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橙色と濃紺が混じっている夕闇に街が覆われていく。ろうそくがともるようにポッと光が家に灯っていく。あちこちから漂う夕餉の香りにくんくん鼻を鳴らしながら、軽い足取りで道を進む。野球帽をかぶった翼さんの姿が視界に入った時、翼さんも私に気付いて、よっと手を挙げた。翼さんの姿を見た途端、疲れも吹っ飛んで背中のリュックが重いことも忘れて、私は翼さんに駆け寄る。

「すみません、お待たせしました!」

今朝、学校帰りに買い物をして帰ると言ったら、翼さんも手伝うと言ってくれた。学校が終わったら翼さんに学校が終わったとメールして、今日お肉の特売をしている少し遠めのスーパーで直接待ち合わせすることになっていた。翼さんは私を一瞥してから腕を組んで偉そうに一言。

「本当にね。三分十五秒遅刻」

「…」

「バッカ。秒単位で数えてる訳ないだろ。冗談だよ、冗談」

翼さんの細かさに絶句していると、翼さんがけらけら笑う。またこうやってからかう…とむくれながら口を開いた。

「…そんなことばかりしていると、その帽子返してもらいますよ?」

今日お昼の時間に一通のメールが舞い込んできた。開くと翼さんからで『なんでもいいから帽子貸してくれない?』と。なんで帽子を貸してほしいのか気になったけどまあいいかと思い、『いいですよ』と送信。野球帽と言えど女物の帽子なのに、とても似合っている。…ていうか…もしかしたら私より顔が小さいんじゃ…。

「取り返したいなら自力でどうぞ?」

にやっと笑って“やれるものならやってみろ”と言うような小憎たらしい笑顔を浮かべる翼さん。

今までの私ならここで引いていただろう。
いや、今でもそうか。
私は気が小さくて“まあいいか”とすぐに諦めてしまうけれど、翼さんに関してだけは、何故だかあきらめたくなかった。
引いていきそうになる気持ちを踏ん張って、前に押し戻す。

得意げに笑う翼さんを打ち負かしてやりたくなって、頭に手を伸ばす。

「おおっと」

ひょいっといとも簡単に頭だけをのけて軽々と避ける翼さん。負けるものか、と爪先立ちをして、もう一度手を伸ばす。そしてまた軽々と避けられる。眉間に皺が寄っていくのを自分でも感じる。そしてそれに比例するかのように翼さんはどんどん楽しそうになっていっていて。癪に障る。

掴みそうで掴めない。
掴んだ先は、空気。
感触を覚えないてのひら。

なんだか今の私と、翼さんの関係みたいだ。

「そろそろ降参したら?」

意地悪な笑いが含まれた声で、大人が子どもを諭すように言う翼さんに、カチンときた。できるだけ自然に「あ」と声を漏らす。ん?と翼さんが首を傾げた瞬間に隙が生まれた。私はえいっと勢いよく手を伸ばす。

「う、わ」

私に意表を突かれて翼さんの目が驚きで大きく見開かれた。上半身の体勢を崩しながら、私の手首を掴んだ。それによって小さな衝撃が生まれて足が不安定になる。

え。

どんどん近づいていく。
翼さんの瞳に映っている私の姿は間抜け面だった。
衝撃が収まった時は、私と翼さんの距離はほぼゼロと言っても差支えがなかった。
身長差が殆どないせいか、少しでも前に動けば、唇と唇がぶつかってしまいそうな距離しか私達にはなかった。

時間がとまったかのように思えた。

「っ、すっ、すみませ…っ」

けど、実際はほんの一瞬だっただろう。

はっと我に返った私は慌てて飛びのくようにして距離をとった。

「え。あ、いや…」

翼さんは首の裏に手を回して気まずそうに俯きながらぼやく。

そのことが少し意外に思えた。翼さんなら適度に女慣れしてそうだし、私みたいな恋愛経験殆どない子供と違ってこんなことを恥ずかしく思わないのだと思っていた。けど、目の前の翼さんは少しバツが悪そうな表情で、頬はほんのりと赤くて。

「…何みてんの」

つっけんどんな口調で私に言う。でも、照れ隠しにしか思えない。いつも大人でのらりくらりとかわしてばかりの翼さんに初めて優位に立てたような気がして、頬をほんのり赤くしながらじっとりした目つきで私を睨む翼さんが、可愛らしく思えて、ふふっと笑いが漏れた。

「ちょっ、なんで笑うんだよ」

「ふふっ、だって」

「こら、笑うな」

「だって、翼さん、可愛いんだもん」

「…へ〜?そういうこと言っちゃうんだこの口は?」

「わっ、頬引っ張るのなしですってば〜!」

「大人をからかうお前が悪い」

私の頬に伸びてきそうな手を寸でのところで手首を掴んでとめる。すごい力だ。この細腕のどこにこんな力が隠されていたのだろう。今にも私の頬は左右に引っ張られておかしくない危険な局面なのに、こういったじゃれあいが楽しくて仕方ない。

けど。このくすぐったくて楽しい時間は、耳に飛び込んできた一言によっていとも簡単に壊されてしまった。

「えっ、倉橋さん…?」

驚いたような声が後方から聞こえた。
それは、聞き覚えのある声で。
今の、この楽しい気持ちを一瞬にして冷ますほどの威力はある声だった。

すうっと体から熱が引いていく。どくどくと心臓が波打っている。
体が鉛のように重くて、動きづらい。振り向くのにも時間がかかった。

元彼と言っていいのかわからない人。
私の初体験の人が、そこに立っていた。

「うわ、久々…。え、もしかして…、彼氏?」

先輩は、翼さんにちらりと視線を走らせる。もう一度私に視線を寄越して見比べている。表情と声色が『つりあってない』と言っている。
翼さんが小刻みに震えている私を訝しがるように見ている。

