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翼さんの様子があきらかにおかしかった。まだ一分も経っていないのに時計を見たり、カレンダーを何度も見たりとそわそわしていて挙動不審だ。理由は、わかっていた。昼食のあとのコーヒーを最後まで飲みきったあとに、私は翼さんに声をかけた。

「翼さん」

翼さんの肩が少しだけ跳ねた。すまし顔で振り返って「なに?」となんでもないような口振りで言う。かっこつけなんだから、と苦笑が生まれそうになる。堪えてから、私は言った。

「明後日、結婚式なんですよね?」

翼さんの目が大きく見開かれた。彼の瞳に穏やかに微笑んでいる私が映っていて、瞳の中の私はゆっくりと口を開いた。

「ご実家に戻ってみませんか?」

そう言うと、翼さんはややあってから。

「…うん」

普段の横柄な態度はすっかり影をひそめていて、叱られた子供のように頷いた。胡坐をかきながら、俯いているその様を見ていると、胸の内にとある感情が芽生えた。その気持ちを抑えるかのように服の胸元をぎゅうっと掴む。ですぎたことを今私は思っている。言うべきではない。言いかけて、言葉を止める。でも、もう一度じっと静かに俯いている翼さんを見たら。言うべきことだとか言うべきことではないとか、そんな判断がどうでもよくなった。

翼さんはパッと顔をあげた。綺麗な笑顔を浮かべている。綺麗な笑顔を、無理して作っている。まだ知り合ってから一週間も経ってない奴に知ったようなことを思われたら、翼さんは不快に思うだろう。
でも、実際に知っている。私は、あなたはそういう風に笑わない。

「今まで悪かった。ありがとな。俺が言うのもなんだけど、お前もう二度とこういうこと、」

「ついていっても、いいですか?」

だから、こんな言葉が口を突いて出てしまったのだろうか。








ぽっかーんと、口をあんぐり開けながら目の前に聳えたつ巨大な豪邸に言葉も出なかった。手に持っている鞄を驚きで落としそうだ。翼さんに「何やってんの。はやく行くよ」と促されてようやく我に返り「あ、は、はい」としどろもどろになって言葉を返す。ひとつひとつの仕草に気品があるから良いご家庭で育ったのだろうと推定はしていたが、まさかここまでとは。

ついていってもいいかと訊くと、翼さんはすぐに返事はしなかった。ほんの一瞬だけ彼の表情に動揺が浮かんだので、ですぎたことを言ってしまったかと後悔すると、「準備して」といつものような横柄な態度で一言を私に突き出してきた。不安定な子供のような表情はどこ吹く風か。綺麗さっぱりなくなっていた。

門をくぐって、庭を通る。綺麗な花が咲いていて、良い香りが鼻をくすぐるので、すんすんと匂いを嗅いでいると、翼さんのご自宅の扉の前に着いた。翼さんは躊躇することなく扉を開いた。

「ただいまー。…入んないの?」

「え、えっと」

「あーもう、じれったいな」

なんてことないように言いながら家に入る。緊張でなかなか入れないでいる私に痺れを切らして、私の腕を引っ張って無理矢理家に連れ込んだ。

「ちょっ、急、に…っ」

抗議をするために翼さんを見るが、翼さんは目線をしっかりと前に向けていた。つられるようにして、翼さんの視線を辿った先には、可愛らしい女の人がいた。翼さんととても似た顔立ちの女の人は翼さんを見てパチパチと瞬きをしている。この人、もしかして。

「翼…!?」

「ただいま、母さん」

やっぱり。

「あなたどこいっていたの!?連絡も一回メール入れたっきり…!心配かけて!!お父さんすごく怒ってるのよ!?監督もあなたとはもう契約を切るって言ってて!ねえ!」

監督…?契約…?

