それをあのクソジジィ、脅しの材料につかってきやがって…!!可哀想な不登校の女子にプリント届けてこい、できれば学校にも来させるようにしろって言われたんだよ!!そしたらなんかアイツ、勝手にオレに懐いてきて、纏わりついてきて、」

立て板に水の如く、吐き出される言葉が叩き付けられていく。
わたしの心を殴るかのように。

「うじうじしてるし空気読めねえし構ってちゃんだし泣けば済むって思ってるとこあるし、」

ほんとに、殴られたみたい。

「あんな陰キャ誰が好きになるかよ!!」

だって、なんか、心臓、痛い。

しいんと静寂が降りて、沈黙が空間を支配する。

「お、おう…」

「まあ、確かに明るく元気ってわけじゃねーけど…」

「…担任に頼まれなかったら、あんな女、ほっといてたよ。だから、お前らも、ほっとけ。胸とかそういうくだらねーこと気にすんな。アイツ、そういうの、嫌がるタイプだし」

足音がどんどんこちらに近づいてくる。なんでだろうと疑問符が浮かぶ。

そんなの答えはとても簡単だ。

ガラリとドアが開かれて、目を大きく見開いたユキちゃんが現れた。

「…え」

ユキちゃんが近づいてきたからだ。そんな簡単な答えがわからないほど、頭も心も麻痺していた。

とても吃驚している。これでもかというくらいに目を開けている。まじまじと食い入るようにわたしを見つめている。

「…黒田、あんたねえ!!」

わなわなと震えている佐奈ちゃんが、ユキちゃんの胸倉を掴んで食って掛かった。いつもはすぐ何か反応をとるユキちゃんが何の反応も示さない。ただ、何が起こっているのか訳がわからないようで、戸惑っていた。

ユキちゃんの胸倉を掴む佐奈ちゃんの手首をそっと優しく包み込む。小首を傾げて佐奈ちゃんの顔を覗き込んでから、ふるふると首を振った。

「喧嘩は、駄目」

佐奈ちゃんは目を大きく見開いてから、毒気が抜かれたように力なく手を離した。

「黒田くん」

そっと息づくように、名前を呼ぶ。多分、本当は愛称で呼ばれるのも嫌だったんだろう。

我慢してくれてたんだ。

先生に言われたから。

可哀想な女子に優しくしてあげなさいって言われたから、本当は嫌なのも我慢して、許してくれたんだ。

よくよく考えれば、黒田くんみたいな子がわたしのような人間を好いてくれるはずがない。

明るくて元気でスポーツ万能の人気者。
わたしのような日陰者とは何もかも正反対。

それなのに、学校に来れるように頑張ってくれて、過ごしやすい環境を整えてくれた。

だったら言うべき言葉は、ひとつだけだ。

黒田くんは何か言いたげに口を開く。
けど、わたしの方がワンテンポ、早かった。

「今まで、ありがとね」

にっこりと笑いかけるが否や、わたしは佐奈ちゃんの手をぎゅうっと掴んでくるりと身を翻した。

「日和、ちょっ、日和!」

有無を言わせず、ずんずんと引っ張って行く。

「いいの!?あんな好き勝手言わせといて!!」

こくりと頷く。すると、乱暴に手を振り払われた。

わたしの前に回り込んで「あんたねえ!」と怒鳴る声はハッと息を呑む声に変わった。

溢れ出した涙が輪郭を沿い、顎に流れていく。ぐすっと鼻を啜りながら、掌を拳に変え脚に力を入れる。

「日和」

気遣うように呼ぶ声に、ぴんと張りつめていた糸が途切れるようにして、すべての力が抜けきった。へなへなと足から崩れ落ちたわたしは膝に顔を埋め、声を上げずに泣きはじめる。

あの場で泣いたら、もっと煙たがられる。これ以上、鬱陶しがられたくなかった。

「…日和」

そっと背中に伸ばされた手はとても優しく暖かい。
それは、黒田くんがわたしと佐奈ちゃんを繋げてくれたからだ。

解放、してあげなきゃ。

ばいばい、ユキちゃん。
心の内で、もう一度だけ、彼の愛称をひっそりと呼んだ。




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