私とキーホルダー

それから一週間がたった。詩織と稲葉の溝はあいたままだ。
詩織は日に日に元気になっていった。だがその元気はただのから元気であることに、伊織と太一は気づいていた。自分達の前で、必死に笑顔を見せる詩織に、何も言うことはできなかった。少しでもそれに触れれば、あっという間にヒビが入り、崩れていってしまいそうで。
反対に稲葉は落ち込んでいった。一見、普段と何ら変わらないように見えるのだが、どこか上の空で、たまに重いため息をつく。その異変に、唯と青木が気づかないはずもなく。「稲葉、どうしちゃったの?」という唯からの問いに、伊織はどう答えるか悩んだあげく、詩織とケンカ中なのだと簡単に伝えた。

「もう、二人とも何て言うか……不器用だよねー」

「お互いもっと素直になったらいいのにな。」

ため息混じりに言いながら、自分の席で頬杖をつき、ぼぉっとしている稲葉を盗み見る。詩織はトイレと言って出ていったばかりだ。
「どうすればいいと思う?」と伊織は壁にもたれ掛かりながら、隣の太一を見るわけでもなく、独り言のように呟いた。
どうすればいいのだろう。太一は考えた。だが答えは見つからない。自分達に出来ることは、今のようにただ見守るだけしかないように思えた。

「あたしたち、きっと何もするべきじゃないんだよね。」

太一の考えを読み取ったかのように、伊織は言った。
「あぁ。」と頷いてから、太一は口元に笑みを浮かべる。詩織が帰ってきたからだ。伊織もすぐに笑って詩織を迎えた。自分達はいつも通りいるべきだ。そう思った。


家に帰るなり詩織はベッドに寝転がるテディベアに抱きついた。寂しさをすべてこのぬいぐるみにぶつける。
中学生の頃、稲葉からもらった誕生日プレゼントのそれは、寂しさをいくらか紛らわしてくれた。
そして、お揃いと言って鞄に着けたキーホルダー。16歳の誕生日でもらったそれを、毎日欠かさず、稲葉の鞄にも着いているか確認した。それを見るだけで安心できるし、頑張れる。稲葉の鞄には、キーホルダーはしっかりと着いていた。
テディベアを抱きしめ、キーホルダーを握りしめ、詩織は自分にエールを送った。

詩織の家族は、近頃稲葉が家に来ないのを不思議に思っていた。詩織に尋ねれば、「今ケンカ中なのっ」と隠すことなく事実が教えられる。だが詩織は、そこでわざと怒っている風を装った。頬を膨らませ、ぷいとそっぽを向く。稲葉の話題が出されれば、不機嫌になる。この方が違和感なく、軽いケンカだと思われるだろうと考えたからだ。
もしかしたらもう二度と以前のような関係に戻れないんじゃないかと思ってしまっている自分がいることがよくわかった。

次の日、登校してきた稲葉の鞄を見て、詩織は息を飲んだ。

「ない……」

ない。昨日まであったものがない。自分の元気の糧が、稲葉の鞄から消え去っていた。
詩織は、稲葉と自分を繋ぎ止めていた一本の細い糸が今、ちぎれたように感じた。自分の鞄には着いているキーホルダー。お揃いだからなくすなと、そう笑って言ったのは稲葉だったのに。
耐えきれなかった。目に、涙がたまっていく。こんなところを見られたら、稲葉がまた離れていってしまうかもしれない。そう思った詩織は、慌てて席をたった。

「っと、え、天草っ?!」

今から授業が始まるというのに、教室から飛び出して走っていく詩織を見つけたのは太一だった。伊織はこんな時に限っていない。太一は迷った挙げ句、詩織を追いかけることにした。泣いていたように見えたのは気のせいだろうか。稲葉とまた言い争いになったのだろうか、それとも、もう耐えきれなくなってしまったのだろうか。

「天草っ!」

人のいないところを目指したのだろう。部室棟に着いたところで、太一は詩織を捕まえた。
詩織はやっぱり泣いていて、自分を捕まえたのが太一だとわかると、さらに涙を溢れさせた。

「嘘つき……!」

「っ、」

詩織から吐き出された言葉は、太一を責めるものだった。「嘘つき」そう言われ、太一はドキリとした。詩織は何度も何度も同じ言葉を繰り返し、太一の腹に拳を叩きつける。

「天草……」

「仲直り出来るって言ったのにっ、すぐに仲直り出来るって、八重樫くん言ったのに!
姫子、っ、姫子私のこと嫌いになっちゃったよぉ……!」

太一は、どう言葉をかければいいかわからなかった。
ここで言うべき言葉は、謝罪じゃないことはわかる。ここで謝れば、詩織の主張を認めることになるのだ。それだけは違うとわかっていた。稲葉は、詩織を嫌いになったりしない。
関を切ったようにわんわんと泣き出してしまった詩織に、太一は戸惑った。
掴んでいた詩織の腕を離し、その手をそっと詩織の背中へと回す。幼い頃、なかなか泣き止まない妹にやってやったように、優しく、太一は詩織を抱きしめた。詩織の泣き声が、振動となって腹に響く。
結局太一は、そのまま詩織に励ましの言葉をかけてやることはできなかった。

