ファーストキス
「……ん、んん!?」
目が覚めてすぐ、少女は体の違和感に気がついた。
体がうまく動かないと思えば、その両手足は布でしっかりと固定されていた。
ダメ元でもがいてはみるが、もちろん一般人である彼女の力では外れるはずが無い。もがけばもがくほど、手首に布が食いこみ、ただただ痛みが走るばかりである。
しかし、
「痛い……
わ、私、生きてる……」
痛みを感じることに感謝する日が来ようとは思わなかった。自分の身体の正常な反応に安堵しながら、だがすぐに自分の置かれている状況に身震いした。
部屋はひと悶着あった場所と変わってはいないようだ。
だが、自分がめちゃくちゃにしたと思っていたものは、綺麗に元どおりになっている。
そして服までも、真新しいものになっていた。恐らくこの世界の服。
いったい誰が着替えさせたのか、考えたところで自分の裸を見られてしまったかもしれないという羞恥心しか湧かず、慌てて頭を振った。
今、この部屋にあの狂った男はいない。だが、すぐに帰ってくるのは目に見えていた。
だからこうして逃げられないように縛られているのだ。
男が戻ってきた時が、自分の死に際に違いない。
「私、ここで死ぬのか……」
そして、壮絶な人生であったと、少女は1人うなだれ、「いや、でも!」とすぐに顔を上げた。
足掻けるところまでは足掻いてやろう。そう思い立ったのだ。
もぞもぞと身をよじり、なんとか上半身を起こす。
ベッドの段を利用して立ち上がると、ぴょんぴょん飛び跳ねてドアの前まで移動した。
くるりと後ろを向いて、わずかに動く指先でドアノブを回そうとしたその時、
「わ!?」
「あ、いたの?」
ガチャリとドアがあいた。内開きだったドアは無情にも少女の体を押し倒す。
両手を縛られているためろくに受身も取れず、少女は顔面から床へと激突した。
戻ってきた男は、あまりの痛みに声を出すこともできず、悶絶している少女ににべもない。
手に持っていたものをテーブルに置くと、未だ激突した体勢のまま動かない少女をひょいと抱えあげた。
「痛い……」
「だろうね。
それより、あんなところにいたのは、逃げようとしたからだって考えていいんだよね?」
「……っ」
その問に、少女はびくりと体を震わせる。
図星だ。否、あの状況でわからない方がおかしい。
だが、こうなることを承知で行動に移したのだ。少女は覚悟を決めて頷いた。
「へぇ。素直だね。
その心意気だけは認めるよ。」
「私を殺すんですか。」
「考え中。」
男は楽しげにそう言うと、少女を床へと放り投げる。今度は背中から着地したが、それはそれで変わらず痛い。
転がったまま男を睨みつけると、その目の前に皿が突きつけられた。
そこには骨のついた鶏肉が1本、無造作に乗せられている。
味付けなどはされていないのだろう。申し訳程度に火が通してあるのみだ。
理解出来ずに、再び男を見上げる。
すると、
「よし。」
「……」
男は肉を指差し言った。
まるで犬の躾のようだ。と他人事のように少女は思う。
怪訝そうに見上げてくる少女に、男はつまらないとでも言うように肩をすくめて見せた。少女の前にしゃがみこみ、皿をぐいと突き出す。
「ほら、君のえさだよ。
いらないの?ほら、ほら。」
コン、コンと少女の目の前の床へと皿を打ち付ける。
「まるで犬の躾のよう」ではない。コイツは少女のことを本気で犬のように扱っているのだ。馬鹿にしたように。
少女は怒りで震えた。男が信じられなかった。
コイツは人を、生き物を、なんだと思っているんだ。
掴みかかってやりたかったが、両の手は動かせないためにそれは叶わない。否、仮に体が自由であっても、この男には敵わないのだろう。だったらせめて、と少女は思い切り皿から顔を背けた。
「ホントに、君は躾のしがいがある。」
その途端、嬉々とした声が聞こえ、顎をつかまれたかと思うと、無理やり口をこじ開けられ肉をねじ込まれた。
「ぅっ、ゲホッおぇ……っ」
食べさせようという気などありはしない。力任せに押し込まれた肉は喉の奥を突き、少女は嘔吐いた。
必死に逃れようともがくが、男の手はどこまでも追ってくる。
その表情はまるで子供のように無邪気であり、そして、狂気を含んで笑っていた。
「ぇぐっ、ぅえっ、がッ、ひっ」
生理的な涙が、少女の頬を伝った。
何度も何度も嘔吐いていたので、涙が溜まり、溢れ出る。
それに気づいた男がようやく手を止めた。
肩で息をする少女。もう抗う力は残っていないのか、ぐったりとしている。だが、目だけはじっと男を睨みつけていた。
