こてんと首を傾げながら、問いかけた。
「たっちゃんは?」
ユキちゃんはハァーッと深く息を吐いてからうなじに手を回した。「…腹壊したってさ」と、苦々しく呟く。わたしは「ええっ」と大きく開いた口に手をあてながら驚いた。
「だいじょうぶなの?」
「だいじょうぶじゃねえだろうな。ずーっとトイレに引き籠ってる」
「可哀想…」
腹痛で苦しんでいるたっちゃんを想像すると、不憫で眉が自然と下がった。
今日は、本当は、わたしとユキちゃんとたっちゃんで遊ぶ日だった。
三日前のこと。友達から借りた雑誌を読みながら『あ』と声を漏らすと、たっちゃんが『どうしたの?』と覗き込んできた。
『これ、観たいの』
人差し指を向けたのは、今大人気の少女漫画を原作とした映画。カッコいい俳優さんと可愛い女優さんが主演を務めている。
『ああ〜。これタイトルだけ知ってる。面白いの?』
『すっごく面白い!!』
間髪入れずに淀みない口調で自信満々に言うという、いつものわたしらしからぬ物言いにたっちゃんは『そ、そうなの?』と、たじたじとなった。動揺しているたっちゃんに、わたしはそのまま次々に言葉を飛ばしていく。
『あのね、まず、主人公がいてね、その子は平凡な子なんだけどね、その子の義理の弟、あ、義理の弟はね、お母さんの再婚相手でね、何故か主人公にだけ嫌な態度でね、他の女の子には優しいのになんで私だけ?って悩んでたらバスケ部のエースの三年生がどうした?って悩み相談にのってくれて、悩み相談してたらよくわかんないうちにチューされて』
『えっ、チューされんの!?』
吃驚してくれたたっちゃんの反応が嬉しくて『そうなの!』と、わたしは声を弾ませた。
『それでね、今度は幼馴染のサッカー部のエースにそのこと相談してたらまたチューされて、で、今度は弟に相談してたらふーんって言われてふーんってなによって主人公が怒ったら好きな、むふっ、好きな女が他の、へへっ、他の…キャーッ!キャーッ!ウッキャーッ!!』
両手で顔を覆いながら悲鳴をあげて悶絶する。『え、好きな女が他の…なに!?何なの…!?それからどうなるの…!?』と続きをせがむたっちゃんの反応がこれまた嬉しくて『それでね』と、顔から手を退けて得意げな口振りで言葉を継ぐと。
『ぜってえつまんねえだろ』
たっちゃんの隣に立ったユキちゃんが雑誌を摘み上げながら、抑揚ない声で淡々と言った。
『あらすじからしてしょーもな…。女子ってこういうの好きだよなー』
ハッと小馬鹿にして笑うユキちゃんに、ムッと眉間に皺が寄る。
『読んだことないのにそんなこと言うの、おかしい』
『読まなくたってわかるっつうの。今のお前の説明で最終回までの展開も読めるわ』
『え、そうなの!?すごいねユキちゃん!』
たっちゃんが『わー』とぱちぱちと称賛の拍手をユキちゃんに送りつける。面白くない。たっちゃんの関心を引き戻すために『当たるとか限らないじゃん』と口を窄める。
『わかるわかる、どうせ最後は義理の弟とくっつく。サッカー部もバスケ部も当て馬。つーかどんだけ糞ビッチの話だよ』
く…糞ビッチ…!?
わたしの大好きな純愛物語を読んだこともないのに最初から決めつけてかかるユキちゃんに怒りしか湧かない。けど、わたしは口喧嘩が不得意なので『う、う…』と、拳をわなわなわと震わせながら唸ることしかできない。
『でも、確かに読んだことないのに最初から決めつけるのは駄目なんじゃないかなあ』
たっちゃんが人差し指を顎に当てながら、のんびりと、ユキちゃんに言葉を向けた。
た、たっちゃん…!
