正しいベッドの使い方

「……ねぇ、」

スルリと、自分の頬から滑り落ちて行く手を掴んだ。
ぐったりと動かない彼女の手は、まだあたたかい。
まだ、……まだ?
このあと、冷たくなっていくとでも言いたいのだろうか。

「ねぇ、」

ぺちりと、彼女の頬を叩いた。さっき何度も何度も、力任せに叩かれた彼女の頬は、赤く腫れている。
手袋を外し、そっと彼女の口元にかざした。呼吸を、感じられない。

「……っ」

僕は、何をしているのだろうか。何故、こんな気持ちになるのだろうか。胸が苦しい。この気持ちはなんだ。
わからない。わからないが、彼女を助けようと動いている自分を、止められなかった。
仰向けに寝転んでいる彼女を、横向きに変える。あらわになった背中を何度も、何度も叩いた。
ガクンガクンと、手の動きに合わせてシオリは動く。それでも、目を開けない。呼吸をしない。
起きろ、起きろ、と心の中で叫んだ。
何度目かわからない。もうダメなのか、と諦めかけた時、彼女の手がピクリと動いた。
次いで、

「!、はっ、ゲホッゲホッ、はっはぁっはぁっ」

激しく咳き込み、荒く呼吸を始めた。その様子を見て、ひどく安堵している自分がいた。
自分で手をかけたというのに。何を必死になって、助けようとしているのだろう。
ただのおもちゃに過ぎないのに。利用できるかもしれない、不思議な力をもった駒に過ぎないのに。
頬に触れた手が、優しく、あたたかかっただけで、何故──
よくわからない感情が入り交じり、混乱している僕の前で、彼女はゆっくりと目を開けた。

「ぅっ……いた……」

叩いた背中が痛むのだろうか。開口一番そう呟き、ふらふらと視線をさ迷わせ、その先に僕を捉えた。
僕はいったい、どんな顔をしているのだろう。顔中の筋肉が言う事を聞かない。ただ、彼女は僕を見て、力なく、笑った。

「ほん、と、……子供……」

でも、と言葉が続けられる。

「助けてくれて、ありがと……」

そう言うと、再び目は閉じられた。今度は規則正しく、呼吸が繰り返されている。
僕は座り込んだまま、動くことができなかった。
彼女の言う言葉の意味がわからなかった。「子供」も、「ありがとう」も。
少なくとも僕は、シオリよりも大人だ。地位も、力も、なにもかも、彼女に負けることは無いだろう。それに、僕は今、確かに彼女を、殺そうとした、のに。
何故、感謝をされたのか、わからなかった。




ふと目が覚めた。今は何時なのだろう。
カチカチという音を頼りに時計を探す。朝4時。
電気がついているため、昼間なのかと思ったのだが、そうではないらしい。
ヴィンセントが帰ってきたのは夜だったから、あのままこんな時間まで眠ってしまったのか。
体中が痛い。やっぱり、あれだけ暴力を受けた後に床で寝るのは……

「……?」

床?床は、こんなにも柔らかかっただろうか。床はこんなにも、あたたかかっただろうか。
違和感を感じ、さわさわと自分が寝ている場所を触ってみる。
押せばぎしりと音を立て、叩けば程よい弾力に押し返された。

「ベッド……?」

思わず呟いた。
普段は床に転がって寝るというのに、何故私はこんなところで寝ているのだろう。
その事実に気づき、まずい。と1人青ざめた。こんなところが見つかれば、間違いなく彼の怒りを買う。
私の分際でベッドを使っているんじゃないと、また手をあげられるなんてたまったもんじゃない。
久々の暴力に、体が無意識のうちに柔らかいベッドを欲したのだろうか。記憶にはないが、いずれにせよ、とにかくこのままではまずい。
そう思ったのだが、ふと動きをとめた。
朝4時に私がこのベッドにいるとなると、彼はいったいどこで寝ているのだろう。こんな時間に部屋を空けるだろうか。共に生活をしていく上で気づいたが、彼は睡眠がとても好きなようだったのに。
こんな早朝に、彼が寝ていないはずがない。でもそれなら、どこにいるのだろう。

