紀州の薬師・前

安芸・吉田郡山城。
同盟の最後の詰めにと調整のため訪れていた半兵衛は、この所の無理が祟ったのか与えられた客室にて深夜、体制を保っていられない程の発作に襲われていた。
止まらない咳に、喀血。冷や汗の流れる背中を丸め、なるべく音を立てないように呻く。忌々しい病魔に侵されている事など、たかだか協力関係に過ぎない毛利の者に知られる訳にはいかなかった。

「失礼いたします、」
「っ!?、だ、今は・・・」

締め切った襖の向こうから突然に掛けられた声。応答する間も無く無礼にも勝手に入ってきたその影は、暗闇の中でも尚、蹲るようにして口から溢れた紅を隠す半兵衛の横に足早に近寄り、その背にそっと手を当てた。

「な、にを・・・」
「大丈夫、すぐ楽になります」

背に添えられた手がゆっくりと呼吸に合わせるようにして拍子を刻む。ひとつ、ふたつ、みっつと、繰り返される度に徐々に息苦しさは薄れて、不思議なことにここのつを数える頃には背を丸める必要も無く、余程楽になった身体に安堵の溜息を零した。

「さあ、もう遅いですのでお休みになってください。明日もまた、早くからお務めでしょう」
「なぜ・・・君は、?」

支えられていた身体を横たえるようにと促され、口元と右の掌を湿った手拭いが拭う。その手付きがあまりにも優しくて、そして体力に限界が来たのか何やら眠くて仕方がなくて、逆らう事も出来ぬまま視界を塞ぐ手のひらに導かれるまま意識を手放した。





翌朝目が醒めると、昨晩発作が起こった事などまるで無かった事のように、夜着にも身体にも何処にも紅は見られなかった。けれど記憶ではしっかりと、暗闇で見えないにしろ女がひとり世話をしてくれた事を覚えていた。
己の連れてきた供の中にあのような者は居ないし、毛利に弱味を握られてしまったかもしれないと唇を噛み締める。けれどその日にまた幾つか毛利方との調整を熟したにも関わらず、あちらから己の病について触れられる事は無かった。

何故か?切り出す機会を伺っているのか?

そう思い歯噛みした宵に、書類を幾つか片付けてしまおうとしてまたすっかり遅くなってしまった事に気付く。無理は良くないと分かっていながらもつい、と身体はまた咳を零す。酷くないまでも止まらないそれが息苦しく、水でも飲みたいと思っていた矢先、またあの声が掛けられて返事をする前に襖が開かれた。

「失礼いたします」

盆に急須と湯飲みを乗せてやってきた彼女は文机の明かりに僅かに照らされてその顔が今日は半兵衛にも見えた。

「君は・・・」



安芸へ訪れた初日、元就に城を案内されていた際、遠くの縁側に座って庭を眺めていた彼女について、彼はこう言っていた。

「毎年薬酒を届けにくる薬師だ」
「へえ、元就君でも酒を飲むんだね」
「あれの菊酒だけはな」



そう、彼女は他でもない毛利の客人の筈。それが如何してこんな所にいるのだろうか。

「たしか・・・三春君、だったか」
「はい。夜更かしは身体に悪う御座いますから、成るべく避けた方が宜しいかと存じます。身体を温めて、もうお眠りになられてください」

また、近くに膝をついて背に当てられる手のひらに、息をするのがスッと楽になる。反論する気も起きずに片付け始める己の側で茶を注ぎ、ことりと置かれたそれを含めばホッと息を吐き出してしまったのは彼女の作り出す空気に抗いがたい何かがあるのだと二度目にして既に悟っていたからなのかもしれない。

「生姜と蜂蜜の薬茶です。温まりますから、夜遅い時は特に、取られると良いでしょう。身体を冷やす事は成るべく避けるようにしてください」

別に診て欲しいなどとは言っていないし、半兵衛とてこの病についてはもう手遅れも承知の上に諦めている。けれどやはり成るべく残された時間を延ばしたいと思っているのは事実で、彼女のその言葉に素直に頷いたのはこの病に関して他人に触れられるだけで激昂することの多い半兵衛にしては酷く珍しい事であった。

