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空はどこまでも青に覆われていて、その青を邪魔するものは一つもないくらいに澄み切っていて。絶好のフライト日和だった。

「殴られた顔面写メって送ってこいよ」

「殴られるの前提かよ。殴られもしないよ。俺にほとほと呆れているらしいから、ひたすら無視だろうね。解約手続きしに行くのも気分乗らないけど、身から出た錆だし。ちゃちゃっと済ませてくる」

「ぷっ、達観してんなー。土産よろしく」

翼さんと黒川さんが楽しげに話しているのを、私は黒川さんの隣で黙って見ていた。口元の口角は上げているつもりなのだが、きちんと上げることができているのか自信がない。

今日、翼さんは日本を発って、スペインに向かう。

見送りは私と黒川さんだけ。翼さんのご両親も玲さんも、藤村さん達もみんな今日は仕事があるらしい。偶然オフだった黒川さんと暇人の私だけが翼さんの見送りにくることができた。

別に、今生の別れじゃない。すぐに日本に帰ってくると言っている。もっとも、ずっと日本にいるかはわからないけど。翼さんは外国のチームからも移籍のお誘いがスペインのチームに在住しているころからたくさんあったらしい。

翼さんはそういうすごい人で。

今日限りなのかもしれないのだ。私のこんな近くにいるなんて。

翼さんはまだ玲さんのことが好きだ。それでも、前を向いて生きて行こうとしている。たくさん積み上がっている問題に向かい合っていこうとしている。スペインに発つのは翼さんの新たな第一歩なのに。喜ばしいことなのに。

我が儘な私は喜ぶことができない。

「春花」

我に返ると、翼さんの顔がすぐそこにあった。わっと声をあげながら後ずさりをしてしまった。

「なにぼーっとしてんの」

「あ、いや…つい」

翼さんの視線を受け止めることが心苦しくて、俯いて手遊びをしながら、もごついた声で返す。

顔を上げて、翼さんを見る。

大きな瞳、すらっとした鼻筋、きめ細かい肌に、形の良い唇、女の子のような繊細な顔立ち。でも喉仏はあって、てのひらは男らしくて、そのてのひらに撫でられるのが、私はたまらなく好きだった。私みたいなつまらない人間を褒めてくれたり、守ってくれたり、叱ってくれたりしたあとに撫でてくれたてのひらが好きだった。

「…わり、俺、今日ちょっくら野暮用あったわ」

突然、黒川さんが言葉を発した。全く“悪い”と思っていない顔つきで飄々と言う。えっと吃驚して目を見開いている私と目が合う。すると、黒川さんは私を手招いた。ハテナマークを浮かべながら黒川さんに近づくと、耳打ちされた。

「言っちゃえば?」

え。

言われた言葉の意味は少し経ってから理解できた。

この人…!

顔に集まる熱のせいでうまく喋ることができず、口をパクパクさせることしかできない。黒川さんはにやっと面白そうに笑った。

「じゃーな」

くるりと背を向けながら、ひらひらと手を振って去っていく黒川さんの姿を、私は恨めしげな目で追った。翼さんは何か思うことのあるような目で黒川さんの背中を見据えてから、腕時計に視線をずらした。

「そろそろ行くよ」

どくんっと心臓が飛び跳ねた。

どっどっどっどっと、心臓が早鐘を打っている。

『言っちゃえば?』という黒川さんのからかうような言葉が、頭の中で再生される。

言うって、なにを。

自分自身に、答えのわかりきった質問を投げかける。

本当は気づいている。知っている。翼さんが初めてそういう感情を持ちえた人ではない。中学生の時、そういう先輩がいた。あの時は言えないまま、ひっそりと終わっていった。
勇気が出なくて、怖くて。あれからいくつも年を重ねた。今回も言わなかったら、あの頃から私は何一つ成長していないということになる。

ぐっとてのひらを拳にする。

…言え。

「つばさ、さん」

声が掠れている。喉がからからに渇いていて、うまく声を発することができない。

「なに?」

翼さんは平然としている。それはそうだ。まさか、今から私がとんでもないことを言うなんて、予想していないだろう。

言うんだ。

「あ、の」

心臓の音が聞こえる。周りの音がどんどん遠くなっていく。

でも、言ったところで、どうするの?

ふと、考えが生まれた。

翼さんは、玲さんのことが好きなんだよ?諦めたけど、次、好きになる相手に、私を選ぶと思ってんの?私みたいな、特別可愛くもない、根暗な女を、翼さんが次好きになる相手に選ぶと思ってんの?

さあっと血の気が引いていく。

翼さんはなんだかんだ言って優しいけど、優しくしてくれるけど、私のことを妹のように思ってのこと。妹ポジションの子に言われても、困るだけ。翼さんに負担をかけるつもり?

