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細い指が私の髪の毛を細やかな手つきでまとめ上げていく。いつもろくにアレンジをしない私の髪の毛は上品にハーフアップにされていた。髪の毛だけではない。いつも私は日焼け止めとフェイスパウダーだけですませていて、ほぼ、スッピンのようなものなのだが、今日は、瞼にきらきらとブラウンを基調としたグラデーションをのせられているし、頬には薄い桃色がほんのりと灯っていて湯上りのように蒸気した肌に見える。目を白黒させながら、されるがままでいる私に、翼さんのお母さんは楽しそうに話しかけてきた。
「うふふー、こういうことしてみたかったのよー。玲ちゃんはさせてくれないし、翼は女の子みたいな見た目だけど男の子でしょー?」
鼻歌を歌いながら私の睫にマスカラを塗っていく。短い睫が人並みの長さになっていくのだから化粧ってすごいな…と感心しながら「は、はあ…」と返す。
昨日、私は翼さんのご自宅に泊まらせていただくことになった。藤村さん達は式には出席しないらしい。本当に身内だけで式を挙げるらしくて、そんな中に私を呼んだ玲さんの意図がわからなくて理由をさりげなく訊いたのだが悪戯っぽいウインクで返されて『内緒』と言われた。
当たり前だけど、私は翼さんとは別々の部屋で寝た。一週間しか一緒の部屋で寝ていないのだけど、翼さんと同じ空間で寝ないことに違和感を覚えて、なかなか寝付くことができないまま朝を迎えた。すると。
『春花ちゃん、クマができてるじゃない』
『昨日なかなか寝付けなくて…』
『あらあら。それはそうよね。知らない家で眠るんだものね…、いらっしゃい。コンシーラーで隠してあげる』
最初はクマを隠してもらうだけの話だったのだが…いつのまにか化粧フルコースになっていた。ドレスは貸してもらう話だったけど、まさか化粧までここまで完璧にされるとは…。
「あとはビューラーをしてー…、はい、完成!」
翼さんのお母さんは、私の耳の前に垂らしている髪の毛を輪郭に沿うようにして包み込んで、鏡に向かって得意げに笑いかけた。対して私は、見たことのない自分の姿に、ぱちぱちと瞬きをすることしかできない。やっとのことでお礼を言ったあと、翼さんのお母さんは「そうだ!」と手をパンち合わせたあと、思い立ったように、ドアの方へ歩いていった。何をするのだろう、と見ていると。
「翼ー、ちょっときてー」
えっ。
目が飛び出そうになった。え、つ、翼さん呼ぶんですかお母さん…!いや、いつかはこの姿見せなきゃいけないんですけど…っ。
いつもの私はラグランシャツにジーパンというしゃれっ気のない恰好をしているのだが、今は水色のAライン状のワンピースタイプのドレスを着ている。なんでも玲さんが高校生の時一回だけ結婚式に出席するために着ていたものだとか。春花ちゃんが身長高くて助かったわ〜と、翼さんのお母さんは胸を撫で下ろしていた…って、そういうこと言っている場合ではなくて…!
「なに母さん。俺もいろいろやることあるんだけど…、え」
私が慌てている間に、翼さんは到着してしまった。私を見ている翼さんの大きな瞳がぱちぱちと瞬いている。
は、恥ずかしい…っ。
顔に熱が集中していく。ワンピースの裾を握りたいが、借り物の服に皺をつけてはいけないので慌てて踏みとどまっていると、翼さんがすぐ傍で私をしげしげと見つめていた。
「どう?可愛いでしょう」
翼さんのお母さんは得意げに胸を張る。その言葉を受けて、翼さんは、目元を柔らかくした。
「うん、良い感じ。可愛い」
翼さんが私の髪の毛を一房掬って、撫でて、笑った。
それだけで、たったそれだけのことで、胸がこんなにも締め付けられるのだから。
「おお、綺麗じゃないか」
「なんで父さんまでいるの」
「うるさい。今のお前に私の行動をとやかく言う権利はない。勘当されなかっただけありがたいと思え。玲に感謝するんだな。ずっと黙っていた私も悪かった。勘当することだけはよしてくれ、って頭を下げてきたんだぞ?お前を欲しがるチームは他にもいるだろう。だが、調子に乗るなよ。サッカーというのはチームプレイで、」
「アーハイハイワカリマシタ。もうそれ昨日聞いたから。何回同じこと言うつもり?非効率だよ?今ので貴重な朝の時間何分消費されたと思う?同じことを何回も言うだけならテープレコーダーにだってできるよ?」
マシンガントークの応酬が始まって、私はおろおろと二人の顔を交互に見ることしかできない。だが翼さんのお母さんはそんな二人に構わず「ほっときましょう、春花ちゃん」となんてことのないように言う。
翼さんのお父さんには昨日の夜会って、申し訳ないと頭を下げられた。大の大人に頭を下げられたのは初めてのことで、慌てふためいた。
