ひだまりのまんなか

  


空には綿あめのような薄い雲があちこちに棚引いていて、初夏を思わせる少し強めの日光をやんわりと防いでくれていた。遠足の内容は高校生らしく、適当に歩いて適当に遊んで、というものだった。ユキちゃんはしおりを薄い目で読みながら『生徒の自主性を慮ってって言ってるけどただめんどくせーだけだろ』と毒を吐いていた。

「日和ちゃーん!」とわたしを呼びながらぶんぶんと大きく手を振っているたっちゃんと、その隣で腕を組んでムスッと立っているユキちゃんを見つけて、自然と頬が緩んだ。たたた、と小走りで二人に駆け寄る。背中のリュックが軽快に跳ねた。

「おはよ〜」

「はよ」

「おはよ」

二人に挨拶すると、ユキちゃんの後ろからにょっきりと腕が伸びてきた。驚いてびくっと半歩後ずさると、ユキちゃんの肩に顎がのせられた。

「おっはよー、植原さん!」

「重ぇーよ山田」

「堅苦しいこと言うなってユキちゃん!」

「マジでキモい、ゲロ吐きそう、おえええ」

「今オレ本気で傷ついてる」

「黒田の男泣かせ〜」

班の男の子達があっという間に男の子特有の仲良しな雰囲気を作っていく。わたしはそれに入っていけずに、唇を浅く噛んだ。入れてもらっただけでありがたいんだから、多少輪に入れなくても仕方ない、と諦めをつけた時に「植原!」と強い調子でユキちゃんに呼ばれた。

「え、へ、」

「アレやれ、アレ」

…アレ?

ユキちゃんが指す『アレ』の意味がわからず、首を傾げる。

「黒田…植原さんにネタ振るのはオレどうかと思う…」

「困ってんじゃん…」

ボソボソとわたしに聞こえないようにして(聞こえているけど)、小さな声でユキちゃんに非難がましく『それはどうかと思う』という旨のことを耳打ちしている班の男の子達。わたしは何一つ面白いことを言えないと踏んでいるのだろう。

…実際に、その通りだけど。
一緒にいるのつまらなさすぎて困るって陰口言われたことあるぐらいだし。

天気に似つかわしくない暗雲が胸に差し込んだ。

ユキちゃんはそんな意見を意に介さずざっくばらんと言った。

「いいからアレやれって。東堂さん語り」

…!!

と う ど う さ ん

は?と怪訝そうな表情を浮かべている班の男の子達と、「わあ〜!」と歓声をあげてニコニコ笑っているたっちゃん。わたしはすうっと小さく息を吸い込んでわたしの心の王子様―――東堂様のことを思い浮かべながら、口を開いた。

「東堂様。わたしの、紫のバラの人」

「…ん?」

「東堂様って、あの人だよな、女子にスッゲー人気なカチューシャの人」

「わたしと東堂様の出会いはある晴れた日、きらびやかな木漏れ日が降り注ぐ中のことだったの。気持ち悪くなっていたわたしにお水をくれたの。あの時の東堂様の神々しさをわたしは今でも思い出せる。背景にはバラが咲いていてきらきら輝いていて白馬が似合いそうなお顔立ちを一目見て思ったの。わたしの王子様…って」

「黒田、植原さん何言ってんの?」

ユキちゃんは腕を組んだまま「東堂さん語り」と、憮然として言った。たっちゃんはほんわかした笑顔で「ほんとに日和ちゃんは東堂さんが大好きだなあ〜」と言った。

お花やレースや刺しゅうなど、美しいものが大好きなわたしは、あっという間に東堂様の虜になった。艶やかな黒い髪の毛に、涼しげな目元、男子高校生とは思えないほど丁寧で優雅な物腰。あのあと、葉っぱが髪の毛についていたぞ、と長くて細い指でとってくれて、あまりの美しさにわたしは倒れそうになった。ポエムを創作することが趣味なわたしは東堂様に出会ったあの日から、よく東堂様についてポエムを綴り、ユキちゃんに東堂様のどこがいかに素晴らしいかを滔々と語っている。たっちゃんにも語りを聞いてもらった。たっちゃんに『つまり日和ちゃんは東堂さんのことが大好きってことなんだね!』と簡潔に纏められて、すこし気分を害した。これだけ乙女チックな表現で『好き』を表したのに、たっちゃんはたったの四文字で纏めてしまったのだ。たっちゃんは乙女心がよくわかっていない。

