チロと初めて出会ったのは、満月が幼稚園に通い始めた頃だった。
やっと自分ひとりで歩き回ることもでき、大人たちの監視も少なくなってきた。
好奇心旺盛だった小さな満月は、神社の裏側で遊んでいるときにふと見えた銀色の尻尾に顔を上げた。
それは一瞬で視界から消えたが、何かに引き付けられたように満月はその後を追いかけて裏山へと入っていった。
町の中で唯一小高い山に立っている大上神社。
そこの裏はそのまま裏山と呼ばれ、名義上は大上神社の所有地だったが、神聖な地として足を踏み入れる者はいなかった。
人の手が入っていない森は鬱蒼としていて、一度入れば大人でもすぐに迷ってしまう。
そんなことも知らずに森へと入ってしまった幼き日の満月も、例に漏れずすぐに迷ってしまった。

「ぎんいろー…?」

先日覚えたての色の名前を呟きながらてくてくと足を進める。
生い茂った木々は昼過ぎの時間帯にもかかわらず頭上の太陽光を遮断し、森の中はまるで夜のような暗さだ。
その上不安を助長するような木々にざわめき。謎の動物の鳴き声。
それを5歳も満たない小さな女の子が耐えられるはずも無く、

「う、うぇ…ふぇーん…!!!」

すぐに泣き出してしまった。
しかしもとより人の少ない神社、さらに森に入ったとなればそれに気付く大人はいなかった。

「ふぇーん!怖いよぉーっ!パパーっ、ママー、ばぁちゃーッ!!!」

大声でボロボロと涙を零し泣き叫ぶ少女の目に、ふと銀色がよぎったのは次の瞬間だった。

「ぎんいろ…!」

パッと泣き声が止み、茂みの間で揺れた銀の尻尾を追うように満月は一直線に走る。
そして茂みを掻き分けた先にいたのは、一匹の犬だった。

大きな図体とは裏腹に、可愛らしく潤んだ大きな黒目。
薄く開いた口からは鋭い牙が覗くが、不思議と満月がそれに恐怖心を抱くことはなかった。

「ぎん!ぎんいろ!わんちゃ!わんちゃん!」

必死に犬に触れようとする満月だがなぜか前に進めない。
実は茂みをくぐる際に服が枝にひっかかってしまったのだが、当人はそんなことに気付くはずも無く前に進もうと無理やり引っ張る。
それを見かねたように犬はのっそりと身体を起こし、満月に近づいた。

「ぎん!ぎん!」

近づいてくる綺麗な銀色にキャッキャと嬉しそうに笑う満月。
犬はその目元に溜まった涙を舌で掬い、ついでにその頬を軽く舐めた。
それにも楽しそうに笑う満月に犬も楽しそうに尻尾を振り、満月の後方に回ってその服を口で銜えた。
満月を一度銜えた状態で持ち上げると、枝でひっかかったところもはずれ、そのまま地面に下ろす。

突然訪れた浮遊感に対しても満月はただ楽しそうに笑うだけで、まったく泣き出すことはなかった。
犬は満月がちゃんと立った事を確認するとどこかに向かって歩き出す。
それを慌てて追いかける満月を確認しながら進んでいると、いつのまにか神社の裏庭が見えていた。

「あんがとっ」

舌足らずな調子で言う満月に犬は向き直る。
その時ふと満月が犬の口元に手を伸ばし、こともあろうか薄く空いたその口の間に小さな手を差し入れた。

「あったかぁ!」

やっぱり楽しそうに笑う満月に犬は心なしか困ったようにその手を口から出そうとする。
下手に動いてはその鋭い牙で満月の手を傷つけてしまうと思ったのか、犬はその大きな舌で手を外へと押し出した。
しかしまたもや満月は手を入れてくる。
それをまた犬は舌で押し出す。
その繰り返しをしていると、満月は今度はまた謎の言葉を発しだした。

