長編 | ナノ

 透明な微熱(伊東+妙)


「濡れるよ」

妙の顔の横から黒い影が伸び、すっと窓を閉めた。その影が誰かの腕だと気付いたのは、窓ガラスにクラスメイトが映りこんだからだ。

「伊東くん」
「降ってきたね」

そう言った伊東とガラス越しに目が合って、妙が曖昧な笑みをこぼした。

「今日は委員会?」

そう話しながら伊東が隣側の窓を閉めていく。

「うん」
「大変だね」
「そうでもないよ。今回は山崎くんが頑張ってくれてるから」

伊東らが在籍するこの高校は、荒れているわけではないが問題児の多さと自由な校風のせいで小さなハプニングには事欠かない。なので教師だけでは対応が追い付かず、小さな問題なら生徒まかせということも少なからずあるのだ。

「今回はなに?」
「体育館裏で子猫を飼っていた人物を特定して、その猫ちゃんの貰い手を捜してくれって」
「それで山崎くんが張り込んでるわけだ。雨なのに大変だね」

ここに来る途中で用具室の影にしゃがみ込む山崎を見かけた。ちょっとした悪戯心で寝そべる背中を通りすがりに踏んでみたのだが涙目で何かを訴えかけてくるだけで叫び声一つあげなかったことを思い出す。張り込んでいるなら周りに存在を知られてはならないのだろう。無言で痛みに耐える彼を放置したまま場を離れたのは正しい判断だったようだ。

「志村さんはまだここにいるの?」

全ての窓を閉め終えた伊東が自分の席へと向かう。一番後ろ、窓際から二番目。

「もうちょっとね」
「そう」

妙が一人になりたいのならそれを邪魔する権利も義務も伊東にはない。読みかけの文庫本や黒いペンケースをカバンにしまい、帰り支度をすませていく。
静寂の隙間をついて、不意に名前を呼ばれた。

「伊東くんは、誰かに嫌われたいって思ったことある?」

ゆっくりと顔を向けた伊東の目に妙の後ろ姿が映る。すっと伸びた背筋はいつもの彼女らしくて、でも、窓ガラスに添えられた手が微かに震えているように見えて、伊東は目を伏せた。

「どうかな。嫌われても構わないとは思うけどね」

ふっと伊東の顔から表情が消える。

「自分の思考や行動の結果誰かに嫌われてしまうのなら構わないよ。それは仕方のないことだから」

そう、仕方ないと思う。
誰からも好かれたいという願望は大なり小なり皆が持つものだろう。しかしそれは最優先事項ではない。少なくとも伊東にとっては違う。誰からも理解され好意をもたれるなどあり得ない。だからといって自分を変える気など更々ない。それで嫌われてしまうのなら仕方がないと諦めるしかないのだ。

「伊東くんは強いね」

皮肉ではなく、本当に羨ましそうに妙が言う。頼りなげな細い肩が揺れた。

「・・・せめて、嫌われたかったな」

ガラスに張り付いた水滴が次々と流れ落ちていく。
小さな声が伊東にだけ届いた。きっと、この言葉を伝えたい人物は別にいるのだろう。でも彼女は言えない。言わない。ずっとこの思いを抱えたまま、泣けない彼女は涙と共にそれを忘れることもできない。

「―――志村さん、これから時間ある?」

一瞬の間のあと、振り返った妙が戸惑ったように頷いた。大きな瞳に伊東が映り込む。

「図書室で甘いものでもどうかな。キミの好きなアイスクリームの新作も揃えてあるよ。ああ、もう試してた?」
「ううん、まだ・・・だけど」

突然の誘いに妙が瞬きを繰り返す。伊東からこんなふうに誘われるのは初めてだ。

「図書室で食べるの?」
「冷蔵庫を置いてるからね」
「図書室に?」
「おかしいかい?」

そう真顔で尋ねる伊東。妙が驚いている意味が全く分からないようだ。そんな伊東の様子に妙が小さく噴き出した。

「おかしいわよ。だって冷蔵庫って」
「便利だよ」
「でも冷蔵庫だよ」
「安心して志村さん。冷凍庫付きだからアイスも大丈夫なんだ」
「伊東くんって天然だ」

目尻に浮かんだ涙を拭いながら妙が笑った。伊東は心外だとばかりに顔を顰める。しかし直ぐに表情を変え、再び帰り支度を始めた。

「一つ付け加えておくよ」

伊東の言葉に妙が顔を向ける。

「確かに嫌われるのは全く構わない。でも嫌われたいわけじゃない。だから、できればキミにも嫌われたくないな」
「・・・だから、誘ってくれたの?」

その問いには答えず、伊東は眼鏡の奥にある琥珀色の瞳を柔らかく細めた。聡い伊東のことだ、妙の心を揺らしている何かに気付いたのかもしれない。しかし伊東がそのことに触れることはない。肝心なことを口にしないまま与えられる遠まわしな優しさ。それが、今の妙にはちょうど良かった。

「・・・ありがとう。伊東くん」
「どういたしまして。じゃあ、行こうか」
「ええ。でも山崎くんには申し訳ないわね」
「別にいいんじゃない。それよりも、先日僕のプリンが勝手に食べられててね」
「あら。誰が食べたのか分かったの?」
「もちろん。犯人は僕の近くにいたよ」

楽しげな話し声が少しずつ遠くなっていく。
細やかな雨は静かに降り続いていた。



透明な微熱

2011.1.22

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