「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花。ユキちゃんに頼んで東堂様のお写真をたくさん買ってきてもらってね、わたしは全てそれを東堂様メモリーと名付けたアルバムに保存してるの。東堂様を見た時ね、再放送されていたセーラームーンのタキシード仮面様を見た時と同じ衝撃がわたしの心を波のように襲ってきて…いつかわたしが敵にさらわれそうになったら白馬で…きゃーっ!!」

東堂様のご尊顔を思い出すだけで胸が甘酸っぱい思いで満たされて、顔を両手で覆いながら、恥じらいつつも叫んでしまった。すると、ぷっと噴出す声が掌の向こう側から聞こえてきた。

…?

首を傾げて掌を顔からのけると、男の子達が手の甲で口元を抑えていたり、苦しそうな形相で唇を噛んでいたりしていた。けど、それは長くは続かず、もう一度噴出したかと思うと、お腹を抱えて笑い始めた。

「植原さん濃い〜!!すっげえ〜!!おもしれ〜!!」

「紫のバラの人…!ひーっ、東堂様紫のバラの人…!あ、東堂様ってつられて言っちゃった、ひーっ!!」

ぱちぱち、と目を瞬かせる。わたしの発言で、誰かがこんなにも笑ってくれたことは初めてのことなので、ただただ驚くばかり。嘲笑のような暗い笑い声だったらずーんと落ち込んだけど、男の子達は明るく楽しげに笑っている。

「…わたし、面白い?」

「面白い、すっげー面白い!!白馬でどーすんの?東堂さん白馬…ひーっ、辛い辛い笑いすぎて辛い…!」

「…東堂さん馬乗れると思うか、葦木場」

「東堂様ならやればできるんじゃないかなあ、あ、つられて東堂様って言っちゃった」

「…まーそうだな…。ワッハッハッ!って笑いながら乗ってそうだわ…。で、おら、植原、続き話してやれ」

ユキちゃんが面倒くさそうに話の続きを促してくる。わたしの話を聞きたがってくれる人がいる。その事実が嬉しくて、「あ、あの、それでね!」と、つっかえつっかえになりながら、東堂様がわたしを救出するおとぎ話を男の子達に語り聞かせた。そうしていくうちに、わたしはいつのまにか班の中に馴染んでいて、馬鹿なわたしは誰にって馴染めこむことができたかを考えることはなく、ただ喜びに身を任せるだけだった。





「植原さーん、オレら連れションしてくるわー」

山田くんが笑顔でわたしにそう言ったあと、ユキちゃんが山田くんの頭を無言でバシンと殴りつけた。

「いってーな!!事実だろーが!!五人全員同時に小便に行きたいとか奇跡だろーが!!」

「事実は事実でも言うんじゃねえ!ほら植原ドン引きしてんだろ!!」

その通り、わたしはドン引きしていた。美しいものが大好きなわたしは汚いものが大嫌いだ。感情のままに眉間に皺を寄せてみんなを睨みつけた。「ヤッベー、ひかれたー」と楽しげに笑いながら、みんなはトイレに消えていった。わたしはふうと溜息を小さく吐いてから、ベンチに腰を下ろす。


青い青い空に、朝と変わらない白い綿あめのような雲があちこちに散らばっている。午後になると気温が上がって少し歩いただけで汗が額に滲むようになった。初夏特有の爽やかな暑さが心地よい。家に引き籠っていた時には得られなかった解放感が気持ち良くて、そっと目を閉じる。五感のうちのひとつを休息させると、代わりに他の感覚が敏感になった。

…良い匂いがする…。

くんくんと鋭利になった嗅覚をさらに尖らせる。良い匂いが風にのってぷうんとわたしの鼻孔をくすぐってきた。匂いに誘われるがままにわたしは席を立って、ふらふらと歩きはじめる。

導かれた先に辿りつくと、ホットドッグの屋台が出ていた。人の好さそうな顔をしたおじさんがホットドッグを売っている。わたしはリュックからお財布を取り出して、ホットドッグを一つ買って、ベンチに座って食べ始めた。食べ終わって、『美味しかった〜』という満足感に満たされたあとに。

ここ…どこ…?

辺りをきょろきょろ見渡して、自分が今置かれている場所を認識して、ようやく絶望感が襲ってきた。さあっと血の気が引いていく。

み、みんなのところに戻らなきゃ…!!

