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「やっぱり、美味しい…」

「まあね」

「…翼さんって、本当になんでもできますね…」

「まあたいていのことは人並み以上にできるね」

しれっと答えて、翼さんはクリームシチューを口に運ぶ。

料理も上手で、食べる姿も綺麗、とか。

「ずるい…」

「なんか言ったのはこの口かな?」

ぽろりと漏れた小さな本音を翼さんは聞き逃さず、私の頬を容赦なくつねった。いだいいだいいだい。天使のように無垢な笑顔でやることはえげつない。ようやく頬を離されたあと、私はひりひりと痺れる頬を抑えながら訊いた。

「あの、こういうのってどうやって作るんですか?コツとか教えてくれませんか?」

「ただで教えてもらおうとか虫のいいこと思っているの?なんか交渉材料がないとなあ…」

「えっ」

「ばっか、冗談だよ」

「…翼さんって…性格…」

「ん?」

「ナニモイッテマセン」

翼さんが会話の主導権を常に握っているが、これくらいの軽口を叩ける仲にはなった。

いっしょに暮らし始めて、一週間も経ってないというのに、翼さんと一緒にいると、安心した。

沈黙が流れても気まずくならない。二人で肩を並べて、本を読んで、時折翼さんの横顔を盗み見る。すっと通った鼻筋に、大きな丸い瞳がけだるげに文字を追っているのを見ると、なんだか安心して。

夜、床にふとんを敷いて寝ている翼さんを見ると、ああ、いてくれている、と、安心して。

いつどこか遠くにいってもおかしくないから、翼さんは。

一緒にいてくれるのなら、傍にいてくれるのなら、誰でもいいと思っていた。

けど、今は。

『なんで俺じゃないんだよ!』

物思いに耽っている中、突然怒声が耳の中に飛び込んできて心臓が飛び跳ねる。

声の出所は、なんとなくつけていたテレビからだった。

今大人気俳優と謳われている女の子みたいな顔立ちをした俳優と、綺麗なお姉さん系の女優が、テレビの中で口論をしている。

『…無理なものは、無理よ。私にとってあなたは弟みたいなものなの。男としては見れない』

『…っ、でも…!』

『この話はもう終わりよ。龍。私、結婚するの』

いつもの沈黙とは違う、気まずい方の沈黙が流れる。

もぐもぐという咀嚼音、チッチッチという秒針の音と、ブラウン管の音が私たちを囲む。

このドラマの内容、まるで―――。

「俺の話みたいだね」

沈黙はあっけなく壊された。

翼さんは平然とした口調で言う。つまらなさそうにテレビを見据えたまま、クリームシチューの中に入ってあるにんじんをスプーンですくう。

私はどう返したらいいかわからず、「あ、えと…」と要領を得ない返事をしてしまった。

「しっかし、こうして第三者目線で見ると、本当に情けない行動をしたんだね、俺は」

翼さんは冷たい視線を、切羽詰まってすがりつくように喚いている俳優に送る。

「無理なもんは無理なんだよ。情けない、みっともない、恥ずかしい」

吐き捨てるように、罵る言葉を吐いていく。

その言葉の向かう先は、演技をしている俳優に向けて、ではなくて。きっと、翼さん自身に対してだ。

確かに、翼さんが今していることは、カッコいいとは言えない。
みっともなくない、とも言えない。

けど、私は嫌だった。

例え、翼さんの悪口を言っているのが翼さんだとしても、翼さんの悪口を聞きたくなんかなかった。

「だいたい、」
「もっと、情けなくて、みっともなくて、恥ずかしい人がいますよ」

翼さんの、翼さんへの悪口をもう聞きたくないとでもいうように少し大きめの声を出して、翼さんの言葉を遮った。翼さんは何を言い出すのか、といった表情を私に顔を向ける。
今私はどんな表情をしているのだろう。笑い飛ばしながら、明るく話したいけど、動かそうとする口は重い。頬の筋肉が固くて動かしづらい。ああ、まだふっきれてないんだな、と再確認する。思い出したくない嘲笑が脳裏で再生される。

