紀州の薬師・中

さて、彼女をどうにか繋ぎ止める為に、半兵衛はあらゆる手を尽くした。それだけは紛れもない事実であり、半兵衛もそれに関わった家臣たちも、しっかりとその事を覚えている。けれど、そういうもの総てを掻い潜って―そう、まるで煙のように、彼女はいとも容易く半兵衛の伸ばした指の間をすり抜けて居なくなってしまった。ある日突然、跡形も無く。
まるで最初から、此処に居なかったかのように。



朝、まず彼女が起こしに来ない事に違和感を感じながら身を起こした。朝餉になっても現れず、代わりの者に聞いてみても見ていないと言う。体調でも優れないのかと後で部屋を訪れてみようと首を傾け、政務を熟す。中天を過ぎても顔を見せない彼女に何だか嫌な予感がして、部屋を訪れてみればそこはもぬけの殻だった。思わず、部屋を間違えたかと数歩引き返してみたりし、間違えてなどいないと確認する。此処に、確かに彼女の部屋があったのに。何も物の無いその場所には、彼女の居たという痕跡すら無い。どういう事か理解出来ずに茫然と佇む半兵衛の背後に、豊臣所属の忍が降り立つ。気配が乱れていることを感じて振り返れば、思うよりも深手を負った忍の姿がそこにあった。

「どうしたんだい?」
「申し訳・・・ありません、あの女、」

忍を下がらせた後、ずるずると部屋の柱に凭れて座り込み、半兵衛は深い深い溜息を吐き出した。報告によると、三春は昨晩、朝日の昇る前に突如としてその本性を露わにし、半兵衛のお抱えの忍衆を悉く倒して逃走を計った―
もぬけの殻のこの部屋は、もう用は無いと言わんばかりに、彼女の仕事が終わった事を示しているのだろう。ハッ、と自嘲が漏れた。そんな不審な者を、よりにも寄って半兵衛自らが、豊臣に招き入れていたなんて。



彼女が居なくなったことを秀吉に報告するにあたって、半兵衛は彼女が何を探りに来たのか、あらゆる方面を調査してみた。そしてその結果に思わず息を呑む―様々な可能性を考えてみたが、何も、思いつかなかったのだ―つまり、何も得られていないのではないかということ。彼女は常に半兵衛の傍におり、その政務の手伝いもしてはいたが、それでも盗み見れる情報に大したものは無かった筈だった。半兵衛が己の執務室で捌いていたのは内政に関わるもの。その他の外交の類であったとしても他国に知られて大きな損害になるようなものは皆無であったし、何と言っても、重要な情報は秀吉の天守閣から出してはいない。流石に天守にまで彼女を供連れした事はなかった。そしてその一番大事な天守の護衛達は無傷であったという。被害を被ったのは半兵衛の直属のみ、しかも昨晩半兵衛の身辺警護に当たっていた者達だけだった。そして護衛を破られたはずの半兵衛本人はこの通り、無傷・・・どころか、諦めていた不治の病がその症状すら見せなくなり、彼女が来てからは過去よりも寧ろ、健康である。
要するに、彼女が豊臣に潜入して持って行ったものとは・・・半兵衛の病以外、何も無いのではないか。



彼女の件を秀吉に報告し、さしたる損害は無いことも伝えた。それは事実であり、彼女は任務に失敗したのだろうという結論に達した。
けれど疑問は残っている。あの綺麗に片付けられた部屋はどういうことなのか。何日も前から少しずつ進めていなければ片付かないような量の荷物があった筈だった。それほど、彼女は長い間半兵衛と共にあったし、半兵衛だって彼女に様々なものを贈っていた。それを跡形もなく片付けてから、面影すら感じさせぬほど、塵一つ残さず消え失せる。そのような身の引き方は、まるで目的を達成したかのよう・・・なのに彼女は何の情報も持っていってはいない。この矛盾が、半兵衛には酷く居心地が悪かった。





