目を伏せて笑うあの顔を、優しくなでる指先を、後どれだけ生を廻れば、この頭は忘れてくれるのだろうか。
丁寧に整えられた道の上を、矢鱈軽くて頑丈な靴で歩く。衣服は季節に合わせた薄さで、吹き抜けるような風が生地をすり抜ける感触と言うのは未だに慣れない。
自分には1800年ほど昔の記憶がある。普通は頭の正常不正常を疑うような言葉だが、真実なのだから仕方がない。
自分は特筆すべきものを持っていたわけでもないただの女で、三文小説にもならなそうな恋をして死んだ。病弱だったのだ。ボロボロの体を醜くやせ細らせ、寝台の上で届かない恋に涙を流していた女の一生を走馬灯のように見せられて、あ、この女は私だと思い出したのは何歳の頃だったか。
そして、1800年後の今、その恋の相手が目の前にいる
「なまえ殿、ですね?」
「覚えておられるのですか、私のことなど、忘れてくださればよかったのに」
断言に似た言葉の重みに、「誰ですか」と返す気にはなれなかった。どこで分かったのだろう。記憶がある素振りをいつかしてしまったのだろうか。
名門の出である荀イク様とは、自分が倒れるまで勤めていた城の書庫で出会った。目を伏せて笑う笑顔がとても綺麗で、人付き合いが不器用な私にも優しく接してくださった荀イク様に恋をして、そんな頃だったのだ。私が病に倒れたのは。
面会に来てくださった荀イク様を泣きながら追い出し、「もう来るな」と叫んで、3週間後に、死んだ。
「ずっとお会いしたかった........」
「お戯れを、」
なるべく無感情に言い放った。無意識に握った拳に、荀イク様の手が触れる。
綺麗な手だ。昔と違うのは墨の汚れがないことだろうか。ふと、自分の手にあの骨ばった土気色の幻覚が被さって、弾くように荀イク様の手から逃げた。
「っあ、も、申し訳、ありません」
癖、と言うか反射的に謝罪を口にして、腕を抱き寄せる。気にしていないと言うように目を伏せて笑う荀イク様。今度はしっかり掴まれたもう片方の手を、再び振りほどく勇気などない。
「なまえ殿、私は、貴方をお慕いしております」
歯ぎしりの音が頭に響く。頷いてたまるかと俯いた頭の先に、布の感触がして手にこもる力が強くなる
「ずっと、お会いしたかった、ずっと、こうして、想いを告げたかった........自分勝手は百も承知、ですが、もう.........っ」
最後は消え入りそうな声だった。おそるおそる、背中に回された手に、ゆっくり、確実に力がこもっていくのが分かった。
最後には息が詰まるほどきつく抱きしめられて、ただただ痛かった。
「二度と、離すものですか」
小さく、本当に小さくはいと返事をして、強張った体を荀イク様に預けた。