正論なのかどうかはわからないけど、この考えは、私の勇気を萎ませるには十分効力を発揮した。

「…なにも、ないです。いってらっしゃい、翼さん!」

表情が乏しいと言われる私だけど、にっこりと、私なりに最大級の笑顔を作った。

翼さんの門出を、私なんかが邪魔したらいけない。

「…そ。じゃあね」

そう言うが否や、踵を返して、翼さんはスタスタと搭乗口に向かって歩んでいく。

淀みなく歩いていくその姿は、凛々しくて格好良い。目に焼き付けたくて、ずっと見ているのだけど、徐々に視界が滲んでいって、よく見えなくなっていく。

きちんと見たいのに。これが最後かもしれないんだから、見たいのに。

一週間の間に、私、泣きすぎでしょ。

流れてくる雫を、顔を覆うようにして受け止める。

ぐでんぐでんに酔っ払った翼さんを家にあげたことから始まった。

一緒に過ごしていくうちに、翼さんの強さや、弱さや、優しさや、いろいろなものに触れていった。

意地悪で、よく口がまわって、頭が良くて、どこか冷めていて、時々子供っぽくて、でもやっぱり私より大人で、優しいあなたが。

涙と翼さんへの想いがぽろぽろと零れ落ちていっていると。

―――ベシッ、と。

衝撃が頭に走った。


「いたっ」

てのひらをどけて、顔を上げた先には、眉を吊り上げている翼さんがいた。

「翼さん…!?あれ、もう飛行機に乗ったんじゃ…!?」

「まだ。あと十五分時間ある。はーっ、もうほんっとお前はまどろっこしいなー」

苛々しながら私に暴言を吐き捨て、腕を組んで私を睨む翼さんに、私はただたじたじするばかり。なんでこんなに苛々しているのか皆目見当がつかない。

「あのさ、俺さ、玲が結婚する前に好きだって言わなかったこと後悔しているんだよね。さっさと相手に気持ちを伝えないでいたら、いつのまにか他の男にとられていたっていう俺という反面教師がいるのに、なんでやらないの?偉人は歴史から学ぶって言葉知らない?」

「え、ええっと」

「お前の気持ち、バレッバレだから」

「え」

…。

…。

…!?

「柾輝でも気づくことに、この俺が気が付かないとでも思った?」

ぱちぱちと瞬きをして、声にならない悲鳴をあげる私を面白そうに目を細める翼さんの顔は意地悪いものに満ちていた。

「俺は玲のこと、今でも好きだよ」

どくん、と。
心臓がえぐられたかのような痛みを味わう。

翼さんの口から、玲さんを好きと言われると、他の人が言う何倍もの重みを感じる。

これからフラれるんだ。

「そう簡単に好きじゃなくなるなんてできない」

こわい、いやだ。

耳を塞ぎたい。ここから逃げたい。

「でも、」

やだ、やだ。

「俺、結構お前にぐらついてるよ」

信じられない言葉が、翼さんの口から出た。

性質の悪い冗談なのかと思って、翼さんを見る。けど、翼さんの瞳は真っ直ぐ私を見据えていた。

冗談じゃない。

…落ち着いて考えてみたらわかるけど、翼さんはそんな不誠実な人ではない。

いつでも人の気持ちを真っ直ぐに受け止める、とても誠実な男の人。そういう人だから、私は。

「もっと自信持ちなよ。春花。俺は、何とも思っていない女を家になんか連れて行かない。玲の結婚式になんて出席させない。他の男に言い寄られていても放っておく」

翼さんは、少し、視線を下げて「他に好きな女がいる分際で何言っているんだって話だけどさ」と声のトーンを下げて付け足す。

「玲以外、好きな女なんてできなかった俺が初めていいなって思ったの、お前だけなんだよ。アプローチされたら、案外簡単にお前にころっと落ちるかもしんない。…こんなチャンス、無駄にしちゃっていいわけ?」

不敵に口の端を上げている翼さんに、腹が立って、でも、こう思った。

こう思うのは何回目だろう。

自覚していない時から合わしたら相当な数に違いない。

ああ、すごく、好きだ。

「つ、翼さん!」

声を張り上げる。息を吸い込む。緊張で眩暈がしてきた。でも、言え。言うんだ。あの翼さんのお墨付きだ。息を吐き出す。崩れ落ちそうになる足を踏ん張らせ、前を見据えて、翼さんの顔を真っ直ぐに見る。

