恍惚の溜息を漏らしてから、うっとりと見つめた。さらさら流れる黒い髪の毛に、切れ長の澄んだ瞳。柳眉を上げてワッハッハッと快活に笑う姿はきらきらと輝いている。レンズを介しても、東堂様の美しさに変わりはないのだ。300円で購入した写真を両手で大切に持ちながら、もう一度、溜息を吐いた。
「東堂様ってどうしてこんなに格好いいんだろう…」
「わかんない…。辛い…かっこよすぎて辛い…」
心底面倒くさそうな顔をしているユキちゃんに『お前いい加減自分で東堂さんの写真買いに行けよ』と背中を押され、買いに行き、いつもいつもお美しい東堂様の写真を売ってくださってありがとうございますとお礼を述べたら、そんなにすきならファンクラブ入らない?と勧誘を受け、二つ返事をした。みんな暖かく迎え入れてくれて、東堂様の魅力を語り合える友達がたくさんできた。放課後、わたしの机の周りに椅子を持ってきて、東堂様の写真を見せ合いっこをするようになるくらいには仲良くなった。
友達が「はーっ、かっこいい、辛い、あー、辛い!」と頭を抱えていると、机に置いたスマホが振動を始めた。頭を抱えるのをやめ、スマートフォンを手に取る。苦悶に満ちた表情から一変、真顔になった。人差し指で適当に操作したあと、また頭を抱えながら「つらーい!」と小さく叫んだ。
「誰?」
なんとなく気になって、問いかけてみた。
「彼氏」
かれ、し。ぱちぱちと数度瞬きをしながら、言葉の意味を数秒かけて処理する。理解しきった瞬間、ぼわっと頬に熱が集中した。
「す、すごい…!」
瞳にきらきらと尊敬を宿しながらパチパチと拍手を送ると、不思議そうに「へ?」と首を傾げられた。興奮が冷めきらないわたしは、「すごいすごい!」と更に大きく拍手を送る。
「彼氏…!すごい!漫画みたい!すごいすごい…!」
「…へ、え、そんなすごいって言われるもんでもなくない?」
「すごいよ!」
間髪入れず、強く言う。友達は「お、おう」と、たじたじと圧倒されていた。ぽりぽりと頬を掻きながら、少し恥ずかしそうに「やー、でも、」と言葉を濁す。
「すごくないって。東堂先輩みたいにかっこよくないしさー。まあ、あそこまでカッコいいと付き合いたいってゆーか鑑賞したいよね。ファンクラブもそういう子ばっかだし」
「ガチ?」
「恋愛感情ですきってことよ」
「彼氏のことすきみたいな感じで?」
首を傾げながら問いかけると、友達の頬にほんのりと赤みが差した。わたしから視線を少し外しながら「あ、まあ、えっと…ま、そんな感じ…」と、ごにょごにょと呟いていた。恥ずかしそうに下唇をきゅっと噛んでから「日和もさあ!」と上げた声は上擦っていた。
「そういう感じでしょ?日和も東堂様と付き合いたいとかは思わないでしょ?」
東堂様と、お付き合いする…?