『か、顔をあげてください!私は謝られるようなことされていません!』
『いや、しかし…。春花さん、と言ったね?』
『は、はい』
『バカ息子が迷惑をかけたことを承知の上で言うが、君は素性の知れない人間を泊めるなんて、一体どういう神経をしているんだ?若い娘さんが素性の知れない人間を一週間も自分の家に泊めるなど…。すまないが身分証明書など持っていないだろうか。君をこの家に泊まらせるには、君という人間を少しでも知っておきたい』
…私。疑われているんだ。
それはまあそうだ。翼さんのお父さんにとって、私はどこぞの馬の骨とも知らない女子大生。翼さんがこのようなお金持ちだったことを知っていて、取り入ろうと翼さんに親切して、何か悪巧みをしているのかもしれない、と危惧されるのは当然のことだ。
…わかるけど、人から疑われるのは、悲しい。
しゅるしゅると気持ちがしぼんでいく。
すると、翼さんの舌打ちが割り込んできた。
『あのさあ、何コイツ疑ってんの?ほんっと父さんって、時間を無駄に使う時あるよね。一週間近くいれば、俺の観察眼持っていたらコイツがどういう人間がわかるよ。春花に変なこと言わないでくれる?』
私を庇うようにして、翼さんはお父さんと私の間に入ってきた。そんなに大きくない背中が大きく見える。よく見えないのだけど、多分、翼さんはお父さんと火花を散らし合っているのだろう。
私を守ろうとしてくれているんだ。
強張っていた体から力が抜けた。
冷静に二人を見ると、お互いよく口がまわっていて、言葉の撃ち合いをしている。
ああ、親子なんだなあ。
ふふっと笑みがこぼれる。
『…なんで笑ってんの、お前』
翼さんが振り返って、不思議そうに、私を見ていた。
『親子なんだな、って思ったんです。口調は似ていないんだけど…マシンガントークなところが、そっくりだなあって』
『『…は?』』
被った。この男の人と、翼さんは、親子だ。まぎれもなく。
『翼さんのお父さん。こちらが私の学生証です。保険証もよかったらどうぞ』
鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている翼さんのお父さんに近づいて、学生証と保険証を重ねて差し出した。翼さんのお父さんは少し間を置いてから、受け取る。近づいてみると、一見翼さんとあまり顔立ちが似ていないように見えるが、眉毛の形とか、耳の形が似ていることに気付いた。
『…なにか私の顔についているか?』
『あ、すみません。…翼さんのお父さんなんだなあ、って思っていたんです』
そう言って、私は微笑んだ。
「お前って、意外と男を落とす才能あるかもね」
唐突に翼さんからそんなことを言われて咽た。
「ゴホッ、ゴホ…ッ。は、はい…!?」
何を言い出すんだ、この人は。翼さんは窓に肘を置いて、頬杖をつきながら横目で私を見る。
今私と翼さんは車で移動中だ。車のメーカーには詳しくないのだがこれが良い車だということはわかる。椅子が私のベッドよりもふかふかしている。
「昨日の父さんとお前の会話思い出してさ。藤村にも気に入られてたし」
「ええ、そんな…」
「ぶっちゃけさ、お前顔は微妙だと思ってたんだけど」
ぶっちゃけすぎです、翼さん…!
「そうやって、化粧とかちゃんとしたら、普通にすっげえ良いし」
翼さん。不用意に、簡単に、私を褒めないでください。
あなたの言葉ひとつで、私はいとも簡単に、翻弄されてしまうんです。
照れ隠しのために、私は笑い声をあげた。
「あ、あはは。そうですかー。それじゃあ、これからは、」
続きの言葉は『翼さんの前で、きちんと化粧しようっと』と言う予定だった。けど、言えなかった。気付いてしまった。
翼さんは、もう、私の家には帰ってこない。
帰ってこないどころか、もしかしたら、もう会えないのかもしれない。
翼さんはサッカー選手で、私はただのそこらへんにいる女子大生のうちのひとり。
本来なら、こんな、私が手を伸ばしたら触れられるような人ではないのだ。
「春花?」
「ひゃ、ひゃい!!」
「ぶ…っ、なんだよっ、ひゃいって…!ははっ、あははっ!」
どうやらツボに入ったらしい。翼さんは声をあげて楽しそうに笑う。
「ついたよ。ほら」
一足先に車から降りて、私に手を差し出してくる翼さん。
この手に触れられるのは、あと何回なのだろう。
私と翼さんは翼さんのご両親よりも一足早く、会場に着いた。翼さんのお母さんが、もう少し化粧するから二人は先に行っておいて、とのこと。スッピンでフルメイクした私よりも断然美人なのだからそんなに時間をかけてしなくてもいいのではないかと思ったけど、それは私と翼さんのお母さんの洒落っ気の違いなのだろう。