「・・・君は元就君の客人だと聞いたけれど、普段は何処に?」
「年の半分は信濃の辺りから安芸までを渡り歩きながら薬草を取ったりしておりますが、もう半分は紀州の拙宅にて小さいながら薬問屋を」

紀州といえば雑賀の納める地である。成る程、あそこであれば薬問屋も儲かるのだろう。

「僕の病についてはいつ?」
「先日、お見かけした際に」
「・・・見ただけで分かるほど弱っていたかな」

縁側に座っていた彼女は此方など露ほども気にしていないように見えたのだけれど。

「いえ。そういう方は、少しだけ影が濃く見えますので・・・よもやと、思っておりました。故に、成るべく気にかけるようにしておりましたので」

そういう界隈を生業にする者として、分かってしまう事があるのだと彼女は言った。だから誰しも見ただけで分かるという事は無く、むしろ、それほどのものをよく隠していると言っていいほどだという。そう、彼女に言わしめてしまうほど、己の病状は進んでいるのだろう。

「私は明日此処を発ちます。もし宜しければ、貴方様のその病の治療をもう暫く行いたいと思うのですが」

そんな彼女の提案に半兵衛は瞳を見開いた。今迄何人もの医者や薬師に匙を投げられたこの病を、彼女ならばどうにか出来るというのだろうか。

「完璧に治すことは、今の段階では出来ると明言は出来ませんが・・・症状を軽くすること、進行を遅めることは可能かと存じます。貴方様のご協力次第ですが」
「本当かい?!」

思わず、がばりと彼女の肩を掴む。驚いたように瞳を丸くした彼女は、ひとつ拍子を置いた後にゆるりと相好を崩した。

「はい。私めに出来ることはさせて頂きます」
「よろしく頼むよ」

もう遅いから休んでくださいと、また今宵もいつの間にやら寝かしつけられるようにして、久方ぶりに感じる安堵と先への期待を胸に眠った。



それから彼女は一足先に大阪へ向かった。
元就へは何処へ行くとも告げていないようで、聞いてみれば半兵衛の病の事も誰にも告げておらず、他人に知られたくないという意図も言わずとも汲んでくれていた。そういう所が殊更気に入り、彼女に迷惑を承知で治療中は薬師という職を偽り、付き女中として半兵衛の世話をしてくれないかと打診したところ彼女はひとつ返事で了承してみせた。

「側でお世話させて頂くのが一番、快方の近道となります故に、そう出来るのであればそれが重畳と存じます」

とは彼女の言い分であって、我儘を言ったつもりが簡単に受け入れられて拍子抜けしてしまったのだった。





三春と共に在るようになって、季節も巡った。
半兵衛の病状は段々と軽くなっていったし、今では痩せ細った身体も幾分か健康的になったと言える。それもこれも彼女の口煩いまでの徹底した管理があり、その遠慮の無さは時に秀吉すらも驚かせる程。しかも文句を言いながらも半兵衛が言うことを聞くので忠臣の三成などは彼女に敬意すら抱いていた。

「三春君」
「はい」

三成が半兵衛に謁見中、側で控えながら繕い物をしていた彼女は、名を呼ばれただけで半兵衛の必要としている書状を手渡し、それを半兵衛は疑うことなく当たり前のように甘受する。その言葉少なの連携に、三成は何度見てもと息を吐き出した。

「三春殿は何故、半兵衛様の必要とされているものが直ぐに分かるのですか」

それは純粋な疑問であった。
口からつい飛び出してしまったそれに、二人は同じような顔をして固まっていて、それだから分かるのかと一人で妙に納得しかけた三成に、小首を傾げた彼女が答える。

「ずっと半兵衛様の事を見ているからでしょうか」

さも当たり前のように、言われたそれに少しだけ照れた半兵衛の頬が僅かに染まるのを三成は見逃さなかった。半兵衛は、彼女と居る時だけは殊更表情が柔らかくなる。

「三春君は本当に優秀で助かっているよ」
「恐悦至極に御座います」

仕返しのように褒めて返せば、彼女は本当に嬉しそうに瞳を細めて笑うので、半兵衛だけでなく三成までもが僅かに頬を染めてしまったことは秘密である。



とある日、ふらふらと廊下を進む三成を見つけ三春が何事かと声をかけようと近付いたところ、ぱたりと目当ての人物が倒れてしまって慌てて駆け寄ると、いつもの如く無理のし過ぎが祟ったようだった。仕方がないと周りに声を掛けてテキパキと指示を出す彼女を吉継だけがそっと見ていた。

