私と大切な人

稲葉は鞄に着いているキーホルダーに触れた。
詩織を突き放してから一週間。一人に慣れなきゃダメだ。そう言いながら、落ち込んでいるのは自分の方だった。
伊織と太一も、一度詩織と二人きりになるよう仕組んで以来、何もしてこない。いたっていつも通りを装い、接してくる。
どうすればいいのかわからなかった。
まだ気持ちが揺れているからいけないのだろうか。鞄のキーホルダーなんか、その気持ちを表しているようなものだ。
詩織と距離を置く。そう決めたのだから、もうキーホルダーをつける必要はないと言うのに。
稲葉はキーホルダーをはずし、机の上においた。捨てる気にはなれなかった。


学校では気づけばぼんやりしてしまっている。授業休みに詩織と太一が教室に帰ってくるまで、二人が一限目にいなかったことにさえ気づかなかった。
チラと盗み見た詩織は笑っていた。だがその笑顔が作り物で、何かを必死に隠そうとしていることが手に取るようにわかる。

「……っ」

自分は、何をやっているのだろう。
この方法は間違っている。それは少しわかる。だがどうしようもなかった。
詩織と離れることが、こんなにも辛い。
無意識のうちにキーホルダーに手を伸ばしていた。だが、昨日はずしてしまったそれは、鞄にはない。ぎゅっと手を握りしめ、稲葉は再び空を見つめた。


部活帰り。以前まで、この時間になると詩織が文研部に来ていた。
近頃は一向に姿を現さない。伊織とは、別のところで待ち合わせをしていた。
それが稲葉との軽い喧嘩のせいだと思っている青木と唯は、呆れたように笑う。

「そろそろ仲直りしなよ稲葉。
見てるこっちが耐えられないし。」

「……何のことだ?」

「今ケンカ中なんだろ?
稲葉っちゃんと詩織ちゃん。」

その言葉に、稲葉は伊織を見た。伊織はペロリと舌を出し、「ケンカ中としか言ってないよー」と笑う。

「だって不思議に思うでしょ?
今まで来てた子が一週間も来ないなんて。」

「……まぁそうだな。
だが、もう来ないかもしれない。」

「え、どういうこと?」

「もしかして俺嫌われた?!」

そうかもな。と青木の言葉を適当にあしらい、稲葉は鞄を肩にかけた。詳細を話すことなく出ていこうとする稲葉の前に、伊織が立ちふさがった。
真剣なその面持ちに、稲葉は視線を落とす。

「稲葉ん、今日詩織泣いてたよ。」

「……」

「知ってる?詩織この一週間一回も泣かなかったんだよ。
ずっと私たちの前では笑顔だった。」

「……そうか」

唯と青木は何がなんだかわからないと言うように顔を見合わせた。
どこか上の空の返事しかしない稲葉に、伊織は一歩近づく。

「稲葉ん怖いんでしょ?
詩織が自分から離れていくのが怖いんでしょ?
だから勝手に自分から突き放して、自己完結させようとしてる。
詩織がどれだけ頑張って一人に慣れたとしても、稲葉んは詩織のとこに戻るつもりはないんでしょ?自分が辛いから。
もう一回言うよ。この方法は間違ってる。今から詩織とちゃんと話そう。
そこでちゃんと言いなよ。詩織と離れるのが怖かったんだって。でもこのままじゃお互いに自立できないから、どうにかしなきゃねって。ちゃんと言えばいいじゃん。
『一人に慣れなきゃダメだ。』なんて言葉じゃ、詩織はわかってくれないよ。単純なんだもん。言葉そのまま受け取っちゃうんだもん。稲葉んそれくらいわかってるでしょ?
……ねぇ稲葉ん、何とか言いなよ。いなば……っ」

その時、部室のドアが勢いよく開いた。驚いて目を向けると、そこには先に帰ったはずの太一が、肩で息をしながら立っている。
真っ青な顔をした彼は、息絶え絶えに叫んだ。

「天草が……っ、天草が……!」



太一は用事があるからと一人帰路についていた。詩織のことが気になりながらも、何もすることはできない。
今日は一人で帰ってしまったらしい詩織は、また泣いてしまっているのだろうか。そう思いながら道路に差し掛かった時、ふと人だかりが出来ていることに気がついた。
こそこそと小声で話す野次馬の言葉から、事故だとわかった。
通ることもできずにそこで立ち止まっていると、救急車が到着する。なんとなく、ただ何となく担架で運ばれていくその人を見た太一は、自分の目を疑った。
まさか、そんなはずはない。詩織は先に帰ったんだ。こんなところにいるはずがないじゃないか。詩織に似ている誰かで、その人がたまたま自分と同じ高校の生徒だっただけで。
違うと言う確信が欲しくて、太一は警察が動いている現場まで、人混みを掻き分けた。血が点々と道路に染みを作り、鞄の中身が散らばっている。その持ち物も、詩織の持っていた物と似ているなんて、そんなこと、きっと気のせいに違いない。
恐る恐る、足元に転がっていた生徒手帳を拾い上げた。ゆっくりと、震える手でそれを裏返す。