友達の突飛な言動に、ぱちくりと瞬きをひとつ。東堂様とお付き合い。もくもくと空に浮かぶ雲のように空想をひろげてみた。お付き合いするとなったら、デートだ。東堂様と時計台の下で待ち合わせするんだ。やあ、と手を挙げる東堂様の姿は見目麗しくただただ美しくそこにわたしが駆けより…、
「駄目!!」
せっかくの美しい景色にもっさりとしたわたしが入り込んできたせいで、一気に汚くなってしまった。美しいものが大すきなわたしは耐え切られず声を荒げる。大きく頭を左右に振りながら「違う!駄目!!」と否定する。
「ど、どしたの、日和」
「東堂様の隣にわたしみたいなもっさりがいることが耐えられなくて」
「ハ、ハハ…」と口の端を引きつらせている友達を余所に「ううむ」と人差し指を顎に当てる。もし東堂様とお付き合いできたら毎日が薔薇色で胸が高鳴り続くのだろう。だけどそれよりも傍にこんなもっさりがいることが耐えられない。東堂様の傍には東堂様ぐらいお美しい人がいてほしい。なんかこう…お茶とかお琴とか嗜んでいるような、そういった感じの。東堂様の隣にふさわしい女の人の想像を巡らせていると「てゆうかさ〜」と、友達が新たな会話を始めた。
「うちらって結構分別つけてるよね。結構彼氏持ち多いし。私でしょー、夕実でしょー、絵里でしょー、」
「み、みんな大人」
「何言ってるの」
友達が可笑しそうに笑った。
「日和もいるじゃん」
きょとりと瞬きをひとつ。ぱち、ぱち、ぱち。ただ、瞬きをするだけの生き物になる。友達はにこにこ笑いながら言った。
「黒田くんと付き合ってんじゃん」
わたしは宇宙に投げ出された。
帰宅して、ごはん食べて、お風呂入って、髪の毛乾かして、ベッドに寝転がって。それでも、頭にかかった靄は晴れなかった。
『黒田くんと付き合ってんじゃん』
と、笑顔で言う友達が脳裏から離れない。
『…』
『葦木場くんと仲良くすんのもほどほどにしときなよー?まあ女子会にしか見えないけどさ、それでも一応ね、ああいうタイプってヤキモチ妬いてること隠すからさー。ある日突然爆発してめんどくさいことなるからさー』
『…』
『…っていうかさ、ちょっとアレなこと訊いてもいい?あのさ、日和と黒田くんってどこまで…日和?』
『…』
『ちょ…っ、日和!?なんで頭から煙出てんの!?』
友達に肩を掴まれ強く揺さぶられたことによって、ようやく意識が戻ったわたしは、呆然としながら『付き合ってないよ』と返した。友達は『え…っ、そうなの!?』と、目を丸くして驚いていた。驚くのはこっちだ。ユキちゃんは常に脚光を浴びている男の子だ。そんな人がわたしと付き合う。なぜそんな発想に至った。友達がわたしを驚かしたせいで帰りは犬の糞を踏んづけるわ電柱にぶつかるわで散々だった。
でも、そんな発想されるということは。
そういう風に、見えなくもないということなのだろうか。
ユキちゃんの隣にわたしがいても、全然おかしくないってことなのだろうか。
自然とスマホを握る手に力をこめる。と、ヴーッ、ヴーッ。小さく震えはじめて、吃驚して飛び上がってしまった。友達からのLINEで、『明日東堂様の練習観に行こー!』。『行く』と返信してから、ベッドに放り投げた。
むすっとむくれながら仰向けに寝転がる。
友達はすきだ。大すきだ。だけど、今のタイミングで送るとすればさあ。
唇を尖らせながら、スマホに手を伸ばした。
「昨日の連続スタンプなんだよ。未読54とか怖すぎるわ」
ユキちゃんが不快げに眉を吊り上げながらわたしを見下ろしていた。
「別に」
ぷいと背けながらつっけんどんに返す。ユキちゃんの片眉がぴくりと動いた。
「エリカ様か。エリカ様ならぬ日和様か」
ハッと嘲笑われ、心に浮かんだものは怒りではなく、むず痒い羞恥だった。
今、わたしの名前。
名前を、呼ばれてしまった。
下唇を浅く噛みながら俯くわたしを怪訝に思ったのか、ユキちゃんは「…植原?」と不思議そうに呼んでくる。
今こうやって二人で喋っている様子も、周りの人から付き合っているように見えていたり、する、の、かな。
とかそんなことを考えているわたしに返事をする余裕などなく、両手の親指と人差し指で三角を作りながら足元に眼を落とすことしかできない。
「オイ、植原。なに。腹でも壊した?」
心配そうに問いかけられても、俯きながらふるふると首を振って否定する。「じゃあどうしたんだよ」と、少し苛立った声で急かすように言われる。どうしたって。友達に付き合ってんでしょと勘違いされて、ちょっとなんというか、照れているというか。それを口にするのは恥ずかしくて逡巡していると。
「日和ー!」