けど、きっとこの話をしたら、翼さんは『ああ、俺よりも馬鹿な奴がいたんだな』って安心するはず。

「私、今はバイトしていないんですけど、ちょっと前まで、バイトしていたんです。お洒落なカフェで、時給もそこそこ良くて。でも周りはお洒落な人たちばかりだから、私、浮いてたんですね。楽しい話とか、私できませんし。だから、ずっと、ひとりぼっちで。そんな中、話しかけてきてくれた男の先輩がいたんです」

すらっと背が高くて、優しい雰囲気を纏っていた。
話術もうまくて、彼と話していると、声をあげて笑ってしまうこともあった。
ちょっとマイナーなバンドをお互い好きなこともあって、ライブに誘われたこともあった。

『ねえねえ、倉橋さんって、三木くんに狙われてるんじゃないの?』

『…へっ!?』

『あっ、やだ、赤くなっちゃって〜』

『三木くん倉橋さんみたいな純情な子が好きだって言ってたよー!』

カアッと、体中に甘ったるい熱が伝染していく。

誰かが、自分の事を好きと思っているのかもしれないということは、男の人に免疫がない私にとって、ものすごい事件で、衝撃的で、嬉しかった。

それから、すぐのこと。
付き合ってほしい、と先輩に告白をされた。

うまれて初めてされた告白。
目の前にいるこの人は、私の事が好きなんだ、と舞い上がった。

舞い上がって、舞い上がりすぎて、その人の目もきちんと見ないで、私は交際を受け入れた。

そしてその三時間後。

何故か、私は。

『えっと、あの、その…』

『大丈夫だって』

先輩の家にお邪魔して、ベッドの上に押し倒されていた。

『付き合うって、こういうことするってことだよ?』

服の中に入ってくる手がひんやりと冷たくて、体がびくっと震える。

付き合っているんだから、もう大学生なんだから、無遠慮に体に入ってくるものに眉間に皺を寄せて耐えた。腰に残る激痛を労わることもなく、先輩は、私が目を覚ますよりも前に家を出ていた。書置きもメールを送ってくることもなしで。

私の初めては、何のロマンスもなく、あっけなく、消えてなくなった。

その二日後、やりきれない思いを抱えつつも現実なんてこんなものだと諦めをつけてバイト先に向かうと、スタッフルームから嘲笑が聞こえてきた。

『意外と股開くのはやかったな〜』

『あのねー、大人しい子の方が意外と性欲あるんだよ。倉橋さんメンヘラ臭いしねー』

『ちょろすぎて笑った。倉橋さんアレ絶対男と付き合ったの初めてだわ』

そう嘲笑う、私の“彼氏”の声。

さあっと血の気が引いていく。

『まあ、そりゃあそうでしょ。顔もたいしたことないし、話もつまんないし』

『まあ、今回ので笑かしてくれたじゃん』

『これからも笑かさせてもらおっ』

狙われてるんじゃないの?と話しかけてきた女の先輩二人がきゃっきゃっと楽しそうに笑っている。

そういえば、今にして思えば、私、先輩から可愛いとか好きだとか言われたことなかったなあ。

そう思いながら、ドアの前で他のスタッフに声をかけられるまで、ずっと、立ち尽くしていた。




「…ほんと、ださい、話ですよね」

それから私は、店長に一方的に辞表をつきつけて、店から逃げた。“彼氏”からは電話もメールもこなかった。私が気付いたことを悟って、面倒くさいからそのまま放置したのだろう。“彼氏”にとって、私とはその程度の存在。