「アンタ、本当に馬鹿だよねえ」
「・・・また来たんですか、貴方も暇ですね」

その頃三春は、己の小さな隠れ家である紀州の小屋で、ひとり細々と過ごす日々を送っていた。誰の世話をする事もない、己の身ひとつを少しだけ丁寧に扱ってやる日々は、眠りにつく前のような穏やかさがあった。けれど、その緩やかな時を破るかのように度々やって来る橙色が、いま彼女の目の前に降り立っていた。元同業者の中でも名の知れた男・・・甲斐は武田、その臣下である真田幸村お抱えの忍隊の長、猿飛佐助。昔馴染み、延いては今の三春にとってお得意様というヤツである。

「そんな毎日来なくても、ご注文の品はまだ出来ませんけど」
「だってアンタ、見てないといつ死んじゃうか分かったもんじゃないしさ」
「・・・自分の命の限界くらい、分かっていますよこの阿保猿」

薬を煎じながら、三春は己の横にだらしなく座っている男を横目で睨む。
彼女が半兵衛に名乗った時、薬師だと言ったのは、嘘ではなかった。三春はかつて、その身が毒そのものとも言わしめる程に薬や毒に長け、婆娑羅者でもあって暗殺の方面ではそこそこ有名な腕の立つ忍であった。けれどその身で試し続けた毒の影響からか、それとも己が婆娑羅に身が喰われたのか。数年前から婆娑羅を使うと真面に立って居られないほどの痛みに襲われるいう症状が出始め、止むに止まれず一線を退いたのである。それから始めた薬師という仕事は、元同業者に受けが良く日ノ本を回りながらゆるりと余生を過ごしていた。

「一年も何も言わずに居なくなったから、とうとう死んだのかと思ったら豊臣に飼われてるなんて、俺様思わず自分の目を疑っちゃったよ。アンタが竹中の旦那相手にあんな顔して笑ってるなんて、さ」
「・・・」

残念なことに、佐助と三春とはそこそこ長い付き合いである。同郷の霧隠才蔵の関係で、真田忍隊に誘われた事すらあるほどの。彼女は傭兵忍でこれといった主も持たなかったので、彼との関係は付かず離れずと言ったところか。

「ほんと、馬鹿だよ・・・自分の生命を張って、病を貰ってくるなんて」
「・・・貴方には関係ないでしょう」

いいからもう帰れと、佐助を小屋から締め出して、三春はその場に膝をついた。我慢をしていた咳が漏れ、ゴホゴホと息苦しさから生理的な涙が浮かぶ。手のひらに滲んだ紅は、もう見飽きたもので慣れてすら居た。

「みず、」
「はい」
「・・・ッ、馬鹿、離れろッ」

おさまったところで、水を飲もうとよろりと立ち上がったところを、背中を抱きとめられて横から差し出されたのは竹筒。それに瞳を見開いて、声の主から身体を離そうともがくが、力ではその男には勝てなかった。

「はは、三春の乱雑な台詞、久しぶりに聞いた」
「佐助ッ!!」
「大丈夫、感染るものじゃないんだろ?」

喉を震わせて笑う振動が伝わってきて、三春は悔しげに顔を歪めた。

「ッッ・・・恐らく、というだけの話だ。用心に越したことはない、」
「・・・感染っちまえば、よかったのにな。そうしたらアンタがひとり、こんなところで弱っていくだけなのを、見るだけじゃなくて済んだのに」
「佐助・・・?」

身体に回った腕に、ぎゅうと力が篭ったのは一瞬で。ポツリと呟いた声が、いやに切なさを孕んでいて。珍しい様子にどういう事なのかと名を呼んだ時には、すでに彼は何時もの飄々とした表情でへらりと笑っていた。

「ほら、俺様が寝かしつけて行ってあげる。あの仕事は急ぎじゃないんだから、アンタは身体に障らないようにもう休みな」

抱え上げられて、いつの間にやら敷かれていた褥に横たえられる。手のひらや口元の紅は、綺麗さっぱり拭われていた。その全てがまるで壊れ物を扱うかのようで、三春は切なくなってしまう。そんな優しいものを向けられても、応えられない。佐助は分かっているだろうが、だって、三春は、

「佐助」
「なあに、三春」
「もう、来ないで」
「・・・いやだ」
「佐助、ッ」
「残りを独りで過ごすつもりなら・・・それくらい、俺様にくれたっていいだろ?」
「さすけ、」
「また来るから」

名を呼ぶが、彼を拒絶し切れない三春には、その背を見送るしか出来なかった。


20180207修正



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