「ごめんなさい……」

しばらくして泣き止んだ詩織は、ポツリとそれだけを呟いた。何に対しての謝罪か、太一にはわからなかった。むしろ、謝るべきなのは自分の方なのに。気の聞いた言葉ひとつかけてやれない自分の方が、ずっと謝らなければならないと思った。
何かを境に、詩織の不安な気持ちをおさえていた蓋が、なくなってしまったのだろう。その原因を聞いてもいいものか、太一は悩んだ。

「あのね、姫子のキーホルダー、なくなってたの。」

それを察したのだろうか。詩織は小さく口を開いた。涙で濡れてしまった太一のブレザーを見て、顔を歪める。気にするな。と太一が声をかければ、詩織はもう一度「ごめんなさい」と呟いた。

「お揃いだからなくすなよって、姫子言ってたの。
なのに今日、鞄にキーホルダー……ついてなかった。」

もう嫌いになっちゃったんだよ。そう言って、ひくりと肩を震わせる。

「私今までもこれからも、姫子のこと大好きだもん……っ
でもっ、だからってこんなの、我慢できないっ!」

私、どうすればいいのかな。
まだ目尻に涙を浮かべ、見上げられた太一は口ごもった。
稲葉だって、詩織のことが好きなはずだ。なのに突き放す。これには何か理由があるのだ。詩織と稲葉の間にある何か、理由が。
そこに踏み込むことが出来ない自分が、詩織に言うことができることなどあるはずがない。

「俺は……俺たちはきっと、天草に何も出来ない。
俺たちの力で仲直りさせることは出来ない。」

詩織が、落胆したように俯いた。詩織自身も、自分でどうにかしなければならないことくらいわかっていた。だが出来ないのだ。この一週間、詩織は精一杯頑張ってきたつもりだった。それでも稲葉は振り向いてはくれない。辛かった。もう、どうにもならないのじゃないかと、思い始めてしまっていた。

「でも、俺や永瀬は、絶対傍にいるから。
稲葉の傍にも、天草の傍にもいる。」

これが、そんな詩織に言える精一杯の言葉だった。
詩織はおもむろに顔をあげ、小さく笑った。もう少しだけ、頑張れる気がした。

教室に帰ると、伊織が駆け寄ってきた。一限目をサボってしまった二人を心配していたようだ。
詩織はもう、笑顔をつくれるようになっていた。さっきまでの出来事を、伊織には黙っているつもりのようだった。
理由を話そうとしない詩織に、伊織は眉を寄せたが、それを呆れたような笑顔に変える。

「言えるようになったら言ってね。
無理しないで。」

「……うんっ
ありがとう、伊織ちゃん、八重樫くん。」

次の授業の準備してくる!と自分の席に走っていく詩織を見送って、伊織は太一に目を向けた。太一は、詩織が言わないのなら、自分も言うことはできない。と首を振る。

「まぁ、そうだよね。」

ため息交じりにそう言って、伊織は踵を返した。何もしない。いつも通りに接する。そのために必要なこと以外、何も知らなくてもいいのだから。
そうわかっていても、どうしてか不安だった。


帰り道。詩織は一人で歩いていた。一人で考える時間がほしかった。稲葉はどうしてキーホルダーをつけ続けてくれたのだろう。はずすのを忘れていたのだろうか。否、あのキーホルダーはつけはじめて間もないし、稲葉が忘れるなんてことはしないだろうと思った。ならどうして、今さらキーホルダーをはずしたのだろう。
稲葉が自分を突き放すには、何か理由があるのだと、伊織と太一は言う。その理由は自分が自立できていないから。だから、一人でも居られるよう努力した。なのに、稲葉はキーホルダーをはずしてしまった。

「わからないよ、姫子……」

だからもう、ただ単純に、稲葉に嫌われてしまったのだと、詩織は考えてしまう。伊織と太一はそれは絶対に違うと言ってくれるが、それしか考えられなかった。
はぁ、とため息をついて、自分のキーホルダーに触れようと手を伸ばした。だがそれは空を切る。不思議に思い、詩織は鞄に目を向けた。

「あれ……?」

そこには、人形と鞄を繋いでいたチェーンだけがぶら下がっていた。慌てて後ろを振り返る。人形はない。詩織は血の気が引いていくのを感じた。
稲葉との、たったひとつの繋がり。稲葉がそれをはずしてしまった今、自分のキーホルダーまでも失ってしまうなんて。
詩織は元来た道を戻った。注意深く周りを見ながら学校までの道をひたすら歩く。
心臓がバクバク音をたてた。見つからなかったらどうしよう。稲葉との関係を否定されているとさえ感じた。
溢れそうになる涙を耐えながら、もう少しで学校につく道路まで戻ったその時、遠目に人形を見つけた。調度部活終わりの時間らしく、下校してくる生徒たちに揉まれながら、詩織は夢中で人形の元へ走った。ただただ、人形だけを見つめて走る。だが、誰かとすれ違い様に人形を見失った。誰かに蹴られてしまったようだ。視線をさ迷わせ、すぐに見つけた人形に駆け寄った。それを拾い上げ、ぎゅっと胸に抱いたその時、耳元でけたたましく何かが鳴った。
それが、車のクラクションであることに、詩織は意識を失うその時まで気づくことはできなかった。



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場面転換ありすぎですね。
すみません……。








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