「ちろ!ちろちろ!」

やっとのこと犬の口から手を抜いた満月は、もう片方の手を犬の頭にのせてポンポンと撫でた。

「あんがとっ、ちろっ!」

これが銀の毛並みを持つ犬チロと満月の出会いだった。


* ... * ... *



「ねぇ、満月!ここにあったハサミ知らない?さっきまであったはずなんだけど」

「あ、ごめん!さっき京ちゃんが探してたから貸しちゃった!」

「あぁいいよいいよ!満月は優しいからね!」

「悪ぃ、梓。けど俺はもう使い終わったぜ。今、清水が使ってる」

「返せぇぇぇ!!!清水ぅぅぅ!!!」

「え、僕なんか扱いひどくない?ちょっとこの前からひどくない?」

神社の中の広間では特に親しいクラスの友達が集まって衣装を作っていた。
みんながワイワイ騒いでいる様子に笑いながらも、満月は神社の倉庫にハサミがなかったかを考えていた。

「確か倉庫に裁縫セットがいくつかあったと思うから、ちょっと見てくるね」

「え、そんないいよ別に!このバカが使わなきゃいいだけの話しだし!」

「あーっ、梓ちゃんが押すから吸血鬼のマントに変な切れ込み入ったーっ!」

「けっ、いい気味よ」

いつの間にか苗字から名前呼びになっている梓と清水の仲に「おや?」と思いながら、満月は静かに広間を出た。
すると先ほどまでの騒ぎが嘘の様なシンと静まり返る廊下。
そこを歩いていると、裏庭にある倉庫に辿り着いた。

「………チロ…」

やっぱりここに来ると、ダメだ。
チロとの思い出が多すぎる。

倉庫に手をかけたまましゃがみこんでしまった満月の足に、ぽたぽたと熱い雫が落とされる。

ねぇ、チロ。どこいっちゃったの。
なんでいつもみたいに会いに来ないの。
いつも私が泣いてたら慰めてくれたじゃない。

なんで、いないの。

どんなに涙を流しても、それを掬ってくれる暖かい感触は訪れなかった。
鼻を啜ってなんとか自分で泣き止み、満月は倉庫へと入っていった。

やっぱり、チロはもう、いないんだ。

諦めにも似た感情が胸に広がる。

思えば、チロは満月が初めて出会ったときから図体が大きかった。
それなのに愛嬌のある瞳と、口元からちらちらと覗く赤くて暖かい舌が印象的。
自分を傷つけないように幾度も手を押し出すために見えたちろちろと動く舌が面白くて、そのまま"チロ"と名づけてしまったのは今も満月のみぞ知ること。

「私が4歳くらいのときに、もうあんなに大きかったんだから、きっと相当の年のはずよね…」

倉庫を探っているといろんなものがでてくる。
初めて色の名前を覚えたクレヨンは、銀色だけが他のと比べて異様に短くなっていた。
その後にでてきたのはたくさんのおえかき帳。
そのページはほぼ全て、銀色の犬とピンクのスカートを着た女の子で埋められていて、犬なのになぜか立って手を繋いでいる絵には我ながら少し笑ってしまった。

今年で高校2年、17歳になる満月。
単純計算でいくと、チロは最低でも15年は生きていることになる。

チロの犬種もわからないくらい、犬についてまったくの無知だった満月だが、さすがに15年が犬にとって長生きであることは想像がつく。
なんせチロは確実にそれ以上を生きているはずだから。

「もう待ってても、無駄なのかな…」

ようやく裁縫箱を見つけて倉庫を出たときには、夕陽が照っていた。
慌てて広間に戻ると、みんなは相変わらずバカ騒ぎ。
衣装作りもまぁまぁはかどってはいるようだ。

ハサミをみんなに回しながら、満月はみんなに混ざって大騒ぎをして、大笑いをした。
何かに夢中になっていないと、今にも涙がこぼれてしまいそうだったから。

それを拭ってくれる彼は、もういないのに。