翼さんのお母さんの剣幕におされながらも、予想しなかった単語が出てきて疑問が起こる。翼さんはお母さんの言葉を冷静に受け止めていた。

「うん。俺の我が儘で色んな人に迷惑かけた。その代償ならなんでも受ける。勘当されて当然だ。親父と監督ときちんと話をしてくる。その間、この子頼む」

「え…?」

「え!?」

翼さんは私の背中に手をあてて、前に押し出した。突然舞台に上がらされて動揺しかない。翼さんのお母さんは私を見て目を真ん丸にしている。今初めて私の存在に気付いたようだ。目と目が合って気まずい。

「こ、こんにちは」と会釈をすると翼さんのお母さんも「こんにちは…」とおずおずと挨拶を返してくれた。呆けたような顔をしていた翼さんのお母さんだったがすぐに眉を吊り上げて翼さんに顔を向けて詰問口調で訊く。

「翼、この子は誰なの?」

「あー…」

翼さんはちらりと、一瞬私に視線を寄越してから、前を向き直る。

「恩人」

「え」

驚きで思わず声が出てしまった。恩人だと思われていたの、私?恩人への態度にしては…なんだか…雑だったような気がしなくもないけど…。
というか。私の方が、翼さんに助けてもらってばかりだったと、思う。

私に帽子を被せて、引っ張ってくれたてのひらの感触を噛みしめるかのように思い出しながら、てのひらを拳にする。

「恩人ってどういうこと?」

「この子に世話になってたってこと」

「あなた、こんな若い娘さんのお家に上がり込んでいたってこと!?」

「まあそういうことになるね」

「呆れた…!」

「うん。本当にね。あ、でも母さんが心配するようなことはしてないから。父さんいるよね?ぶん殴られてくる」

「翼!」

「母さんの説教はあとで。先にきついのやっておきたい。じゃあ頼むよ」

翼さんはそう言うと、ぽかんと間抜け面の私と、翼さんに怒声をかける翼さんのお母さんの横をするりと通り抜けた。取り残された私達の視線がぎこちなく合って、私は苦笑いを翼さんのお母さんに向けた。




カチャリという音をたてながら、ティーカップが置かれた。上品な香りが鼻をくすぐる。腰をおろしているソファーは弾力があって、背を預けたら今にも寝てしまいそうなほど気持ちが良い感触だ。…こんな緊張した状態ではさすがに寝られないけど。

「お砂糖はいる?ミルクは?レモンは?」

「あ、ありがとうございます。では砂糖とミルクを少々…」

「はい、どうぞ」

紅がのった唇の端を上げて微笑むさまは、とても優雅だ、同性ながら惚れ惚れしてしまう。流石翼さんのお母さん…。

あの後、リビングに案内された私は、お茶を出してもらっていた。上から怒声らしきものが聞こえてくる。身を縮こまらせながらティーカップに口をつけて紅茶を流し込むと、華やかな味わいが口に広がる。初めて感じた味覚に目を丸くしていると「どう?」と翼さんのお母さんが訊いてきた。