元気な声と伴に、柔らかい何かが背中にぶつかってきた。
「東堂様観に行こ〜!」
振り向くと、満面の笑顔を浮かべている友達がわたしの首に腕を回す形で飛びついていた。
「う、うん」
「いこいこー!」
元気よく言うが否や、友達はわたしの手首を掴んでずんずんと歩きはじめた。連れて行かれながら、ちらりと尻目にユキちゃんを見る。けど、もうわたしに背中を向けていたから、どんな表情をしているのか、よくわからなかった。
真剣な面持ちで、コンパクトミラーとずっと睨めっこを続けている友達はぱちんとコンパクトミラーを畳んでから、「…っよし!」とぎゅうっと手を丸めた。
「そんなけばくないし、だいじょうぶだよね、これで!」
ずずいとわたしに顔を寄せて、どこか鬼気迫る感じで問い掛けてくる友達に「うん」とこくりと頷いてみせる。少し、睫がくるりんと上がっているため目が大きく見え、唇は透明に艶めいている。ほんのり施された薄化粧は友達によく似合っていた。
「やったー、これで東堂様に顔見られてもばっちり!」
「わたし東堂様の前でいつもすっぴんだよ」
「日和はそれでいいんだよ〜」
つんつんと頬っぺたを人差し指で突っつかれた。「そ、そうかな」と上機嫌を隠しながら答えると「うん!」と元気よく返された。すっぴんでもだいじょうぶ、と太鼓判を押され、正直気分が良い。
「…よっしゃ、引き立て役一人ゲット…」
「ん?今、なんか言った?」
「ううん、なんにもー!」
一瞬、友達がデスノートの月のようなあくどい笑みを浮かべたような気がして、訝しがると、友達は瞬時に手を組みながら、きゃるんと可愛らしく笑った。その時、またしても昨日と同じ振動音が静かに響いた。友達が面倒くさそうにスマートフォンをポケットから取り出し、「なにー?」と、面倒くさそうに言った。
「今東堂様見に来てるから無理。じゃーね」
はやっ!雑っ!!
友達の適当すぎる対応に、顔も知らない彼氏に同情を覚えた。友達は何事もなかったかのようにスマートフォンをポケットに直し、「はやくこないかな東堂様〜!」ときゃぴきゃぴと跳ねる。
「ねえねえ」
「なーに?」
「東堂様のこと、すき?」
「そりゃあもう!!なんっていうか、もう…地球三周出来そうな感じで!!すき!!初めて見た時、ドストライク過ぎて鼻血でかけた!!」
鼻息荒く堂々と答える友達をじいーっと見据えながら「じゃあ」と言葉を継いだ。
「彼氏のことは、どういう感じで、すき?」
友達の顔を覗き込むようにして首を傾げて問いかけると、友達は…と少しの間固まった後、ほんのりと頬に朱が差しこんだ。
「どういう感じ?」
動揺で揺れている瞳を捉えたまま、真剣に問いかける。友達は観念したかのように溜息を零してから「えーっと、」と籠った声でぽつりぽつりと話しはじめた。
「東堂様は見てるだけ、いや、見てるだけじゃなくて、あわよくば見てもらいたいし微笑みかけられたいし、握手したいし、少しでも気に懸けてくれたら、それで、すっごく、うれしくなんじゃん」
「うん」
「…でも、なんていうか、彼氏は、」
友達は、恥らいながら、視線を下にさげる。切々と、たどたどしく、一語一語確かめるようにして、呟いた。
「それだけじゃ足りないって、いうか」
「なんか、こう、」
「相手にも、自分のこと、同じぐらい、考えてほしいっていうか」
目を泳がせながら、手遊びをしていて、いそがしそうな友達は、ふいに顔を下に向けた。はらりと落ちた髪の毛から覗く耳朶が赤い。「…もういい?」と、掠れた声は、わたしに向けられたものだと、少し経ってから気付いた。
首を傾げながら、今の言葉を集めて、要約してみた。足りない、相手にも自分のことを同じぐらい考えてほしい、それは、つまり。
「独り占めしたいってこと?」
「…そういうことになんじゃない」
どこか投げやりになって言葉を放り出す友達の横顔をじいっと見つめ続けると「…なに」と、つっけんどんな口振りで言われた。
「東堂様と彼氏、どっちがカッコいいと思う?」
「東堂様」
きっぱりと間髪入れず返す友達の瞳に、迷いはなかった。そりゃそうだよね、と納得していると、キャーッと黄色い声が上がった。
「東堂様もうちょっとで!くるって!!」
「えっマジ待って、あー!!つけまとれたー!!」
「せーの、だよ!せーの、の後にいつもの指さすやつやってー!だよ!!」
やいのやいのとみんなは口ぐちにはしゃぎ始める。東堂様がお通りになられるということで、わたしも興奮し手で髪の毛を梳いて整える。やっぱりわたしもお化粧しようかな。東堂様に可愛いって思われたい。日和ちゃんは可愛いなって言われたらなんかもうそれで、わたしはそれで強く生きていける…!!