恋に恋をして、簡単にヤらせる馬鹿女の、みっともない話。

翼さんはこの話を聞いて、自分よりも愚かな存在がいたことに、ほっとしたかもしれない。

けど、幻滅もしたかもしれない。

いや、するだろう。

しょうがない。でも、翼さんは酔っ払っていたとはいえ、話してくれたんだ。

私も話さないと、フェアじゃない。

幻滅されたって、しょうがない。

「バッカだね、お前って」

心底呆れた表情が見て、ハアッと呆れた声を聞いて、わかっていたはずなのに、お腹の中に重い石が投げ込まれた。

ああ、うん。そうです、よね。

「…はい」

「馬鹿だよ。もしかして、もう処女じゃないから襲われてもいいって思って、俺を家においたの?」

「…」

「…ハァ。馬鹿だ」

真実の刃が私の胸に突き刺さる。愛情のこもった“馬鹿”ではない。呆れ果てている“馬鹿”。

膝の上で丸めた掌に爪が深く食い込む。
翼さんの顔を見るのに耐えられなくなって、私は顔を俯ける。

言わなかったら、よかったかな。…ううん。それは嫌だ。私、翼さんには、元気になってほしい。だから、言ってよかったんだよ。蔑む対象ができたら楽だもん。よかった、これで、よかったんだよ。

「言っておくけど、俺、お前が馬鹿だからって、そんなことで救われるような安い男じゃないから」

…え。

ゆっくりと顔を上げると、踏ん反り替えって、冷めた目で私を射抜く翼さんが見えた。

「好きな女の幸せを喜べないような小さい男が何言ってんだって感じだけど、俺は人を見下して、喜ばない」

“馬鹿”と呆れ果てた声色で言われた時よりも、その台詞は、私の心臓を抉り取るように突き刺さった。

「同情だってしない。そんな最低男に引っかかったお前にも責任ある。見抜けなかったお前が悪い」

「ちがっ、同情されたかったわけじゃっ」

急に声を出したので、声が裏返った。そのまま構わず反論しようとしたら、翼さんの目が緩んだ。

「でも、嬉しかったよ」

ほんのりと、少しだけ、目が緩んでいた。

先ほど喜ばないと一蹴されたばかりの私は、訳がわからなくて、眉を八の字に寄せて困惑する。

「…さ、さっき、喜ばない、って」

「喜ばないよ。そんな小さな男って思われていたことなんか不快にしか思わない。けどお前が、ない知恵を絞って、空回りして、俺に元気出させようとしているところはみっともなくて情けなくて、見ていて面白かった。…馬鹿だね、お前は、ほんとに」

でも、と言葉を続けた。

優しい声色で。

「ありがとう」

目の前がかすんでいく。眼球の奥から湧いた感情が涙となって、溢れだす。

違う、と震える声を、無理矢理絞り出した。

「違う、違うんです、私っ、そんなお礼言われるような人間じゃないんです…!」

私が翼さんを家に置いたのは、引き留めたのは、今の私の境遇と翼さんが少し似ていたから。誰でもいいから、この寂しさを紛らわすために、一緒にいたかったから。

でも、本当は、それだけじゃなかった。

私は翼さんをどこかで少し、見下していた。

こんな見栄えがいい人だって、恋愛に失敗するんだって。

なんでもできるけど、私みたいなしょうもない人間に頼って生きているんだって。

自分が安心するための材料に、翼さんを使っていた。

お礼を言われるような人間じゃない、私は。

「違うっ、わたっしっは、ずるくてっ、汚くて、馬鹿でっ、ふぐっ」

「はい、ちーん」

目の前には呆れ果てた翼さんの顔があった。私の鼻にティッシュを押し付けている。

「確かに今のお前すげー汚い。鼻水だらだら。見るに堪えないね」

「うっ、うう…っ」

「何言ってるのかよくわかんないし、あーほんと俺ってなんでこんな奴の世話になってんだか。ほんと俺何がしたいんだろ」

こつんと額と額がぶつかりあう。長い睫に囲まれている翼さんの瞳の中に涙と鼻水でぐしゃぐしゃな私の顔が映っているのが見える。

「変な顔」

穏やかで優しい声なのに、意地悪な笑顔というアンバランスな翼さんの姿は、すぐに涙で滲んで、よく見えなくなった。









ピエロのダンスにおともする




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