嬉しいや暖かいには、きっとどんな拷問だって勝てないだろうと、今分かった。





攻撃する気はないと、せめて伝えるために刀をイゾウのお兄さんの前に置く。体が思うように動かない。呼吸すら満足にできないのは、久しぶり、だと思う。
さっきまで耳をつんざくほどだった大きな笑い声も暖かさも何もないこの部屋が、まるで僕の心の中の様で、その中で小さく縮こまる僕は部屋の隅で丸まった薄汚い灰色の埃だった。
お兄さんの、言葉を待つ




「化け猫、なぁ」





突き放されるような声に聞こえて、無意識に肩が跳ねた。握りしめた手は白くなっていて、他に見るところが無くて睨み付けた膝の先辺りが、すうと冷たくなっていく。寒い、痛い、怖い。穴でも開いたような気分だ。体が動かない。なのに胸の中がどどどどと煩い。




頭の中で、“むかし”が、駆け回って、苦しい。





お願い、嫌だ。また、



また、ああなるのは、いやだ..........ッ










「アーシェ」

「――――ひっ」



唐突に、頭にぽんと置かれた手に出た悲鳴で、息が止まっていたことに気づく。アーシェ、アーシェ、ああ、僕の名前だ。小さく光るような温かさを思い出して、息ができる。あの人からもらったものが、ここにある。



「硬ェなぁ.........」

「ごめん、なさい.....」



謝っても、見上げてみても未だに降り続ける手に、心が間誤付いている様な、そんな気分になった。僕を撫でて、お兄さんはどうする気なんだろう。僕をどうするの。どうしたっていいよ。どうしたって、



本当に? 誰かが聞く。


本当だよ。今までだってどうだったじゃないか。



それで、今の僕は満足?



まん、ぞく?







「脅かしちまったか」

「.........ううん、だいじょ、ぶ」

「んな引き攣った声出されて納得できねェさ、悪かった。バラしゃしねぇし、どうこうしようって訳じゃねぇから、落ち着け」

「.........わか、た」

「よし、」



最後に強めに撫でられて、手が離れる。どうこう、しない? 本当に? にわかに信じられなくて、ぼけっと固まっていればお兄さんに鼻をつままれた。
どういうことだろう。僕はここにいていいって事かな。みんなを、お兄さんって、お姉さんって呼んでもいいって事かな。あの人の傍にいられるって事かな。あれ、僕は何でこんなことを考えてるんだろう。さっきまで、降ろされてもいいって、そう思っていたはずなのに。
お兄さんが、んじゃあ戻るかと伸びをする。温かい雰囲気のお兄さんは初めて見たかもしれなくて、うんと頷こうとした頭が、ずっとあやふやなことを考えていた頭が、ふと思いついたことをぼろりと口から零した。






「お兄さん、お仕事を、ください」








かちん、と、お兄さんが固まった。
僕の言葉は、少なからずお兄さんにとって驚きだったようで、しばらくした後に首をかこんと傾げて、すうとものを考えるような呼吸をした。
ぼんやり、靄のような思いだったそれが、形になって口から出た。この船にいる理由がほしくて、ただ可愛がられる生き物でいたくなくて



「お願いします、なんでもやる、あの人のために、何か、したい」

「あの人ってのは、マルコのことか」



頷けば、お兄さんは納得したようにはぁとぼやいだ。手がかりかりと顎を掻く。
迷惑、だろうか。何となくで言った言葉ではないにしろ、それでもさっきまで怪しまれていた僕の台詞ではない、気がしてきた。でも言葉を聞いてくれる人なんて初めてで、マルコさんの役に立つためにはここで是が非でも何かを掴みたい。
一心だった。



「その忠誠心や見事、って言いたいのは山々だがな、何でそんなにマルコが好きかね」

「すき」

「あーー.......大切に思ってるかってこった」



好き、大切。そう言う気持ちは、あの人に向けるべきものなのだろうか。いや、嫌いなんてことはあるわけもないし、大切、そう、たいせつだ。マルコさんのことを思うだけで指先がじわじわと暖かくなる。月色の髪を、海色の目を想うだけで、こんなに心が嬉しいでいっぱいになる。特別で、大切な僕の唯一。

そんな気持ちの故を何故かと聞かれて、思い出すのは、



ああ、そうだ。




だって、あの人は。








「僕に、触れてくれた」



そうだ、触れてくれた、引っ掻いたのに、汚してしまったのに。それでも僕を撫でてくれた。抱き上げてくれた。体を綺麗に洗ってくれたし、感情も、家族も、全部、全部



あの人が、くれた。



思い至って、ああそうかと納得する。心も、名前も、この姿も、僕を作る何もかもを、きっとあの人が新しく与えてくれたんだ。だから、せめてものお返しに、何かしたい。ううん、お返しじゃなくても、何か、あの人がくれた以上のものを、僕があの人にあげられたなら




そのまま漏れ出ていた言葉のままに、まとまらない思いを声に出せば、ややあってお兄さんは「そうか」と頷いた。
駄目、だっただろうか。足りなかっただろうか。





「なぁアーシェ、」

「ん、はい」

「その刀、お前のか?」

「うん、」

「戦えるのか」

「.......分からない」



その答えに、お兄さんの眉間に皺が寄った。怒ってるのかと思ったけれど、どうやら違うようでひょいと刀をとると、ぽおんと僕に投げて渡した。捕まえて膝に置いていれば、立ち上がったお兄さん。近くの箱から太い蝋燭を抜き出して、まっちを足でこすって蝋燭に火をつけた。



ああ、また息が止まっていたと、お兄さんの目がこっちを見ることで気付いた。
ゆらゆら揺れる、それ。



「火、怖ぇだろ」

「っ、はい、」

「それ、10日以内に直してこい。
やり方は好きにしていい、ここの蝋燭はつけっぱなしにしとく。んで、もし治せたら、」




そん時に、お仕事をやる





さあ走れ、話はそれからだ


prev back next