「……っ!」

飛び込んできた名前に、太一は息を飲んだ。
天草詩織
何度読んでも、変わらない。
太一は無我夢中で来た道を戻った。携帯で電話をかけるが、何か話し込んでいるのだろうか。繋がらない。
部室までが、とても長く感じた。走って、走って、その勢いのままドアを開けた。

「天草が……っ、天草が……っ!
事故に遭って、今、救急車で……!」

皆の目が、驚きで見開かれる。
しんとした部屋の中、真っ先に声を発したのは稲葉だった。

「うそ……だろ……?」

ふらふらと太一に近寄り、その肩に手を置く。

「なぁ、そんなこと言って、アタシたちを仲直りさせようって魂胆なんだろ?なぁ?」

「嘘じゃないっ!
学校の近くの道路だ!血も出てた……っ、鞄の中身が散らばってて、学生手帳に、っ名前が……!」

「……っ」

稲葉が部室を飛び出した。
嘘だ。そんなこと、嘘に決まってる。
道路には飛び出すなと、ずっといい続けてきたのだから。ちゃんとよく見てから渡れと、ずっといい続けてきたのだから。
一番近くの病院まで走る。一番近くと言っても、ここから相当の距離があるのはわかっていた。だが、ただがむしゃらに走った。口の中が、鉄の味で一杯になる。足が鉛のように重く感じ、いっこうにその場から進んでいないように感じた。
ようやく病院にたどり着いたとき、稲葉は看護師に本気で心配されるほど疲れきっていた。床にへたりこみ、かすれた声で詩織の名前を出すと、治療中であることが告げられる。
目の前が真っ暗になった。事故は事実だった。だがまだ、同姓同名の誰かなんじゃないかと、疑っていたかった。
看護師に案内され、治療室へ向かう。
震えるからだを押さえ込み、見たくもない真実を目の当たりにするために歩く。

「あら、あなたが一番乗りみたいね。」

看護師が、笑って言った。稲葉がうつ向いていた顔をあげると、治療室の前の椅子に、頭に包帯を巻き、足にギプスをつけた詩織がちょこんと座っていた。
「詩織……」と思わず名前を呼んだ。ハッとしたように顔をあげた詩織は、稲葉を見て目を見開く。

「姫子……」

「……っ」

自分を見上げる詩織の瞳は、不安げに揺れていた。
無事だった。生きていた。稲葉は喉まで競り上がってくる喜びの言葉をぐっと押し込める。

「お前、道路に飛び出したのか。」

「……ごめんなさい……」

「何でそんなことしたんだ。
人に迷惑かけやがって……っ高校生にもなって、そんなことも守れないのか?」

「……っ」

ひくりと詩織の肩が震えた。
手に持っている何かをぎゅっと抱き締める。それに気づいた稲葉は、目を見開いた。それは、自分がはずしてしまったお揃いのキーホルダーだった。

「お前、それ……」

「キーホルダー、っ、なくしちゃって……、見つかったのが、嬉しくて……走って、っ拾いに行っちゃったの……」

「車に引かれて意識を失ったあとも、ずっと抱き締めてたのよ。
よっぽど大事なものなのね。」

看護師が、にこりと笑った。
稲葉は言い様のない、怒りのような感情に襲われた。
どうして詩織はこんなにも自分を好いてくれるのだろう。突き放して、酷いことをする自分を、どうして。

「っアタシの言うことなんかもう聞かなくていいんだ!
……っ、アタシはもう、お前といたくないんだよ!
わかってるんだろ?そう思ってるんだろ?なら自分の体傷つけてまで、あんな口約束守ろうとするなよ!」

声を荒くする稲葉に、詩織はくしゃりと顔を歪めた。その泣きそうな顔を無理やり笑顔に変える。
その表情に、稲葉は息を飲んだ。

「姫子が私のこと嫌いでも、私は姫子のこと、大好きだもん。
ずっとずっと、大好きだもん。」

「……!、バカ……やろぉ……」

稲葉は溢れ出てくる涙をそのままに、詩織を抱き締めた。
「よかった……っ無事でよかった……っ」と何度も繰り返す。
詩織は驚きで見開いた目に、みるみる涙を貯めた。稲葉が来てくれた。自分の身を案じてくれた。それがただただ嬉しかった。
押さえ込んでいた感情が、蓋を壊して溢れ出す。詩織は稲葉にしがみつきながら、その感情を言葉にした。

「嫌いにならないで姫子ぉ、っ、私頑張るから……!
一人でもっ、平気になるから!でも、っでも私……、姫子と仲良しのままがいい!
姫子と仲良しのまま、っ一人でも平気になりたい……!
だからお願い姫子っ、嫌いにならないで、ぇ!」

「なるわけないだろバカ……っ
アタシだって、詩織が好きだ……。大好きだ……っ
ごめん、詩織……っ、ごめんな……っ」

そうして二人は、詩織の家族や、太一たちが病院に着くまで、今までの溝を埋めるように、ずっと抱き締めあい、泣き続けた。




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慣れないシリアス雰囲気に疲れましたよっと。








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