「だからきちんと寝食をとってくださいと申し上げましたのに」
「・・・しかし、」
「しかしではありません、役に立ちたいとは言っても倒れてしまったら元も子もないでしょう」
「う・・・」

死んだように眠った三成が目を覚ますと彼女は既に横で待ち構えていて、テキパキと胃の腑に優しい食事を与えられまた寝かしつけられ、小言を言われながらもそうして監視されながら三日間も規則正しく過ごせば三成は肌の色だけは健康的に回復していた。

「三成様、貴方が倒れる頻度とそれまでの日数と、この数日の熟したお仕事の量とを比べて考えてみてくださいませね。倒れない方が効率が良いのですから、きちんと普段から寝食を摂ってくださいな」
「・・・善処する、」

倒れる度に半兵衛から受けている説教を今回はよもやこの人から受けることになろうとはと項垂れる三成の耳に、襖の向こうで引き笑いを(恐らく)一生懸命堪えている吉継の息遣いが届く。

「刑部ッ!!」

バレては仕方がないと涙すら浮かべながら入室してきた彼は三春の側に座して未だ収まりきらぬ引き笑いをなんとか落ち着かせながら彼女を横目で見ていた。

「ほんに主はよく気の利くナァ。まるで医家か薬師のよう」
「実家の近くの薬師のおばあさまに通って教わっておりましたから、知識はあると思います」

ぬらりと怪しげに見つめる白黒反転した瞳。常の女であれば顔を引きつらせたり酷い場合は背けたりするが、彼女はちらりと見ても興味の無さげに、それから視線は吉継の身体の方へ向く。その病の具合を見るかのような、けれど決して核心には触れぬそれを吉継は暴いてやろうと常々思っているのだが。

「ほう、この間の塗り薬はそこの」
「ええ、吉継様のお身体に合えば良いのですが」
「まだ使い始めたばかりユエ、分からぬナァ」
「それではまた暫くしてからお尋ね致します」

恐らく、半兵衛関連で身分を明かしたくないのだろう。あの賢人は自分の弱味を他者に見せることを悉く拒む。そうであろうと分かっているから、吉継の方も彼女を突つくだけして核心には触れぬのだけれど。

「主が来てから調子が良いユエ、あの薬もきっと効くであろ」
「それは良う御座いました」

そうして微笑むそれが柔らかく、心地が良いから。吉継にしては珍しいことに、彼女が此処に居られなくなるような事など出来そうに無いのだ。



今日は久しぶりに調子が悪いと思ったら、朝一番に顔を合わせると直ぐに怖い顔になってしまった彼女に今日の仕事を全て取り上げられた。

「何故、そんなに顔色が悪いのですか」
「・・・君が居なかったから、」

三成が倒れたからと、三春に三成を監視するように申し付けたのは他でもない半兵衛であるというのに。それとこれとは話が別で、彼女がいないと欲しいものも直ぐに出て来ないから仕事の効率も落ち、それでイライラとしても声を掛けてくれる存在がいなくては解消も出来ず、よって遅くまで起きている事となり、翌日も身体が重く効率はさらに下がる一方で、と彼女が来る前は当り前のように熟していた筈のそれらが熟せなくなっており、以前まではいかに身体に負担を掛けていたのかを理解するに至る。

「・・・そんなことで、治療が終わったらどうするのですか」

仕方のないひと、と小さく零された文句はその一言だけで、彼女はいつものように半兵衛の背に手のひらを添える。それだけで如何して楽になるのかと、尋ねても彼女はいつも曖昧に微笑むだけ。
病が治るのは、願ってもない事ではある。けれど、ずっとこのままでいれば彼女と共に在れるというのであれば、それを願わずにはいられないというのも半兵衛の中にこそりと存在する心であって、

「まだまだ三春君には苦労をかけるね」

口にせぬまでも、彼女が離れていかないように。治療が終わってしまった時の逃げ道を塞ぎ、彼女を己へ縫い止める為の策を、得意の軍略でもってひっそりと練り上げるのだった。

20180206修正



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