赤井さんがやって来た

ピンポーン

ある日の昼下がり。忙しくない仕事をゆるりと続けていた千歳は、来客の予定はなかったけどなと首を傾けた。

「はい」
『赤井だ』
「あ、お隣の。いま出ますね」

お隣の兄妹は、お兄さんが頻繁に仕事でアメリカへ行くらしい。なので妹に何かあったら頼むと言われていて、まあ特に変わったところも無いのだがなるべく気にかけるようにしていた。家事は問題ないようなので、偶にお菓子を差し入れしたりして妹の真純とはかなり仲が良くなっている。千歳が引っ越して来てから直ぐに向こうへ飛んでしまった兄の秀一とは、会うのは最初の挨拶ぶりであった。
三ヶ月近くあけていた事になるだろうか。零ではないが、皆忙しそうである。

「こんにちは。お帰りなさい」
「・・・ああ、ただいま」

日本へは久しぶりだろうからと選んだ言葉は、きょとんとした顔で返された。けれどその直後にゆるりと解けたように瞳が柔らかくなって、ああこの人はこんな風に笑うのかと心が温かくなる。

「いつも真純がすまない。これ、土産なんだが」
「ありがとうございます。真純ちゃん良い子ですから、俺なんか何にも。よろしければ上がって行かれますか?」
「いいのか?」
「はい、今日は忙しくないので」

赤井を部屋に通して、一度仕事部屋に引っ込むとデータの保存だけしてしまう。後ろからひょこりと顔を出した赤井は、興味深げに千歳の仕事部屋を見回していた。

「cadか」
「はい。在宅で引き受けて幾つか抱えてるんです」

モニターが二つ並ぶデスク、机の両脇には本棚があり専門書が並んでいる。壁には古い手描きの図面が飾ってあり、小さな模型も幾つかあった。

「すごいな」
「散らかっててすみません…こちらへどうぞ」





通された部屋で、赤井は鼻歌でも歌いそうな雰囲気でコーヒーを淹れている千歳を見ていた。ゆるゆると解れていく疲れに、いま自分は癒されているのだと自覚する。彼は最初に会った時から、何処か不思議な雰囲気で、近くに居たいと思わせる何かがあった。温かな空気は彼独特のもので、帰国して直ぐにここを訪れたのは正解だったと頬を緩める。

「はい、どうぞ。…あ、このお菓子知ってます。美味しいですよね」

赤井の持ってきた土産を茶受けに開けながら、コーヒーに息を吹きかけては口をつけて失敗している。猫舌らしい彼にまた表情が緩むのを自覚して、自分も一口飲んでみる。この温度なら余裕なのだが、それでも彼はまだ飲めないらしかった。

「暫くはお休みなんですか?」
「いや、こちらはこちらでやる事があるんだ」
「お忙しいんですね」

あんまり無理しないでくださいねと、眉を下げて笑う彼の表情に、手を伸ばしたくなる。まだそんなに親しくなってはいないのだからと踏み止まって、違うところに意識を逸らそうとさっきまで彼が立っていたキッチンを眺めた。それで気が付いてしまった、伏せられたままの揃いの食器や、二組の箸。此処へは誰かが来るのだろうか?彼以外の生活感はキッチン以外には見当たらなくて、リビングのインテリアからも想像できる人格は一人だ。食事だけ作りに来てくれる彼女でもいるのだろうか。そうであればかなり残念だ・・・と、そこまで考えて彼にハマりかけていることに苦笑した。

「普段、誰か此処へ来るのか?」

それとなく聞こうと思ったのに直球になってしまったのは、それだけ余裕が無いことの表れだろうか。千歳は不思議そうに首を傾けて、赤井が指した先に視線を向ける。二つずつある茶碗や食器の数々に、ゆるりと瞳を細めた様におや、と目を見張った。…これは、つけ込む隙は無いかもしれないな。

「ああ、あれは零さんが…」
「“零さん”、?」

聞き捨てならない名前が聞こえた気がして、赤井は思わずズイ、と前に出た。

「・・・それはもしかして、降谷くんのことか」

違うと言ってくれと、赤井の内なる懇願は奇しくも崩れ去る。

「そうなんです、反対隣の降谷零さん。仲良くさせていただいていて」

此処へ来て一番柔らかく微笑む、その表情に胸の奥がチリチリと焼けるようだ。自分がアメリカで仕事をしている間に彼が、千歳と時間を過ごしていたなんて。
普段は彼の方が赤井に何かと噛み付いてきて赤井の方は何処吹く風と流している関係だが、こればかりは別である。欲しかったものを横から掻っ攫われた気分に赤井の中の闘争心が疼く。

「食事を共にしているのか?」
「はい。零さん、お忙しいみたいで普段あんまりまともに食べていないらしくて。落ち着いた時くらい、きちんとしたものを食べて欲しいなと思って」

俺も一人じゃ寂しいですし、と微笑む彼は、やっと飲める温度になったコーヒーを口に含む。礼なんて要らないと言っているのに何かしたいらしくて、食器を買ってきたり美味しい酒を持ってきたりしてくれるらしい降谷の話を千歳から聞くのは、腹の底がドロドロと戦慄くようだった。

「ホー…降谷くんが羨ましいな」
「今度、秀一さんもいらっしゃいますか?真純ちゃんも連れて。いつも零さんが来てくれるわけじゃないですし、みんなで食べても楽しいですし」
「真純に言っておこう」
「是非」

悪いな降谷くん、張り切って邪魔をさせて貰おう。
そんな不穏なことを赤井が考えているなどと、目の前の千歳は一切知らないのだった。



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