「…っ、好き、です…っ」

たった四文字の言葉なのに、吐き出すまでにこんな時間がかかるなんて。

翼さんのこういうところが、好き、とか。ああいうところが好き、とか。もっといろいろ言いたいのに、それ以上は胸が詰まって声を発することができなかった。

ふわりと空気を掴むように、後頭部に手を回されて、引き寄せられた。翼さんの肩に顎を置く形となる。

「はい、よくできました」

ぽんぽんと、子供をあやすように優しく背中を叩くてのひらが暖かくて、不覚にも涙が出そうになる。

「今すぐ、付き合うことはできないけど。…俺を、春花に惚れさせてくれない?」

「…私に、できるかなあ」

「できるよ。お前なら」

傍から見たらとんちんかんな会話だ。フラれたのかフラれていないのかよくわからないやり取り。でも、これでいいのだ。

へんてこな出会いで始まった私達には、これが、ぴったりだ。

翼さんがゆっくりと私から離れる。私の顔を見るなりブッと噴出した。

「変な顔…っ、おま…っ」

口元を抑えながらくっくっと喉で笑う翼さんに、私はむうっとふくれっ面になる。

「…行ってくる」

私の頭を撫でてから、翼さんは、背を向けて、今度こそ、搭乗口に向かっていった。

「…行ってらっしゃい」

そう言ってから、大好きな背中に向けて、私は小さく呟いた。

「覚悟、しておいてくださいよね」

翼さんに聞こえたかはわからない。私はそう呟くとすぐに、身を翻したから。

自分磨きなんて今までしたことないからわからないから、どういう風にすればいいかわからないけど。とりあえず、人に聞くなり情報収集するなりして、頑張ろう。

とりあえず、この腫れた目を冷やすところから始めて。

















「わァ…っ、綺麗っ!」

翼さんのお母さんが手放しで褒めてくれる。褒められ慣れていない私はどう反応していいかわからず、「ありがとうございます」と、しどろもどろになって返した。

「やっぱり私の見立てに狂いはなかった。春花ちゃんにはその色の方が似合うと思っていたの」

「玲ちゃんってすごいわよねー。五年前の時点で、翼と春花ちゃんが良い感じになるって見抜いてたんでしょう?」

「見抜いてたってわけではないけど…、どういう感情かわからないけど、翼にとって特別な人にはなるだろうなって予感がしてたの」

「あの時結婚式に呼んでおいてよかったわね。親族になるんだから」

玲さんと翼さんのお母さんがクスクス笑いあう。

五年前の私が今日のことを知ったら目を点にするだろう。三年前の私が今日のことを知ったら、信じられないと言うだろう。でも、今の私は今日のことを信じられる。信じられるだけのことを、翼さんと一緒に積み重ねてきた。

コンコン、とドアがノックされた。

「入るよ」

ドアの向こう側からは、翼さんの声。

「えっ」

このあと見せるとわかっていても、やっぱりまだ恥ずかしい。翼さんには今日初めてお披露目する。緊張が全身を駆け抜ける。心の準備がまだてきていない。

「まっ」

静止の声は虚しく、ドアを開く音で掻き消された。

開く音と伴に現れたのは、タキシード姿の翼さん。二十八歳なのにも関わらず、童顔なのでまだ二十代前半に見える。

惚れた欲目かもしれないけど、ものすごく、格好良くて、感想を述べることもできない。翼さんに見惚れている私は、翼さんが目を丸くして私を見ていることに気が付かなかった。

「うっお〜、べっぴんさんやな〜」

「すっげー!春花ちゃんだよな!?うっわ〜!女の子ってほんとすげーな!」

「お前ら落ち着け」

わらわらと私の周りに駆け寄ってくる藤村さんと藤代さん。呆れたように二人に言う黒川さんが続いて入ってくる。

「翼、お前もなんか言ってやれよ」

黒川さんに促されて、翼さんはようやく我に返ったようだった。

「え、あ、うん」

曖昧な文字の羅列は翼さんらしくない。どこか呆けたような表情、こちらも翼さんらしくない。

けど、この表情より少し薄いものを、私は以前どこかで見た覚えがある。

記憶をさかのぼってみると、数年前の出来事にいきついた。

あの時、玲さんの結婚式で、翼さんは玲さんのウエディングドレスの美しさに言葉を失くしていた。

もしかしたら、今も。

思い上がりかもしれない考えが、頭の中に一つ浮かぶ。

「椎名どうしたんだよ?」

「藤代それを聞くんは野暮な話やで〜。姫さん、春花ちゃんに見とれて何も言えないんやから」

「ぶっ、マジかよ!ええ〜あの椎名が〜あのどんな時でも口だけはべらべらまわる椎名が〜」

「…おまえら」

「ん?」

「なんや姫さ…あ」

「…お前らが煽っから」

「で て け」

翼さんは、にっこりと綺麗な笑顔で、藤代さん藤村さん黒川さんのお尻を蹴って部屋から追い出した。

パタン、とドアを閉じて、振り返る。

私をぽうっと熱が浮いたように見つめている翼さんの頬には朱が差していた。

どうしたらいいのかわからない、とでも言うように口元を手で覆ってから、はあっとため息を吐いた。

「…今日のお前、反則」

ぽつりと、ぶっきらぼうに呟かれた一言は、どんな賛辞よりも愛がこもっていることが、私の胸にまでしっかりと届いた。

大好きな人の少し情けない姿を、じいっと見ていると愛おしさが溢れだして満面の笑顔が自然と漏れた。








さようならのあとで

「イエローカードですか、私?」

「…イエローカードどころじゃないよ、レッドカードもん」

「ふふっ」

「笑うな、バーカ」


2011.××.×× Happy wedding!




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