むふふーと頬が緩んだ時、ふと、ぼわんと、脳裏に何故かユキちゃんが浮かんだ。
はて、なんで今ユキちゃんが?と首を傾げていると、新たな疑問が降りてきた。
可愛いって、ユキちゃんは言うだろうか。いや、言わないだろうな。うっわ、似合わねえと言ってきそうだ。ユキちゃんは東堂様と違って、乙女心がよくわかっていない。でも、もし、もし言われたとしたら。
ぎゅうっと、胸の奥が熱くなった。それを逃がすかのように、浅く息を吐く。
東堂様に可愛いと言われたら、嬉しくて嬉しくてキャーッとか叫んで、飛び跳ねる自分の姿が容易に思い浮かぶ。
でも、ユキちゃんに言われたら。
「きゃあああっ!!東堂様ー!!」
辺りで黄色い悲鳴が響きわたり、はっと意識が浮上した。風のように去っていくロードバイクの集団は瞬きをしている間に去っていく。ぼけっと間抜け面で佇んでいると、友達に肘でつつかれた。
「日和、」
「え、」
「せーの!」
「あ、」
いつもの指さすやつやってー!と、友達が両手を口元に宛がってメガホンのようにして叫んだ時、東堂様がわたしの前を通り過ぎた。
「ワハハハ!いつも応援ありがとう!!」
いつもの麗しい笑みを向けられて、どっきゅーーんとハートに矢がぷすりと刺さった。びしっと人差し指を向けられ、天にも昇る気持ちとはこのこと。ハァーッ、と東堂ファンクラブ一同恍惚の溜息を吐いた。全員、目がハートになっている。とろけるようなしあわせにへにゃへにゃ浸っていると、ぴくりと体が反応した。もう一度、集団に目を向ける。
あ、
それは一瞬の出来事。一瞬で、見慣れた顔立ちの男の子が通り過ぎて行った。ちらりと視線を寄越されたような気もするけど、気のせいかもしれない。そんな覚束ない憶測でしかないのに。
ごくり、と喉を鳴らして小さく顎を引く。頬に手を伸ばすと、ほんのりと熱かった。
「東堂様かっこよかった〜!ファンにも優しくしてくれるし、もー、サイッコー!ね、日和!」
「え、あ、うん、東堂様、素敵」
しどろもどろになりながら、曖昧に返す。何かしてないと落ち着かなくて、そわそわと毛先を親指と人差し指でいじくる。
東堂様はとてもとても優しい。何もかもを見透かすような理知的な瞳に、爽やかな声色で紡がれる優しくて為になる言葉の数々。初めてお会いした時、なんて素敵な人、とキラキラ輝いてみえて、王子様みたいだと思った。
ユキちゃんは、違う。王子様みたい、なんて一度たりとして思ったことない。甘く優しい言葉も、もらった覚えはない。
けれど。なんか。なんかなんかなんか。
「日和、あとで東堂様の写真買いにいこ〜」
「う、ん」
うまく説明できないもどかしい気持ちが、胸のうちにしこりのように残って、ぎゅうっと胸元のあたりを掴むことしかできなかった。
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