翼さんにだけは迷惑をかけたくない。誤解はされないようにしないと。

「ち、違います」

やっとの思いで絞り出した声はどもった挙句震えていた。なんて情けない、みっともない。

「ま〜、そうだよな。全然違うもんな」

にやにやと楽しそうに先輩は笑う。私にあの時の会話を聞かれたということをなんとなく感づいているのだろう。上辺だけでも取り繕うことすらしない。

「でも、倉橋さん、雰囲気明るくなったよな〜。てかなんかセンス良くなった?」

上から下までじっとりと私を舐めるようにして見られて、悪寒が走る。

にげたい、こわい、きもちわるい、いやだ。

ぐるぐると負の感情が浮かんでは消え、浮かんでは、消え、頭の中がぐちゃぐちゃでなにをどうすればいいのかわからない。返事をしなくてはいけないのだけど、うまく声が出てこない。

いつまで経っても言葉を返さない私に痺れを切らした先輩がちっと舌打ちを鳴らして、鬱陶しそうに、はあっと重く息を吐いた。

「あのさ〜、そういうところが駄目なんだって。なに?言いたいことがあるならなんか言えよ」

そうだ、その通りだ。
自分が嫌だと感じたのなら、嫌だと言えばいいだけだ。思う事を言葉にすればいいだけだ。

「バイト無理矢理辞めるし。あのあとシフト大変なことになったんだよ?倉橋さんって全然人の事考えてないよね」

これも、その通りだ。
突然辞めると言われても困る、と眉をひそめて私をとめる店長の顔を思い出した。
少ない人数でまわしているカフェだったから、一人抜けただけでも大変なことはわかっていた。なのに、私は逃げ出したいからと我が儘を無理矢理通して辞めた。

「ていうか、」

「もういい?」

先輩の声が覆いかぶさるようにして遮られた。
隣の翼さんを見ると、面白くなさそうな顔をしていた。ずっとこんなつまらなさそうな顔で静観していたのだろうか。

「お前みたいなガキのためにならない説教に時間を割くほど暇じゃないんだよね。頭スッカスカそうなお前にそんな御高説垂らされても説得力皆無なんだよね。あーあ、この時間でなにができたかな。もったいない」

厭味ったらしく言って、ふっと鼻で笑い飛ばす翼さんは生き生きしていた。

会ったばかりの人間にマシンガントークで散々なことを言われて、ぽかんとしていた先輩の顔が徐々に気色ばんでいった。あからさまに作った笑顔を浮かべて、口を開く。

「ご心配なく。あんたに言ったわけじゃないから」

「年上に対する口のきき方がなってないね。お前が散々説教もどきを垂らしていた春花はちゃんと敬語を遣えているよ?」

「…は?え、あんたって、いくつ」

「にじゅーさん。こんな奴に付き合ってるのいよいよ馬鹿らしくなってきた。行こう」

翼さんは突然ふうっと短く息を吐いて、私の手を握った。骨っぽくて大きなてのひらが私のてのひらを覆っている感触に驚いて顔を上げると「ほら、行くよ」と私を引っ張った。なにがなんだかわからないと瞬きをしている先輩の横を通り過ぎる時、翼さんは「あ、そうだ」と思いついたように足をとめて、先輩の方に顔を向けて言った。

「お前と春花、全然似合ってなかっただろうね。こんな可愛い子とお前みたいな奴とか、新手のギャグ?」

にっこりと。
無邪気を装った邪気たっぷりの笑顔を向けて。

「な…っ」

「さ、肉だ肉だー」

あたたかくておおきなてのひらに、心まで覆われたようだ。

私とさほど変わらない身長なのに、そんなに大きな背中でもないのに、とても大きく見える。

先輩が初体験の人だって言わなかったのに、察知して、助けてくれた。

先輩が言っていたことは決して間違ってはいない。正論だ。言いたいことがあるなら言えばいいし、バイト先の関係ない人にまで迷惑をかけた。言われて当然の“正論”よりも、私の気持ちを優先してくれた。

翼さんの背中がどんどん滲んでいく。漏れそうになる嗚咽を必死に喉の奥へと押し込もうとするが、堪えられなくて、熱くて湿っぽい息が吐き出された時、ああもう駄目だと観念した。

「…っ、ひっ、ひっく」

湿っぽくなった視界の中で、翼さんの動きが一瞬だけ停止した。手をつないだまま、くるりと私の方に体を向けた。何を言われるのだろうと身構えた時、頭になにかを被せられた。

「返す」

そう言ってまた前を向き直す翼さん。てくてくと足を進めていく。引っ張られる。引っ張られながら、頭に手を伸ばすと、それは久々に被った野球帽の感触だった。先ほどまで翼さんがかぶっていたせいか、生温かい。

ツバを深く目深に被せられているので、視界が狭まっている。なので、このてのひらだけが頼りだ。
ぎゅうっと握りしめると、ぎゅうっと、握り返してくれた。
それが何故かさらに私の涙腺を刺激した。

「あり、が、とう」

必死の思いで声を出す。嗚咽にまみれた掠れ声だからよく聞こえなかっただろう。
でも、こころは届いたには違いない。
それは、さらに強く握り返してくれて、少し痛いてのひらが証明してくれていた。




水溜まりの世界で生かして



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