黒猫と革紐。 | ナノ



V


外観はあれだけ広い屋敷だというのに、人が居ないせいか中は寂しく思えるほど空っぽでがらんとして見えた。
不思議に思って少女に尋ねると、今日は彼女の母親が晩餐会に呼ばれている所為で周りの者はほとんど準備に出払っているらしい。
確かに中はがらんとしていたが、よく見れば忙しそうに書類を纏めて駆けていく女中達が視界の隅にちらほらと確認できた。

そうこうしている間に屋敷の離れのような場所に出て、そこへと繋がっている渡り廊下を歩いていると前を行く彼女が急に足を止め、こちらを振り返る。
突然のことにビクリと身体が震えてしまったが、少女はそのことを笑う様子もなく、違和感を感じる程真剣な顔つきでこちらを向いた。

その奥に、重い閂が掛かった灰色の扉があるのが見える。


「ど、どうかしたんですか?」

「一つだけ、貴方に言っておかねばならない事があります」

「何ですか?」

「───足元には気を付けて下さいね。絶対に気を抜かないで」

「は?」

「開けますよ」


何ですかそれは、と言う間もなく、ノックに続いて割と軽く開いた閂はやはり軋んだ音を立てて下に落ちた。

「姉さん、入りますよ」

「………、」

とりあえず、言われた通りに足元に細心の注意を払ってみる。
───が、そこは一言で表すと『混沌』そのものとしか言えない有様だった。

かなり広い、西洋風の部屋。
窓には深紅の壁飾りがリボンで留められており、分厚いレースのカーテンが何重にも掛かっている所為か全体は薄暗い。それでも、この部屋の異常さは簡単に見て取れた。


「……うわ」


部屋中に散らばった、大量の菓子類。
そのほとんどが大きな飴玉で、中には棒が付いたものも転がっている。左右の壁にある大きな本棚は中身がぐちゃぐちゃになっていて、床に落ちたものは溶けかけた飴玉でベタベタに粘ついていた。
部屋全体が砂糖漬けになったように甘ったるい匂いで満たされ、まるで子供の暴れた後と勘違いしそうなほど部屋は荒れている。
足元に気を付けろというのはこの事か、と今更ながら痛感した。
元々汚かった草履だが、この部屋に入ってたったの数歩で救いようの無い程ベトベトになってしまっている。

「……昨日掃除をしたばかりですのに」

「ええ!?」


昨日掃除をしたのなら、最低でも今日の朝までは原型を留めていたという事か。この部屋の原型が見てみたい、と悲しい興味が湧いた。
奥の部屋も同じような惨状だったが、隅には大きなベッドが置かれていることだけが違っていた。
豪奢な作りだが、そこも大量の本と菓子類に覆われている。
少女はそのベッドには近寄らず、まるで危険生物を捕獲するかのように距離を取ってからそれに向かって小さく声を掛けた。


「姉さん……?」


もそ、とベッドの菓子山が動いたのは錯覚ではないようだ。
その動きは緩慢で、やがてベッドと布団の合間からもぞもぞと白い何かが覗く。
どうやらそれは人間の腕のようで、白い腕がだらんと力なく下がったまま布団の中からくぐもった声がする。


「ん……」

「姉さん───Bonjour、Grande soeur?」

「……?」

「Xexes……?」


一瞬何だか分からなかったが、どうやら二人が話しているのはフランスの言葉のようだった。
怪奇布団の方も何やらぼそぼそと受け答えているようだが、分厚い布団の所為で声がほとんど遮断されて男か女かも判断できない。

(だけど……姉で間違いないのかな)

一応、自分が理解できるのは日本の言葉とフランス、そしてオランダの船乗り言葉の三つだ。日本語は生まれた国、フランス語は以前知り合った人間、そしてオランダ語にいたっては港に出入りするごろつきめいた船乗りから気付けば学んでいた代物である。

(オランダの言葉じゃなくて良かった……)

ほう、と内心で息を吐く。
はっきり言って、こんなあからさまに上流階級なお嬢さんが使う言葉とならず者のフランクな下町言葉が一緒であるはずが無いし、同じであったら困る。たとえ方言の可能性を視野に入れても、精々一つか二つ文法が同じである程度だろう。
見えないように胸を撫で下ろすと、不意にむくりと分厚い布団が内側から持ち上がった。
蒼白と言っても過言ではないほど白い腕が辺りを探るように動き、やがて布団の主が顔を見せる。


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