玲さんがいる控室へ、私達は歩いていく。翼さんの口数がいつもより多かった。緊張している自分を隠すために、口数を多くしているのだろうということが、なんとなくだけど、わかった。
控室の前に立った。
「玲、入るよ」
「どうぞ」
ドアノブを捻ろうとした時、翼さんの手が一瞬躊躇したかのように思えた。けどそれはほんの一瞬で。翼さんは勢いよくドアノブを回した。
ガチャリという音と伴に現れたのは、純白のウエディングドレスを身に纏った玲さん。
息を呑んだ。
こんなに綺麗な人、初めて見た。
元々、玲さんは美人だけど、ウエディングドレスを着て、幸せそうに微笑むさまは、女神のように綺麗で神々しい。いつもより尚一層、綺麗だった。
「綺麗です…!玲さん、すごく綺麗です…!」
私は小走りで玲さんに近づいて、素直な感情を、玲さんにありのままに伝える。玲さんは、ありがとう、と相好を崩した。
「…翼?どうしたの、そんなところでぼうっとして」
玲さんはドアから微動しない翼さんを訝しがるように声をかけた。呼びかけによって、翼さんはようやく我に返ったようだ。
「あ、うん」
でも、その顔はまだ浮世離れしていて。
…リアクション、できないんだ。
玲さんが、綺麗すぎて、うまく反応できないんだ。私の目から見ても、玲さんは息を呑むほど綺麗で、綺麗すぎて、吃驚した。
翼さんなら、私以上に驚いて、反応できないのも仕方ない。
だって、翼さんは玲さんのことが、好きなんだから。
「私、ちょっとお手洗いに行ってきます」
そう断ってから、私は控室を後にした。ドアにもたれるようにして寄り掛かる。
心臓の奥の奥の方が、針が刺さったかのように痛くて、痛すぎて、じわりと目尻に涙が浮かんだのけど、せっかく施してもらった化粧を崩す訳にはいかないので、唾を飲み込んでから、涙を引っ込めた。
あんな豪邸に住んでいるお金持ちの人なのだから、ものすごい式を挙げるのだろうと思っていたのだけど、こぢんまりとした質素な式だった。マーメイドドレスを着こなして、背筋をまっすぐにのばしてバージンロードを歩いている玲さんは惚れ惚れするほど美しかった。玲さんのお父さんから腕を離して、新郎さんに向かい合うようにして立つ。幸せそうに頬を染めて、新郎さんを見つめていた。ちらりと隣の翼さんに視線を向けると、彼は真っ直ぐに玲さんを見ていた。新郎さんは玲さんのミドルベールをそっと大切なものを触れるようにめくった。
言葉も出なくなるくらい、見とれちゃうのに、それくらい、大好きなのに。ずっとずっと好きだったって言っていたのに。
翼さん、いいの?
式は誓いのキスまで進行していた。
ちらり、ちらりと、翼さんを何度も見る。何度見ても、翼さんは玲さんをじっと見据えたまま。翼さんが玲さんを見ていない時なんて瞬きをした瞬間くらいだ。
新郎さんが玲さんに顔を近づけて、玲さんがそっと目を閉じた。
新郎さんはとても良い人だ。私が式に参加することになっても文句を言うどころか、『翼くんの恩人なら大歓迎だ』と快く言ってくれるようなおおらかな人。才色兼備な玲さんの結婚相手にぴったりだ。
でも、恋心というのは。相手が幸せになるからと言って、自分も幸せになれるようなものではない。自分の力で、相手を幸せにしたいと思う。翼さんみたいな勝気な人なら、好きな女性の幸せを他人に委ねるなんて、プライドが許さないだろう。
なのに、あなたは。
真っ直ぐに、見据えるんですね。
好きな人が、遥か遠くへ行ってしまう瞬間を。
唇と唇が重なろうとした時、私は、何故だか、どうしてそう思ったのか自分でもよくわからないが、翼さんの指を掴んでしまった。
…え。
わ、私何を…!
慌てて離そうとしたが、翼さんが私の指に自分の指を絡ませてきたので、それはできなかった。
不思議に思って、翼さんを見上げる。けど、彼は見据えたまま。しっかりと、見据えたまま。
でも、瞳は揺らいでいた。ほんの少しだけ。
誓いのキスは、私が翼さんを見ている間に、いつのまにか終わっていた。幸せなムードで会場が満たされていく中、私と翼さんだけ、まるで他の国にいるような、世界の隅っこにひっそりと立っているような、そんな不思議な心細さを感じた。
ぎゅうっと手を握らしめられる。まるで、迷子の子供みたいだ。
『翼さんはきっと君を拠り所にしている』
風祭さんの言葉が頭に浮かぶ。
拠り所にしてください。背中を預けてください。
迷惑かけた、って翼さんは思っているそうですが、迷惑だなんて、私はちっとも思っていません。
だから、迷惑かけてください。
私は、あなたに、迷惑をかけられたいんです。
頼ってください、必要としてください。
そう想いをこめて、私は、翼さんの手を握り返した。
シック・シック・ラブ
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