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夏目の部屋で、玄を布団に休ませてやった。
「私と翠は二体で一対、しばの原の石像に宿り、森のことを守っておりました。悪い気が流れ来れば二人で浄化し、邪気共が原を通って村へ降りようとすれば祓いとばしておりました」
ぽつりぽつりと、玄の当時のことを話し出した。
「ところがある時、近くの村の土が痩せ作物がほとんどとれなくなってしまったのです。村人達は泣きついてきました。どうか土を肥やして欲しいと…私達は祓い神であり、畑を潤してやることは出来ませんでした…それでも苦しそうな彼らを、何とかしてやりたかった。通りかかる妖達に方法はないかと尋ね願い、力の限り邪気を祓いつづけた…やがて私と翠は少しずつ命の光を削って、村へ流しつづけました。それでも、畑を潤すことはこの私達には出来なかったのです」
玄の話を夏目と雪野はじっと聞く。
「ーーーーところがある日ついに、人間共は不作の苦しみを我々のせいにして役立たずの神だと、鍬や鋤を手に押しかけてきたのです。彼らは容赦なく私達を打ちました。役立たずだと、必要のない神など壊してしまえと」
目を見張る。翠は粉々に砕けてもういない。その原因は、人間の仕業だったのだ。
「翠はやめろと泣き叫んでいました。愛してやったのにと、幸せを願ってやってきたのにと。それでも私達の声は人間共には届かなかった。その凶行により私は獅子とは呼べぬ形に崩れ、翠は谷底へ落とされ砕け散りました…その後、翠は砕けた器から飛び出し…悲しみと憎しみから悪霊となって村を襲ったようでした」
窓の外で、雪が降り始めた。
「そしてそこで…人々に魔封じの木に封じられて…それっきり、私達はーーーー…」
玄は両手で顔を覆う。
「…私は守ってやれなかったのです。人々から翠を、憎しみから翠の心を…だからせめて、悪霊へとなり果ててしまった彼女をこの手でーーーー…」
ーーーーいつか玄から感じたあの悲しみは、翠を想って。そしてあの憎しみは、人間を想ってーーーー…。
積もった雪の上を踏みしめ帰路を歩く雪野は、門前まで帰り着くと俯けていた顔を上げた。脳裏に、楽しそうに庭の掃除をしてくれた玄が思い浮かんだ。
『ただいま……あれ!?増えてる!?』
「おかえり。さてどっちが玄でしょうか」
『唐突に!?』
トレーの上に並べられた二匹の雪兎。増えたもう一匹は、塔子が一匹だとかわいそうだからと作ってくれたそうだ。
一回りほど小さなその雪兎に、その夜玄は寄り添って眠った。ただの小さな雪兎は、朝には溶けて消えていた。
『先生乾かすからこっち来てー』
風呂上がりに雪野は斑の濡れた体をドライヤーで乾かしてやる。
ーーーーガタンッ.
夏目の部屋から大きな音が聞こえてきた。
「どうした夏目」
『玄…?』
何事かと様子を見に行くと玄が倒れていた。
「玄の様子が変なんだ。大丈夫か玄」
「ああ、寄るな夏目」
戸惑う夏目や雪野と違い、斑は玄の様子の理由がわかったようだ。
「あいつも悪霊になりかけているんだ」
斑の言葉に、夏目と雪野は呆然と目を見開いた。
「憎しみや悲しみが育ってしまったのだろうな。さみしい時が長すぎたのだろう。それを何とか抑えて踏んばっているようだな」
「…目…夏目様、紙をください」
座り込み俯いている玄が、押し殺した声を震わせて言う。
「噂を聞いたことがあるのです。夏目様と鈴木様はあの「友人帳」をお持ちだと。どうかそれに私の名を。もし私が悪しきものになってしまったら、その時はそれを使って止めてください」
「…それは出来ない。名を縛るということは命を握るということだ。その紙を破れば、その妖の身が裂けてしまう程」
「ならば好都合。もしもの時はその紙を燃やしてください」
揺るがぬ様子で玄ははっきりと告げた。玄の目から、ぽたりと涙が落ちた。
「もう嫌だ」
ぽろぽろと涙を零す玄は顔を覆う。
「ひとりは嫌だ」
ーーーー『ひとりは嫌だ』
雪野の頭に一瞬過ぎった、幼い自分が泣く姿。その姿と目の前の玄が、重なって見えた。
「…まだだろう。玄、しっかりしろ。まだひとりではないだろう?」
ぐっ…と夏目は拳を握り締め、玄の肩に手を置き目と目を合わせた。
「翠がいる。何とかしてやるんだろう?おれ達もいる。手伝ってやるって約束したじゃないか」
玄の瞳が僅かに揺れる。
「…私は、夏目様のためには何も出来ない…私は…森を守るしか出来ない役立たずなのです」
涙ながらに自身を卑下していた玄は、ふわりと頭に乗った温もりに顔を上げた。
『そんなことないーーーー玄は庭を掃いてくれた。悪霊から貴志君を庇ってくれた』
玄を見下ろしながら雪野はそう言った。
「玄は人を嫌いかもしれないけれど、おれは玄が好きだよ」
ーーーーそしてきっと。
「虹に願おうとしてくれた翠のことも好きだよ」
片手で夏目が玄を軽く引き寄せると、玄はまたぽろぽろと涙を零しながらたくさん泣いて、そして小さな雪兎の姿に戻った。
妖力は日に日に衰え、おそらくもう強い光や熱に触れれば、体を保つことは出来ないような気がした。
「夏目のだんなー」
ある日、窓の外から呼びかける声が。
「夏目のだんなー。東の森にあやしい影を見ましたー。一応ご報告までにー」
「!」
それはいつぞやの中級からの報せだった。
「ありがとう」
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