「えっと、お母さんに刺されたんですよね、ぐさって、20針縫っちゃいました」



さらりと惨劇を言ってのけた凛久を、法正は言葉の通じないリトルグレイでも見るような眼をしていた。












*    *    *










(しっぱい、だったかな)


浴場の隅っこで膝を抱えて縮こまり、鬱屈とした心を何とか抑えようとお湯の中で息を吐く。



何とか、明るくしたかったのだ。重くなってしまった空気に晒し続けるのが申し訳なくて、ここで無理やり軌道修正するとかえってさらに暗くなるのは目に見えていて、ならさらっと話せば空気も変わるかと思ったが甘かった。陳宮は固まり法正は目を見開いて、無言の時間が始まってしまった。着替えをもって風呂に直行したのは仕方のないことだ。






お腹がじくりと、地味に痛んだ。縫っても跡が残りますよと昔言われたところ。幸いにも内蔵に傷はつかずに、疼きと古傷だけ残したこの傷痕との関係もあまり長くない。小学5年生の時だ。懐かしいとありあり思い出すことができる。


泣きながら刃物を振り下ろす母、血塗れた廊下、夜の寒空の下をひた走る私





別に、あの事件がトラウマになっているだとかそういうのではない。ただ自分の様々を転化させる大きな事象だっただけだ。

孫権の言葉しかり、刃物嫌いしかり。








ブクブクブクブク・・・・



水中で大きく息を吐いて、しばらく沈んだままでいる。思い出したことへの恐ろしさでも何でもなく、凛久の心はただいらぬ鬱屈を背負わせてしまった2人への懺悔のみしかなかった。




恩返しも終わっただろうし好きな処へ行ってもいいのではと言ったら、自分の傍が居心地いいのだと言ってくれた陳宮と、

守ってくれて、泣かせてくれて、傍にいてくれて、自分のはた迷惑なお人よしにも付き合ってくれた法正。



もう一度、謝らねばなるまいと思い至る。正直これしか出てこない。悪癖と表現した法正の言はある意味当たっているのだ。




そのうち苦しくなって顔面を上げる。先ほどより幾分かすっきりした。まぁ、上がれば少し気まずいくらいの空気に戻っているだろうという期待を抱える。ザバリと風呂桶からでて、体を拭き終える頃には、普通の速さで歩けるくらいの心境に戻っていた。































「ただいまもどりま・・・――――



「退いてくれませんか・・・法正殿」



言うか言い終わらないかの刹那、冷え切った声が湯上りで温かい体を一気に冷やした。指先が冷たい。半開きになったドアを閉めて、声のする部屋のドアを開ける。じっとりとした夏の風が半乾きの髪を揺らした。




「お前が何処で何をしていようと俺は心底どうでもいい、だから知っていることを話してから行けと言っている」

「徐庶殿は恩人、恩人なれど此度は看過できませぬな・・・何故、貴方が凛久殿の母君を恨んでおられるのか」

「・・・・あんな女、一生目覚めなければよかったんだ」



どこか遠くを睨み付け、今にも走り出そうとする徐庶の前に立ち塞がる法正と陳宮。法正の布が徐庶の片腕に巻き付いていた。3人とも凛久に気づいていない。なぜ徐庶がいるのか。なぜ先程よりも空気が悪化しているのか。現状把握ができずに立ち竦む凛久の目に、徐庶の握りしめた物が目に入る。




白色の電灯に照らされて、鈍く光るもの




ガタンッ


戸棚に激突しながらもへたり込んで怯えた表情を浮かべる凛久に、ようやく気付いた3人が動いた。逸早く剣を消して数歩離れる徐庶、近づいた陳宮に小さく謝り、手をつかんで引っ張り起こした法正にも謝罪する。



「状況がよく、分からないんですが・・・」

「簡潔に、簡潔に申し上げますと徐庶殿に凛久殿の母君が目覚めたと話したところ血相を変えて武器を持ち出したので2人で止めておりました。」

「あ、ありがとうございます・・・・えっと、徐庶さん」



治さなければならないトラウマはこっちの方かと、びくびくと情けなく震える手を握り締める。鬼ごっこと称された日課しか徐庶との思い出はない。助けたのは1回だけ。他に徐庶に会ったことがあっただろうかと探る。罰が悪そうに視線をそらして、フードを深く被る徐庶



「話、していいですか?」










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線路は続くよどこまでも。乗ってる人の意思なんて関係なしに。


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