中国攻め前夜

「姉上」
「ああ、秀長か・・・」

自軍に呼び掛ける時には何よりも頼もしい背が、今は庭の池の中に映る月を見つめながら薄く小さく見えるのを呼び止めた。その声に顔を上げ、此方に歩み寄る彼女を隣へ座らせる。出陣前夜にどうも気が滅入るというのは彼女の昔からの性分であった。

「また見られてしまったな」

いくらこの戦国の世に生まれたとはいえ、名を上げ、出世して戦人として駆けてきたとはいえ、両手を血に染め上げることに苦しさを感じない訳ではない。ひとの上に立つという事は、それを他人に強い、更にはその命を危険に晒せと命じるということ。己を慕ってくれる者たちの事を何よりも大切に思っている彼女が、それを憂鬱に思ってしまう事を表に出すことは決してないが・・・近しい者は、それでも彼女のその心情を知っている。
前の晩、必ずと言っていい程に彼女が憂いていることを知るのは、ほんの一握りの、彼女の中の"彼女"を知る者だけではあるが。

「貴女が煙管をふかす時はいつも物憂いげだ」
「・・・そうか。癖、だな」

ハッと自嘲しながら彼女はその頭を己の肩にのせ、頬を擦るようにひたりとその身を寄せる。こんなに大人しくしおらしい彼女を知る者は、己とねねと、それから信長と濃姫くらいであろう。
女の身で男の中で強く立ち続ける、弱味は決して見せる事のない気高い彼女の柔い部分。それをこの姉は自分にはこんなにも無防備に曝け出して、寄越してみせる。これを幸福と、愛おしいと思う事は必然であった。そしてそれは、この彼女の内側を知っている誰しもが彼女に抱いている思いでもある。

「此度の戦は長丁場となりましょう。相手は何と言っても稀代の謀将、毛利元就」
「嗚呼、分かっている。全く、戦は好きではない癖に・・・大人しく隠居していてくれれば良かったものを」

今まで織田方は中国の大多数を占める毛利だけは敵に回さぬように努めてきた。良好な関係を築き、時には援軍を送ることもあった。元就の隠居の為の葬儀では香典すら出したほど。
しかし此処へ来て、信長がその均衡を崩した。天下を治める為に、遂には毛利とも正面衝突するに至ったのである。どちらも大きな勢力であるが故に、織田方の多数を率い、親交のある毛利を攻めねばならない彼女の心中を察するのは容易い。しかも相手が好ましく思っている毛利家では。
・・・裏切り、裏切らせ、裏切られる。戦国の世では当たり前のそれを、けれど憂いてしまう。真に非情に成れる者などいない。信長すら、非情に見えて、見せていて、その内に優しさを未だ抱えている。戦国の業を総て背負うと決めた彼の人の存在は尊く、それと同時にその彼に任せられる荷には重みが伴う。信長は彼女に問うている。毛利を、親しくしていた相手を、堕とせるのかと。

「秀長、決して死んでくれるなよ」

絡まる腕に掌が掬い上げられる。まるで祈るように、秀吉の唇が手の甲に触れた。

「・・・勿論です、姉上」

まるで、一種の儀式のよう。





そうして次の瞬間には、凛とした当主の顔をみせる姉の、立ち上がったその背を真っ直ぐと見つめて。仕えるべき主として、戦国の世に生きる戦人として、ひとの上に立つ者として。こんなにも相応しいひとは他に無い。そう思わせるだけの魅力を、彼女は持っていた。主君・織田信長の尊さとはまた違う、もっとひとの柔いところに寄り添ってしまう彼女の魅力。己も柔いところを持っていながらそれを他人には見せない彼女だからこそ、それが成せるのだと秀長は思う。彼女が女の身であることは、その魅力を前にすればちっぽけな事だった。己が女の下につくことを厭う家臣もいるが、それを後悔した事など一度もない。
今生を彼女に、目の前の実姉に託そうと、遥か昔からその思いが変わる事は無いのだから。



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