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参の話


 僕が二十歳になった日から、大神さんは頻繁に久世家に出入りするようになった。聞けば数年前よりお祖父様に雇われ、外出先では常に行動を共にしていたらしいのだが、この家に根を張る僕は今まで大神さんを見かけたことはなかったので、これまでは邸に足を踏み入れることはなかったのだろう。僕がお祖父様と一緒に外へ出た最後の記憶はもう十五年近く昔のことなので彼の存在を知らなかったのも当然だ。彼はクライアントからの依頼内容は原則として一切開示しないらしく詳細な話は聞かせてはくれなかったが、考えるに、僕の命には一年足らずの猶予がある。じゃあ具体的に何ヶ月あるのかは推測の域を出ないので明言しづらいものの、何故そう思うかと言えば、それは弟の陽翔がまだ十九歳だからだ。先の五月に二十歳を迎えた僕とは年子である彼が、成人して正式に後継となるまでにはまだ一年と数ヶ月の期間があった。僕が今死のうが一年後の陽翔の誕生日を過ぎてから死のうが結果は変わらない。お祖父様からすれば二十歳となった陽翔を、正式な跡取りとして親族の前に顔見せする日までに僕が死んでいればいいのだから、僕がいつ死ぬかなんてことは些末な問題のはず。それよりも久世の名に傷が付かぬよう、確実に事故死、あるいは病死させる方を重んじるのではないかと思ったからなのだが、用もなくこの邸に足を運び僕と会話をして帰っていく大神さんを見るにこの推測は存外間違っていないように思う。彼は機会を窺っているのだ、きっと。僕が自然に、不慮の事故に遭う機会を。
 部屋に運ばれてきた旬の食材を用いた色鮮やかな朝食を口に運びはしたものの、五月も後半に入り、高くなりつつある外気温のせいか思ったよりも食が進まず、今日もまた半分ほど残してしまった。毎日おいしい食事を作ってくれる使用人の方には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだけれど、それでもどう頑張っても固形物が喉を通りにくい日が続いている。先日熱を出し寝込んでからというもの更に体力が落ち、物を口に入れ、噛み、嚥下するというただそれだけの作業にすら疲弊してしまっているのかもしれない。せめて謝罪だけでもしたいと思い食器を下げようとお膳を持ったまま部屋を出たところ、陽の差さない薄暗い廊下で大神さんに遭遇した。太陽の日差しも強くなり時折は夏日を思わせる気温を記録しているというのに、大神さんは今日も変わらず黒いスーツに黒いネクタイをぴっちりと締めている。見ているこちらが暑くなりそうだが、本人は何も感じていないような、いつもと同じ表情の読み取れない無表情である。
「おはようございます、大神さん」
 黙ってすれ違うのも失礼なので会釈をしながら挨拶をした。
「ああ、おはよう。……どこへ行く?」
「朝食のお膳を下げに、台所に」
 手に持っているお膳を少し持ち上げる。言葉を聞くと大神さんは何かを考えるように視線を落とし、しかしすぐに真っ直ぐ僕の目を見た。
「使用人が回収に行くのでは?」
「あ、残しちゃったから……悪いなあって」
「体調が優れないのか?」
「え? あ、いや、体調は……普通、かな? 多分病み上がりで、ちょっと体力が落ちてるのかも。食べるのにも体力を使うから」
 苦笑いして言うと、そうか、と大神さんが呟いた。表情が変わらないし感情の読めない人ではあるが、僕のような人間が珍しいのか事あるごとに雨のような質問が降る。言葉数が少ないため定かではないが、彼の言葉の中に心配の色が含まれているように感じるのは気のせいではないと思いたい。大神さんの右手が僕の手から、半ば奪うようにしてお膳。引き剥がす。
「顔が蒼白だ、貧血で倒れるぞ。これは俺が持っていくから君は部屋に戻れ」
「ええ、でも……」
 そんなことも出来ないと思われたくなくて食い下がる僕の顔に突然大神さんの左手が触れた。僕のそれよりも大きな手はゴツゴツしていて皮膚が硬く、でも太陽の光を吸ったみたいにあったかくて気持ちいい。熱に浮かされた日にも触れたけれど、僕はこの人の手が好きだ。人懐こい猫みたいに、もっと触ってほしいと思ってしまう。顔に触れる手の平が右の頬を包み、顎の下、首に沿って移動する。
「……食後の体温にしては低すぎる。部屋に戻れ。謝罪の意は伝えておく」
 指先が耳を掠めて離れていくのを名残惜しい気持ちで見送りながら、僕は少し高い位置にある大神さんの顔を見上げた。僕を殺すためにここにいるはずの彼は今、この家の誰よりも僕の身を案じ、親切にしてくれる。もちろん父や母も優しいし、陽翔だって無愛想だが話しかければきちんと言葉を交わしてくれる。だけどこうして、久世の長男としてではなく、ただここに立つ何の取り柄もない僕と真正面から向き合ってくれるのは彼だけのように思えた。僕が勝手に彼に抱くこの親近感が抱いていい感情なのかは分からない。お祖父様からの殺害依頼を不履行とするため、自分に祖父の殺害を依頼しろと言われたあの日から僕は未だに答えを出しあぐねていたし、出来ることならこのまま全てを有耶無耶にしたまま、例え仮初めだとしても、安寧に身を委ね普通の人間と同じ生活を送ってみたいなどと思ってしまう。名家に生まれた出来損ない。それが僕だ。花壇に根を張る雑草のように間引かれる、そんな人生はやっぱり少しだけ悲しかった。
「久世くん、聞いているか?」
「……大翔でいいですよ。この家にいるのはみんな久世ですから」
 ぼんやりと眺めていたせいか訝しげに聞く大神さんに、僕はごまかすように肩を竦めてそう言った。大神さんはいつもと同じく「そうか」と短く呟いて僕の肩に手を置く。自室に戻れということなのだろう。普段あまり人と話すことがないくせに調子に乗って立ち話をしていたせいか少し疲れてしまった僕は彼のお言葉に甘えることにして、踵を返し、来た道を戻る。陽の光で暖まった廊下に出て、なるべく日が当たらぬよう影を踏みながら角を曲がろうと肩越しに振り返ったとき、お膳を手にした大神さんと目が合った。太陽の届かない廊下に佇む黒い人影は命を刈り取る死神のようにも見えたけど、その闇色の瞳の中に、優しい太陽の熱があることを僕は知っている。

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