スタンドに、彼女の姿があるのを知っていた。平日なのに授業をサボって、世界で一番大切な弟の試合を見に来ていたのだろう。試合終了後、コートを眺めながら、静かに涙を零していたのを見て、もしかしたらまだいるかもしれないと思ったが、まさか、まだコートを見つめたまま放心しているとは思わなかった。
何も言わずに隣に腰掛けると、ぴくり、と肩が震えた。
「あ・・・いっせ、」
「もう、試合終わってるけど?」
慌てて濡れた頬を拭うので、持っていたタオルで拭いてやる。
「なんか…勝手に、ね」
照れくさそうに笑いながら目尻を拭う彼女が、座席に深く座り直した。
「すごい試合だったね」
投げられた言葉は、特に返答を待っていないようだったので、コートを眺めながら、ただ、黙ってそれを聞いている。
「なんか、ただ黙って見ちゃってた・・・あっという間だった」
声が少し震えたので、彼女に視線を向ける。
「飛雄が勝ったのに、悔しくて、嬉しいはずなのに、喜べなくて、動けなくて、」
ぽろり、と溢れるそれに、手を伸ばす。
「なんで私が泣いてんだろうね、」
くしゃりと笑う彼女を前に、驚くほど心が凪いでいた。負けたけれど、悔しいけれど、全部終わってしまったけれど、どこか、清々しいような、そんな。
「俺の代わりに泣いてるんじゃない?」
本当に、いつの間に、こんなに彼女の事が大切になっていたんだろうと思うほど。
「そうかも」
ふふ、と笑って、松川の手に三春の手が触れる。指が絡められて、頬を寄せられた。伏せた視線が、こちらを捉える。
「おつかれさま、一静。カッコよかったよ」
堪えていたものが溢れる。
「・・・うん、」
三春が席を立って、松川の顔を前から抱え込む。
「仕方がないからお胸を貸してあげましょう」
「・・・柔らかくて気持ちいいです、ありがとうございます」
「ちょ、下心禁止ですよ!」
「嘘だよ、ありがと」
いつものようにふざけ合って、くすくすと笑い合う。泣き笑いみたいなそれに優しい視線が落ちてきて、幸せだな、と思った。
「あっ!?ちょっと!!何イチャイチャしてるの!?」
その時、スタンドの端から及川が顔を出した。2人でそれを見上げて、無言で顔の向きを元に戻した。
「一静の泣き顔はじめて見たね」
「幻滅した?」
「んーん、惚れなおした」
「ちょっと聞いてる!?」
ふふ、と笑い合っていると、及川がすぐ近くまでやってきてもう一度怒鳴る。うるさいなとまたそちらを見ると、三春がきゅ、と松川の顔を抱え込んだ。視界が彼女の胸と腕に隠される。
「なに?」
硬い声が、ピシャリと落ちる。
「っ、もう帰るよって言ってるの!ていうかなんで三春ちゃんいるの!?授業は!?」
「関係ないでしょ」
つん、と顔を背けているのだろう声に、松川は三春の腕の中で苦笑した。及川の嫌われようは何というか、本当に哀れなのだ。まあ、彼女の一番大切なものに意地悪をし続けている自業自得から来るものであるから、松川はフォローする気など皆無なのだけれど。
「三春、ありがと。もう行くよ」
「うん、わかった」
そっと腕を掴むと、三春はこちらを見下ろして松川の頬を撫でた。名残惜しいのを堪えて立ち上がると、不機嫌顔の及川がこちらを睨んでいるので視線だけで謝っておく。
「ったくまっつんてば、もうみんな集まってるんだからね!!」
顔を背けて前を行く及川の後を追う。くっと服の裾を引かれて振り返ると、グイッと胸倉を掴まれて、
ちゅっ
可愛らしい音を立てて、唇が離れる。見開く瞳の中、背伸びをして頬を染めながら、三春が照れくさそうに微笑んでいた。
「じゃあね、一静!」
それだけ言い捨てて、荷物を持って、固まる松川の横をサッと通り過ぎる。
「及川も一応、おつかれ」
先ほどの音に振り向いていた及川の胸にゴツ、と拳をぶつけてから駆けていく三春に、男2人して瞳を見開いたまま身動きが取れなかった。
「はああぁぁぁ・・・まっつん、やっぱりズルくない!?ちょっとだけくれない?ちょっとでいいから!!」
「絶対やらない」
顔を両手で覆って喚く及川を置いて、松川もその場を後にした。