慌てて立ち上がって、小走りで来た道を戻ろうとする。でも、来た道がどれか全く思い出せない。今こそ女のカンを働かせるべきと思ってあてずっぽうで選んだ道を歩いていく。けど、どんどん見知らぬ場所に足を踏み入れていくばかり。

クラスの子どころか、同じ学校の子の顔もひとつも見当たらない。知らない人ばかり。楽しそうに話している人の中で、おろおろと歩くことしかできないでいると、孤独感が襲い掛かってきて、面白くない、いっしょにいてもつまんない、とこっそり言われていた時のことを思い出す。

前に進もうとする足が止まった。
視界が無機質なコンクリートとわたしのピンク色のハイカットスニーカーで埋まる。

当然だけど、道行く人達は誰もわたしを気に留めない。

リュックのショルダーベルトを掴んでいた手からするすると砂が零れ落ちるようにして力が抜けていって、二つの腕がだらんとだらしなく垂れた時だった。

「植原!!」

大きな怒声が背中にぶつかってきたのは。

へ、と丸くした眼を後ろに向けると、汗だくになったユキちゃんが必死の形相でわたしに詰め寄ってきた。怖い顔をしてるユキちゃんに「ひっ」と恐怖心からのけ反ってしまう。ユキちゃんはあっという間にわたしとの距離を詰めて、眉を吊り上げながらばーっとまくし立てた。

「お前勝手にどこ行ってんだよ!!ハイジか!!山に帰りたくて夢遊病になったハイジか!!クララが立ったか!!」

「ユキちゃん、ハイジ見てたの?」

「んなこたあ今どうでもいいんだよ!!ふざけんなこのメンヘラ夢遊病女!!電話しても全然でねーし!!」

「あ、」

そう言われて、サイレントモードに設定していたスマホの存在を思い出した。開いた口に手を当てる。わたしにとってスマホは連絡手段の道具ではなくツムツムやパズドラをするゲーム機能を備えた目覚まし時計のようなものなのだ。

「あ、じゃねーよ!!マジで、オレがどんだけなァ!!」

そこまで怒鳴ったあと、ユキちゃんはハァーッと盛大なため息を吐いてから前髪をぐしゃっと右手で掴んだ。

「…マジで、ビビった…」

目を伏せながら、力無く呟かれた声色は、いつも自信満々に生きている普段のユキちゃんからは想像できないほど弱弱しいものだった。

わたしがいなくて、心配、してくれたんだ。

初夏特有の僅かな熱を孕んだ爽やかな風が頬を撫で、わたしの髪の毛をさらっていく。きっと、その風はユキちゃんの顎当たりを撫でたに違いない。だらんと伸ばしていた腕に力が戻り、わたしは再びショルダーベルトを握りしめた。

「…ユキちゃん…、わたしもハイジすき…」

「だからそういうこと言ってんじゃねーんだよ!!っつーか心配かけたんだから謝れ!!」

「ええ」

不満げにわたしは眉を寄せた。ユキちゃんのこめかみに血管がピキッと浮かんでいくのにわたしは気付かないまま、不満げに唇を尖らせた。

「ありがとう、って気分なのに」

ユキちゃんはポカンと口を開いて、わたしをまじまじと凝視してからハァ〜ッと遣る瀬無さそうに溜息を吐いてから「もういい」と顔を片手で覆った。

「もういいわ、なんだよ、なんでオレの周り不思議チャン集まんだよ…」

「ユキちゃん」

「…なに」

「ホットドッグ、食べにいこ」

「合流が先だっつーの!!葦木場達もお前探してんだからな!!マジで空気読め!!」

「ユキちゃんは怒りんぼさんだなあ」

「誰がキレさせてんだ!!」

ユキちゃんはすぐ怒る。声が大きい。繊細で優美な行動とは程遠くて、息を切らして汗だくになってわたしを見つけてくれたその姿は、全然王子様じゃなくて。

だけど。

…うん。

「東堂様は白馬、ユキちゃんは自転車」

「は?」

「なんでもなーい」

怪訝そうな顔をしているユキちゃんを置いて、鼻歌交じりにユキちゃんの数歩先ををぴょんぴょん歩いていく。

むふふと口元が緩む。必死にペダルを漕いでいるユキちゃんを思い出しながら、ユキちゃんには自転車!と強く思いを噛みしめるのだった。



prev / next

[ back to top ]


- ナノ -