両手を組みながら感涙で潤む瞳でたっちゃんを見つめてから、きりりと引き締めた顔をユキちゃんに向け、厳かに口を開いた。
『ユキちゃん、たっちゃん、これ、観に行こう』
最初は嫌だと突っぱねてきたユキちゃんだったが、たっちゃんと一緒に嘘泣きしたらあっさり『わーったよ!!観に行きゃいいんだろ!!』と、落ちてくれた。三人で遊びに行くの初めてだね!とワクワクしてたら、たっちゃんがお腹を壊したと。しょぼーんと肩を落としながら、映画館のチケット売り場に並ぶ。
「出すモン出し切ったらだいじょうぶになんだろ」
「ユキちゃん汚い」
「お前は潔癖すぎんだよ。あ、高校生二枚で」
ユキちゃんがさっと学生証を出す。あ、わたしもわたしも…!と、もたくさしながら鞄からお財布を取りだし、学生証をカウンターに出した。すると、ブッと噴き出す声が隣から。見ると、ユキちゃんは手の甲を口に当てながらぷるぷると震えていた。
「座敷童みてえ…!!」
「な…っ!」
確かにわたしは中三の時、おかっぱだった。ボブではなく、おかっぱだった。おまけにおどおどと陰鬱な表情を浮かべているから座敷童と言われても仕方ないかもしれないけれど、なんてデリカシーがない発言だろうか。東堂様だったら絶対そんなこと言わない。唇を真一文字に結び、静かに怒りながら高校生料金を払った。学生証バンザイ。
「植原」
まだ怒りをひいているわたしは「なに」とつっけんどんに返す。ユキちゃんは「そこで待っとけ」と言い渡すと、人ごみの中に紛れて行った。ひとり、わたしは取り残される。トイレかなあ、と壁にもたれてぼうっと待っていると、ユキちゃんが紙コップを両手に持ちながら、姿を現した。
へ、ときょとんとユキちゃんを見上げる。ユキちゃんは至極当然のように話しはじめた。
「お前が何好きか訊くの忘れてたの、並んでる途中で思い出してさ。リンゴジュースにしたんだけど、好きか?」
こくりと頷く。「そうか」と、ユキちゃんはいつもの調子で言った。
「んじゃ行くか」
そして、颯爽と歩き出す。慌ててユキちゃんについて行く。ちらりと伺うように見上げると、わたしの視線に気付いたのかユキちゃんは「なに」と訝しがってきた。
「ユキちゃんって、リア充だね」
「オレ今彼女いねえんだけど」
「彼女いなくてもなんかこう骨の髄までリア充が染みついてる」
「意味わかんね」
「ジュース、いくらだった?」
「あー、何円だったっけ」
わたしとユキちゃんは特に後々の思い出にもならないような、とりとめないことを話しながら、スクリーン劇場に入って行った。
わたしの隣で、ユキちゃんは、それはそれはげんなりと表情を崩していた。
「ひっ、うっ、ううっ、うあっ、ぐす…っ」
それは、わたしがいつまでたっても泣き止まずに、ぐすぐすと泣いているからだろう。なぜわたしが泣いているかというと、最後に義理の弟と両想いになったのに、義理の弟が交通事故で記憶喪失になり、主人公との思い出を全て失くし、絶望した主人公が身投げしようとしたら、颯爽と現れ、なんやかんやビルから飛び降りたものの二人は生きてて、なんやかんやで義理の弟は記憶を取戻し、なんやかんやでなんやかんやで…ハッピーエンドとなって、もう、わたしは感動で泣くことしかできない。
「ね゛、ユ゛ギぢゃん、おもじろ、」
「鼻水拭け」
ユキちゃんは眉間に皺をよせ、こめかみに手を当てながら、わたしにポケットティッシュを差し出してきた。ありがたく頂戴してふんっと鼻をかむ。
「おもじろがっだ、でじょ?」
あんなに感動からの感動からの感動の、感動が溢れた映画を面白くないと言うはずがない。と、わたしは信じていた。
「全然」
ユキちゃんはそんなわたしの信頼をあっさりと裏切った。…とぽかんと口を開き、呆けながら「へ」と声を漏らした。
「オレああいう感動の押し付けって映画無理。悲恋要素いれときゃ受けんだろ〜って魂胆見え見えだし。…にしても八階から降りて無事ってギャグかよ」
口にしながら思い出したのか、ユキちゃんはぶっと噴き出した。わたしが号泣した感動のシーンを、ギャグと、言った。無理、と、言った。徐々に徐々に、わたしの目が見開かれていく。ユキちゃんに詰め寄って、食って掛かった。
「なっ、なんでそんなひどいこと言うの!」
「ひどくねえよ。つまんねえもんはつまんねえ」
「つまんなくないもん!面白いもん!」
「お前の価値観オレに押し付けんな」
でも、と更に食って掛かろうとした時、ぐうーっとお腹の虫が鳴いた。…と固まっている間も、お腹の虫は鳴きつづける。
「お前ってここぞって言う時に鳴らすな…」
恥ずかしくて俯く。ちらりとユキちゃんを伺うと、ユキちゃんの口角は呆れたように、少しだけ上がっていた。
