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弍の話


 目が覚めた時、隣には誰もいなかった。柱にかかる時計は五時を指している。昨日は全身に鉛を詰め込んだように重かったが、幾分かましになった体を引きずり指先で引いた障子戸の向こうには、夕焼けではなく高く抜けるような快晴の空がある。あれから一体どのくらい寝ていたのか。むしろあれは熱に浮かされて見た夢で、網膜に強く焼き付く燃える髪の死神などいなかったのではないかとすら思う。室内へ吹き込む風はそれでも多少の冷たさを感じさせるものだったため戸を閉めようとしたとき、板張りの廊下を踏み締める小さな音が耳に届いた。使用人として久世の家に住み込み働いてくれている女性が僕の様子を見に来たのかと思ったがそれにしては随分時間が早いし、何より板を踏む足音が重い。背に布団を乗せたまま肘でにじり寄り戸を押し開いて顔を出すと、そこには昨日見たあの男が立っていた。燃えるような赤い髪ではなく、青空には似つかわしくない闇夜に溶ける髪に、それと同じ色をした目の男だった。
「体はもういいのか?」
 低い声で男が僕に声をかける。これといって特徴があるわけでもないのに鼓膜を揺さぶるような強い響きがある。昨日と違い少し頭の冴えた僕は多少の緊張感を覚えながらも思わず首を縦に振った。
「は、はい。おかげさまで……」
「そうか。なら中に入れ。話をしよう」
 有無を言わさぬ口調で促されそれに従った。のろのろと体を起こして気持ちばかり夜着を整える。本当は布団から出て話を聞きたいところではあるが、病み上がりというか丁度まだ病んでいるというか、とにかく万全の体調ではないため少しばかりのだらしなさは許されたい。僕のあとに続いて部屋に入った男は後ろ手に戸を閉め布団の隣に座る。近くで見ると中々身長のある大男である。昨日見たのと同じ黒いスーツに黒いネクタイを締めた姿だが、張ったワイシャツの下には筋肉が隠れているのを伺わせる。歳の頃は三十の前半だろうか。薄暗く鋭い眼差しはどう見ても堅気の雰囲気ではない、というのが率直な感想だ。
「大神理人。……偽名だ。大神でいい」
「え、あ……はい。僕は、久世大翔と申します」
「聞き及んでいる」
 誰から、とは聞かなくても分かる。この家で全ての権限を持つのはいつだってお祖父様だ。男──大神さんは一度瞬きをして再び口を開く。
「回りくどい問答は得意ではないから率直に言う。俺はメカニック、有り体に言うと殺し屋だ。君の祖父に君の殺害を依頼され昨日ここに足を運んだ。依頼内容の詳細については話せないが、死にたくなければすぐにでもここを離れろ」
 頭の中が白くなるという感覚はお祖父様に死んでくれと言われた時以来だ。あれ以上に胸の内の冷たくなることはもうないだろうと思っていたが、聞き慣れない殺し屋という単語に加えて、いざ改めて、明確な殺意が自分に向けられたと知ると言葉が紡げなくなる。聞きたいことはいくつもある。この平和な国に殺し屋などという物騒な自由業が実際に存在しているだろうかとか、お祖父様が依頼した内容がどういったものなのだろうとか、昨日は本当に僕を殺すつもりだったのかとか。疑わしい気持ちもあれど、それでも僕の知らない人間が、お祖父様の許可を得てこの家の中を歩いているという事実に代わりはない。味わったことのない恐怖とも悲しみとも違う緊張感に乾いた唇を噛み、自然と力がこもる手で布団を握り締めた。長男である僕が生きている限り陽翔は嫡子になることが出来ない。いや出来ないことはないのだろうが、長男を差し置いて次男が家を継ぐなど、お祖父様が守ってきた完璧を冠する久世家ではあってはならないことのはず。それも長男が使い物にならないからという理由では到底許されるわけもない。だからこその殺し屋。長男がいなくなれば自然と嫡子は次男となるから、お祖父様はきっと、久世という家の名のため孫を手にかける覚悟を決めたのだろう。怖くもあり、強い方だと思う。同じ立場になったとしても、僕には決して選択出来ない手段だから。分かってはいたけど実際頭の中で整理すると、祖父に殺害依頼を出されるというのはつらいものがあった。俯いて、一呼吸おいたあと顔をあげる。大神さんは変わらぬ表情で僕のことをじっと見つめている。
「な……なるべく痛くない方法で、お願いできますか……?」
 かろうじてそう言った声はいつもに比べ殊更弱々しく掠れていたがこれが緊張によってのものか、はたまた体調不良がもたらす弊害なのかは分からない。僕だって痛いのや苦しいのは嫌なので出来れば苦痛の少ない方法を選びたかった。そう考えると熱に浮かされ意識が朦朧としていた昨日などは都合が良かったように思うのに、何故大神さんは依頼を完遂しなかったのだろう。具体的な日程や事故死、病死に偽造するためシチュエーションの指示などがあったりするのかもしれない。瞬きをする以外に動かなかった大神さんが口を開く。
「俺には君を殺せない」
 何故ですか、と聞くより早く次の言葉が紡がれる。
「君を美しいと思うからだ」
 何重もの意味で言葉を失った僕は無言のまま目の前の男を見るしか出来なかった。母の遺伝子を濃く継いだ僕たち兄弟は昔から中性的な容姿がゆえに、親戚の大人たちから可愛いだとか女の子みたいだとか言われることは少なくなかった。しかし面と向かって美しいと言われたのは初めてのことだ。何を言っているのだろうと思いつつ、少し照れてしまった僕は目を泳がせて言葉を探す。考えてみれば家族や親族以外の人間と言葉を交わすのも随分久々の感覚で、そういえば自分は他人と話す経験も乏しいのだなと気が付いた。
「……ありがとう。でも大神さんがもし本当に殺し屋だっていうのなら、僕を殺さないっていうのはダメなんじゃないのかな? ほら、映画や小説だと契約を結んだりするでしょう?」
 何となくそんな付け焼き刃の知識を披露してみたが、実はそうした単純なことこそ的を射ているような気もした。大神さんは顎を引き小さく頷く。
「契約はある。だがこちらの都合で破棄も出来る」
「え、そうなの?」
「ああ。クライアントを殺せばいい。あるいは別の依頼者からクライアントの殺害依頼を受ける。信頼関係の介入しないブッキングはより高額な依頼が尊重されるのが一般的だ」
「一般的って、そもそも殺し屋は一般的じゃないですよ」
 変なことを言う人だと思い僕は笑った。笑ったあと、それがまさに、お祖父様を殺害することで自分の殺害依頼を不履行にするという話をしていると気付き、すぐに頭からさっと血の気が引いた。引き攣った半笑いを浮かべたまま固まる僕を見つめたまま大神さんは話を続ける。
「君が選べる選択は三つある。いや、厳密には二つと言っていい。まず一つ目は君がこの家と名を捨てここを離れる。だがこれは……君の健康状態を見る限り現実的ではないだろう。
 二つ目は君の祖父、久世翔太郎の依頼通り君が俺に殺害される。そして三つ目は、君が俺に久世翔太郎の殺害を依頼する。以上だ」
 俺は三つ目を勧める、と大神さんは続けたが、僕の耳にはその言葉はずっと遠くに聞こえた。