「すっごく美味しいです…!」

「そう?よかった。ピンクローズなの」

今初めてピンクローズという紅茶の存在を知った。覚えておこう…家でも普通に飲みたいけど、これ高そうだな…。

家、か。

翼さんはもう、二度と戻ってこないんだろうな。

ずしりと鉛をつけられたかのように体が重くなる。とりわけ、胸の奥が集中的に重い。心臓が誰かに握りしめられていて、つぶされてしまいそうなくらいに痛い。

「…翼、どういう経緯であなたの家に厄介になることになったの?」

物思いにふけっているところに、翼さんのお母さんにそう問いかけられて、ようやく意識を取り戻した。

「えっと、翼さんが酔いつぶれていたんです、路上で」

「…はあーッ。何やってるんだか、あの子は…」

「それで、女の人だって思って、私」

「女の人…?」

「す、すみません、息子さんに対して失礼なことを…」

「いいわよ、女の人…ぷっ。まあ、そうね。フィールドの舞姫って言われてるくらいだものね」

「フィールド…?」

予想外の単語が飛び出てきて、話の途中なのにもかかわらず訊き返してしまった。

「…あなた、知らないの?翼は、」

言葉は途中で遮られてしまった。

「こーんにちは!」

広いリビングにも関わらず、その明るい声はよく響いた。

吃驚して顔を上げると、視線の先には金髪の男の人がいた。隣に、すらっとした女性が立っていたのだが、私の視線は金髪の男の人に釘付けだった。何故かというと。

金髪の男の人が、にこにこと私を見ていたからだ。

「へえ〜、これが姫さんのコレか〜」

小指を出して、うんうんと意味ありげに頷く金髪の男性。

「ちっちがいます!ただの同居人というか…!」

「ほんまようやるわ〜こんな若い子んちに逃げ込むとか、おいしすぎるやろ。姫さんあんな綺麗な顔しといてほんま〜、あ、お母さんご無沙汰してますぅ、すんません、挨拶もそこそこにべらべらと」

「相変わらずねえ、藤村くん…」

呆れたように言う翼さんのお母さんに続いて、苦笑が漏れた。

「本当よね」

ふいに上がった声の方へ視線をずらすと、すらりと背の高い綺麗な女の人が立っていた。ようやく私はそこで、彼女の存在に気付いた。ばちり、と目と目が合って慌てて頭を下げる。

「はっ、はじめまして」

「はじめまして。翼がお世話になったわね」

「いっ、いいえっ、全然そんな…!」

「なあ、監督さん。姫さんってほんまに解雇されたん?」

「解雇されるに決まってるでしょう。無理矢理日本に帰ってきて、しかも一週間近く音信不通。マスコミに解雇のことがもうそろそろバレるでしょうね」

「うわー傑作やな。まあ姫さんほど実力あれば多少ゴシップがあっても、どこのチームでも入れるやろうけど」

チーム?マスコミ?

頭がどんどんこんがらがっていく中、一つの写真が視界に入ってきた。目を凝らして見てみると、写真にまだ幼い翼さんが映っていた。中学生くらいだろうか、サッカーのユニフォームを着ている。

サッカー。

翼さんはサッカーに対して、思いれがあるようだった。フィールドの舞姫、チーム、マスコミ。

もしかして。

ほんの少し前の出来事を思い出す。夕日が沈んでいく中、恋い焦がれるように、サッカーボールを追い続けていたあの瞳を。

あの時生まれた予感は、的中していたのではないだろうか。

ごくりと唾を飲み込んでから、声を出した。

「翼さんって、サッカー選手なんですか?」

喋り声が止んで、しんと水を打ったように静まり返った。私以外の三人がぱちぱちと瞬きをしている。
金髪の男の人が何か言おうと口を開いた時だった。

ガチャリとドアが開く音がして、次に。

「そうだよ」

淀みなく真っ直ぐな声が飛んできた。振り返ると、頬が腫れている翼さんが立っていた。私と金髪の男の人は目を剥いて息を呑んだ。

「つ、翼さ…!?」

「うっわ〜!綺麗な顔が…!」

「何笑ってんだよ、藤村」

「ごめん正直めっちゃおもろい」

「俺は全然面白くないよ。ていうかお前くるの早いね。暇なの?」

「そりゃあ姫さんの御帰還ときいていてもたってもいられんくて〜」

「お帰り、翼」

綺麗な女性が翼さんに向かって微笑みを浮かべた。翼さんは何も答えずじっと女性を見つめている。

いつもは全く機能しない女のカンがやっと働いた。

この瞳が恋している瞳でなかったら、何を“恋”と定義づけられるのだろうか。

翼さん、この人のことが、好きなんだ。

じっと女性を見据えたまま、翼さんが口を開いた。

「式、出るから」

言い切ったあとに、口角を上げた。女性は神妙にうなずいたあと、ふっと柔らかく微笑んだ。二人の間に優しい沈黙が流れた。


ドクンと胸の奥が軋む音が聞こえた。

写真の中でユニフォーム姿を着て、照れたような笑顔を浮かべている翼さん。レンズの向こう側にいる人は、きっと。



リリィが泣くから慰めて


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