「ユキちゃん、明日、漫画貸すね」
適当なレストランに入って、注文を終えたあと、わたしは真剣な面持ちで話した。ハァ?と、ユキちゃんは顔を歪めた。
「実写化より、原作のがやっぱり良いと思うの。読んでみたら、ほんとに良さがわかると思う」
「や、いいって」
ユキちゃんは嫌そうに顔の前で手を振って拒絶する。が、わたしは「読んで」ともう一度厳かに口にする。ユキちゃんは「いいって」とうんざりしたように繰り返す。わたしはもう一度「読んで」と繰り返す。押し問答を繰り広げていると「お待たせしました〜」と可愛らしい声が降ってきた。声色の通り、可愛らしい店員さんが鉄板の上でじゅうじゅうと焼けているハンバーグを持ってきてくれたのだ。ことりと丁寧にハンバーグがわたしの前に置かれ、自然と目を輝かせてしまう。ユキちゃんもハンバーグ、お揃いだ。腹が減っては戦ができないということで、とりあえずわたしは一旦布教活動をやめ、食べる事にした。いただきます、と手を合わせる。
「チーズ、チーズ」
歌うようにハンバーグをナイフとフォークで切っていく。どろりとチーズが垂れて、香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。あーん、と口の中にハンバーグを突き刺したフォークを入れると、チーズとデミグラスソースが絡まった良い加減に焼けたハンバーグが口内を満たし、「んん〜」と、綻んだ、時。つけあわせのピーマンが視界に入った。
…。
「なにオレに押し付けてんだ」
そっと、ユキちゃんの鉄板にピーマンを置くと、ユキちゃんに見つかってしまった。細めた目の奥に咎めるような光が宿っている。め、目ざとい…くそう、とユキちゃんから目を逸らして悔しそうに拳を握る。
「だって、」
「だっても明後日も明々後日もあるか。好き嫌いすんな」
「嫌いなものは嫌いだもの。なんかまずい。苦い。無理」
断固としてピーマンを拒絶すると、「あーあ、」と、ユキちゃんは勿体なさそうに溜息を吐いた。
「東堂さんさ、あの人、旅館の息子なんだよ」
何故、今ここで東堂様の話題?と首を傾げつつもこくりと頷く。そのことを知った時、あの綺麗な流れるような所作。確かに…と、うっとりしながら頷いたものだ。
「で、色々行儀とか厳しく躾けられたみたいでさ、東堂さんもそういう行儀とかに厳しいんだよ。…そんな東堂さんが、食い物残すってことにどう思うか、わかるよなァ?」
ユキちゃんは二ヤリと笑いかけてくる。さあ、と血の気が引いていくのがわかった。
ユキちゃんの鉄板に置いたピーマンを、再び自分のところへ戻した。ぐさり、とフォークを突き立て、ぎゅうっと瞼を閉じてから、口内に投げ入れる。独特の苦みが広がって、声にならない悲鳴が漏れる。お冷を引っ掴み、流し込むようにしてピーマンを食べた。
「はあ、はあ、はあ…っ」
体がピーマンを拒絶するあまり、うっすらと涙目になる。でも、食べないと、食べないと東堂様に嫌われてしまう…!!切実な思いが鬼気迫る表情になって浮かんでいたのだろう、ユキちゃんは「ウワァ…」と口の端を引き攣らせていた。
一瞬、視線をわたしから外してから、憮然とした表情を浮かべ、頬杖をついてから、口を開いた。
「…そんなに東堂さん好きなら、東堂さんに食わせてもらってるって妄想でもしながらやればいんじゃね?」
せせら笑うような声音で投げかけられた提案に、ぴたりと体が固まった。ユキちゃんの瞳には嘲笑が宿っている。わたしは、ごくり、と唾を呑みこんで。
「ナ…ナイスアイディア…!」
素晴らしいアイディアを思いついたユキちゃんに尊敬の眼差しを向けながら、弾んだ声音で言った。
がくっとユキちゃんが顎を掌から落としている間に、「東堂様が食べさしてくれてる、東堂様が食べさしてくれてる…!」と、自己暗示をかけながら、そっと目を閉じる。
『はい、日和ちゃん』
瞼の奥には、わたしにピーマンを向ける東堂様の姿が映って。
「はい、東堂様…!」
うへえ、と自然とにやける頬をそのままにピーマンを食べた。もぐもぐ、ごっくん。不快感を伴わないで、ピーマンが食道を通っていくのは初めての経験だ。
「ユキちゃん」
「あ?」
面白くなさそうに片眉をあげるユキちゃんに構わず、わたしは上機嫌に言った。
「ユキちゃんのナイスアイディアのおかげで、初めてピーマンを楽しく食べれた。ありがと」
にっこりと笑いかけて、お礼を言う。ぱちりぱちりと瞬いてから、ユキちゃんは。
「…あっそ」
ふいとわたしから目を逸らしてから、どうでも良さそうに言った。
prev /
next