それを受け止めても尚、男は少女に笑顔を向けた。少女の前にしゃがみこみ、手を伸ばす。少女の体がびくりと震えるのを確認すると、さらに笑みを濃くした。
「……っ、?」
先ほどとはうってかわり、男の手は優しく少女の頬に触れた。
男の親指がすっと目尻を這い、溜まった涙を拭う。
そのまま手は顎へと滑り降り、クイと少女の顔をあげた。
そして、
「殺して欲しい?」
まるで愛を囁くように、そう尋ねた。息を呑む少女に、尚も尋ねる。「殺して欲しいか」と、何度も。
その瞳は愛情すらも感じさせた。
だが少女は、決して男のペースに飲まれることはなかった。一瞬呆けたものの、すぐに顔を引き締めると、残った力を振り絞って男の手から逃れた。その拍子に今度は頭を床へと打ち付けたが、構わずすぐに男を睨みつける。
「あなたに殺されるくらいなら、今ここで舌を噛み切って死にますっ」
ぱちくりと目を瞬いた男は、ため息交じりに、
「へぇ、そう。
つまらないなぁ。でも、おもしろい。」
そう言い、おもむろに立ち上がると、ハサミを片手にぬいぐるみを掴み、その、腹へとハサミを突き立てた。
ビリビリと音を立て、ぬいぐるみの布は割かれていく。中から綿が溢れ出し、静かに床へと落ちた。
少女はその光景を、ただ黙って見つめている。
「もっと、もっと、恐怖に体を震わせてよ。
泣いて、喚いて、暴れて、生を乞えばいいのに……」
だから、と男は少女を見下ろした。
「君はすぐには殺さない。
それに、不思議な力まで持ってる。
今ここで手放すのはおしいからね。」
そう言って、男は再び肉を少女の前へと突き出した。
「毒は入ってないよ」と少女の考えを読み取り言う。
その言葉に嘘はないのだろう。現に、あれほど口に突っ込まれたにも関わらず、少女は自信の体に違和感は感じなかった。
だが、だからと言ってこの男から与えられたものに飛びつく気にはなれなかった。
空腹など少しも怖くない。そう思った矢先、少女の腹の虫は、盛大に鳴いた。
「……」
「……」
2人を沈黙が包む。みるみる赤くなっていく少女に、男は小さく吹き出した。それもそのはず、少女は気絶してから丸3日眠りこけていたのだ。
その間何も食べていないのだから、腹も空く。
「さっきも言ったけど、殺すつもりはないから、飢え死にされても困るんだよね。
少しでも食べてよ。」
「……」
それでも少女は頑として肉から顔を背けた。
それを見た男は、仕方がない。と呟くと、その肉を1口齧った。
自分で食べるつもりなのだろうか。こんな狂った男にも、もったいないという概念があるのだろうか。
少女はそう思っていたのだが、
「!、えっ、ちょっ、なに、んぅ!?」
ぐいと胸ぐらを捕まれ、引き寄せられたと思うと、男の唇が少女の唇に押し付けられた。それを理解する間もなく、男によって噛み砕かれた肉が少女の口の中へと送り込まれる。
舌でぐいと奥まで押し込まれ、いやがおうでも飲み込まされた。
「っ、ゲホッ、うそ……っ」
少女の顔はみるみると赤なっていく。
フルフルと震え、目にはうっすらと涙が溜まっていた。
「ファーストキスだったのに……」
絶望したように呟き、自分の唇を全力で床へと擦り付け始めた。
その必死な様子に、男は驚いた。
自分より床とのキスの方がいいのか。
もちろん、こんな裏の部分を見せていないからというのを最前提としてだが、女性にキスをして拒まれたことなどなかった。
とはいえ、少女に拒まれたところで苛立つ訳でもない。と言うよりも、女性に受け入れられようが、拒否されようが、興味はない。という方が正しいだろう。
ただ、これは使えると、確信した。
「ねぇ、君、名前は?」
「絶対、教えません……っ」
拒まれることは目に見えていた。
だからもう一度肉に齧りつこうとすると、
「あっ」
少女が慌てたように叫んだ。
ん?と首を傾げ、少女を見れば、たいそう悔しそうに顔を歪めながら、小さく小さく名前がつぶやかれる。
「なに?聞こえない。」
「……です。」
「聞こえない。」
「シオリです!」
半ばやけくそのように、少女は自分の名前を吐き出す。
その応えに満足げに微笑むと、男はハンカチを取り出し、肉の油とカーペットの繊維でぐちゃぐちゃに汚れている少女の顔を丁寧に拭いた。
そして、
「そう。
じゃあシオリ、今日から僕の奴隷ね。」
「え!?」
少女と男の生活が始まった。
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