「まさか……」

いやいや、それこそありえない。と私はその考えを否定した。
まさか彼が床で寝るなんてことはしないはずだ。
天と地がひっくり返っても、私をベッドに寝かせて自分が床で寝るなんてこと、するはずが無いし、する理由もない。
でも、もしかして、万が一のことを考えて念のため。念のために確認だけしておこう。
そう思い、そろりとベッドの下を覗きみる。

「……」

案の定彼はいない。
それでは反対側はどうだろうか。

「……っ」

と寝返りをうってみれば、目と鼻の先に彼がいた。
思わず出かけた悲鳴を、両手で口を抑えて飲み込む。
これは……これはどういう状況なのだろう。
ヴィンセントの偽物だろうか。それにしてはよく出来すぎている。
規則正しく寝息を立てているその男は、間違いなくヴィンセントだった。
なぜ、どうして、こんなことに。
あまりに体が痛いからと言って、彼が寝ているベッドに潜り込むなんて、そんな馬鹿げたことをしてしまったのだろうか。寝ぼけているにしてもやっていいことと悪いことがある。
見つかったらさらに痛い目に合わされるに違いない。どれだけ過去の自分を戒めようと、やってしまったものはどうしようも出来ず途方に暮れる。
幸い彼はまだ寝ているようだし、気づかれないうちに床へと戻ればなんとかなるだろうか。

「……」

そおっと、そおっと、ベッドの端へと移動する。
なるべく音を立てないように。細心の注意を払って……

「〜〜っ!」

その時、まるで計算したかのように腹の虫が鳴った。
思わず音の原因である腹を力いっぱい殴ってしまい、それによって出かけた悲鳴も飲み込む。
思わぬ二次災害に自分の愚かさを恨んだ。
そういえば、昨日の夜はあの一件があったため、ご飯を食べ損ねていた。お腹が空くのも仕方の無いことだろう。
とはいえ今は空気を読んでくれないだろうか。私のお腹さん。

「……」

恐る恐る後ろを振り返ると、彼はまだ眠っているようだった。睡眠好きな人で本当によかった。とほっとしてから、もう一度移動を開始する。
シーツの擦れる音さえをうるさく感じるこの状態で、最新の注意を払いつつそろそろと動く。
あと少しだ。と足を床へとおろそうとしたその時、

「何してるの?」

「!」

声が聞こえて身体中が固まった。
ギギ、とまるで機械人形のように振り返ると、彼が寝ぼけ眼でこちらを見ている。
終わった。再度暴力の嵐に見舞われる。そう思ったのだが、

「あんまり動かないでよ。うるさい。」

そう言って再び目を閉じた。
死を覚悟していたのだが、これはどういうことだろうか。
でも、これはラッキーだ。寝ぼけているのか彼は私の失態に気づいていないらしい。
しばらく様子を伺い、また規則正しい寝息が聞こえてきたところでもう一度行動にうつした。
片方の足が床へと着いた。よし!と思ったその矢先、首根っこを掴まれ、あろう事か再度ベッドへと引きずり込まれる。

「ちょ、ぅっ」

訳が分からず目を白黒させる。よほど寝ぼけているのだろうか、彼は。
そう思い、ヴィンセントに目を向けると、思ったよりもずっと、しっかりと私を見ているものだから、驚いて身を固くした。
至近距離でじっと見つめられている様子は、さながら、蛇に睨まれた蛙だろうか。

「聞こえなかった?大人しくして。」

「……」

「さっさと寝て。」

「……」

「返事。」

「は、はい……」

終始、彼の言うことが理解出来ず、私の頭の中は疑問符のオンパレードだった。
返事を促され、なんとか頷いた私に満足したのか、彼は再び眠りについた。
腑に落ちない。まさか、彼は私がここで眠ることを了承しているというのだろうか。その上で、私はここに寝ているのだろうか。突然なぜ。

「……」

まぁ、いいか。
あまりの出来事に空腹もどこかにいってしまったらしい。
体が痛く、床で寝るのは辛いところがあったので、これはこれで好都合だ。ここは大人しくベッドで寝させていただくことにしよう。
なんといっても、彼のベッドはとても大きい。ヴィンセントが半分より左側に寄って寝ているせいで、本来使用出来るベッドの範囲よりはスペースは少ないけれど、それでも十分だ。なんと言っても上質でふかふかのベッドなのだから。
私は久々の柔らかな寝床を嬉しく思いながら、もう一度目を閉じた。






[ 4/38 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -