夜のことについての話


「......鈴音」

「ん、どうしたの文則」



少し、グラついた声色だった。無理にいつもの声を出そうとしているといえば分かりやすいだろうか。とにかく裏返り寸前の声で名前を呼んできた文則の目は、ご飯の皿洗いも終わって手をパンパンと拭いていた私を制した。
上着とネクタイを外しただけのスーツはそろそろ脱いだほうがいいのではないかと思うが、彼にとって活動時間と就寝時間というものはきっぱり割り切ってしかるべき。らしく、せめてもう寝るか趣味しかすることない! というところまでは活動服であるスーツに属する姿でいたいのだという。いや、まあカレーうどんとかスパゲッティ関連を跳ねさせない限りは別段私に負担はかからないのだが、何分見た目が何とも格好良すぎるのだ。流石イケメン。旦那バカと言われても問題ないくらいには私は文則が好きなのだから別に問題はない。




「............」

「?」



無言で動かない文則。エプロン外したりしたいからちょっと待っててくれてもいいかと聞けば、短く謝って本やら仕事関係の書類やらがひたすらに並ぶ書斎擬きの部屋へと引っ込んでしまった。何だったんだ。
エプロンを所定の位置にかけて、わずかに残る手の水気を完全に乾かしきって、書斎に入る。床に座って目を閉じている文則の前に、何となく私も正座で座って様子を見る。あー高校時代はこれが常だったなぁ。今は正座にそこまで苦痛は感じなくなったが昔は酷かった。5分で歩けなくなっていたもの。



「文則?」



無言、もう一度名前を呼んでみれば、かすかに口が動くのが見えた。




「...お前は......



――――、――――...」



へ、なんてもう一回。何とも彼らしくない小さな声に、私は体を傾けて耳を澄ませた。大仰な身振りのせいで少々バランスがとりにくい。小さく、何かを呟く文則の声がして、なんとか聞き取ろうと体をさらに傾けた瞬間、唐突にひかれる腕。


引っ張り込まれて文則の鳩尾辺りに顔の側面をぶつけ、何故か抱き込まれるような体勢になっていた。ななななな何が起きた。




「う、うき、んさん?」



何となく、怖くなって久しく呼んでいなかった名称で呼んでみる。よくもまぁ私はこの怖いのに上段蹴りなどくらわしたものだ。



「お、おーい......」



いちゃつきたい。そんなキャラか? 単に抱きしめてみただけ。衝動で動く人間じゃなかったはずだから多分違う。なら、なんだ?



よい、しょと。文則の足を挟むように手をついて、ユルユルだった腕から脱却、固まった文則と視線を合わせてみる。あ、上目使い。



「盛っちゃったり?」



あれ、たわけ! って言われると思ってたのに、意外や意外、文則の反応は無言だった。



「そういう、話が出た」

「仕事場で?」



コクリと頷いて居心地悪そうにするのは本当に、あの男女のフシダラで締まりのないフセーレンアイを極度に嫌っていた彼かと一瞬考えてしまった。いや待てよ、女の子のバージンは結婚まで取っておくべき。って教えがあった気がする。つまりは? そもそもフシダラーって行為はまぁ、子供を産むために必要不可欠なものなわけで、なら夫婦という関係名をもつ今はフシダラではないのでは?




あ、



でも、



まさか、



手の出し方が分からんのかこの先輩。





一応、魔法使いではない。妖精でもない。ギリギリの年齢のこの方、高校生という色々多感な時期に恋人はおろか嫁まで決めて、浮気なんぞ許さぬといわんばかりの純愛(彼にとっては、だが)を向けてくれた彼のことだ。経験なんぞよくて本知識。悪くて知識ゼロ。え、誰かハウツー本ください。



え、あ、ううんと



「お前は経験があるのか」

「......ぎり、ないかな」



昔、おっさんに金握らされてどこぞの公園のトイレに連れ込まれて以来、かなーと適当な推測。まぁ、見た目的にだらしなく不純そうに見えたのだろうあと頭空っぽ。まぁブレザーとYシャツ全開にされて次はブラジャーだと手を伸ばしたそのおっさんは、次の瞬間目の前の彼に蹴飛ばされたわけだが。塾帰りとほざいたあの時の彼は驚くほど怖かった。どのくらいかと言うとヤンキーの集団には慣れきっていた私が泣く位には怖かった。




うーん、



「やってみる?」



寄る皺、この人はいい意味でも悪い意味でも破顔というのをしない。頑張っていつもの表情を保とうとするのだ。だから彼の本意が分からない。面白くない。正座の文則の上に跨るように座る。体の大きな文則の喉あたりに目線が来て、少しだけ上を向けば視線がかち合った。



「恥ずかしくはないのか」

「...まあ、それなりに恥ずかしいけどさ、それでも、」



それよりも嬉しいから、いいんだよ

呟いた声は途中でプチンとつぶされてしまった。重なる唇に驚きはしたが、重なったままクスリと笑えば艶声になって出てきた。ふわりと煙草の苦味が伝う。誘うように舌で少しカサついた唇を舐めてみる。し返された。あ、ディープキスすら知らんタイプや。どれだけ純粋なのか。彼だから許されるんだぞ。他の同年齢の奴がここまで無知な場合私は間違いなく、引ける。お前には義理人情が無いのかと言われかねんレベルに引くことができそうだ。



「...っい、き...いつやりゃいいんだろ......」

「...知らん」

「慣れれば出来るようになるかな」



触れるだけの口づけが1回、離れてコテンと文則の肩に頭を置く。


あ、



「ダメな日、で、通じないよね」

「分かるものなのか?」

「まあある程度は......うーん、なんて言ったっけ、保健体育はサボってたからなぁ」

「「は」ではないだろう」

「確かに...えっとね、あか...子供できるかもしれない日?」



確か2週間前がそうだって隅っこ知識を総動員する。分かってくれるかな



「排卵日か」

「たぶんそれ」

「問題はあるまい」

「......いいの?」




迷惑とか思わない? 仕事大変だからって断られたーなんて話を聞いたことがあって、結構な仕事人間の文則は大丈夫なのかと考えてしまった。




「何を躊躇う必要がある」




いいんだ。そっか、頷いてうれしくなってときめきだした胸を押さえる。



「なんか、楽しみだねぇ」

「一回で当たるとも限らんのだろう」

「やだもうさらって言ったよこの人」

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