優しい味
昨日の朝から少し喉に違和感があった。いつもと同じ味付けにしたはずなのに、いつもより味が薄く感じた。春らしく暖かい陽気だったはずなのに寒気がした。
思い返せば兆候はいくつもあったけれど、その時のちさきはすべて気のせいだと思おうとしていた。だって、心配をかけたくなかったから。迷惑になりたくなかったから。

なのに、とちさきは起きてすぐに布団の中でため息をつく。
身体が熱い。頭が痛い。息が苦しい。気持ちが悪い。
体温を計らなくても自分が発熱しているのはわかった。
起き上がるのも億劫で、このままずっと寝ていたい。でも、そんな甘えたことを言っていいはずがない。

(朝ご飯、つくらなきゃ……)

ちさきはゆっくりと布団から出て、身支度をしようと押し入れを開けた。つい癖で制服を手にとってしまってから、春休み中であることを思い出しハンガーに戻す。代わりにラフなTシャツとパンツに着替えて部屋から出た。

階段を降りると、台所の方から物音が聞こえてきた。もしかして、と焦って――気持ちとは裏腹に身体はひどく重かったけれど――土間に向かう。廊下の柱にもたれて台所の方を覗くと、料理をする紡の背中が見えた。

「ごめん……料理当番、私なのに……」

謝る声は掠れていたけれど、ちゃんと届いたらしく、紡が少し肩を跳ねさせて振り返った。その目が見開かれたかと思うと、眉を寄せて近付いてくる。

「紡……?」

「具合、悪いのか?」

「あっ……」

当然のように見抜かれて、思わず目を逸らす。
「……大丈夫」と、なんとか絞り出した声はか細くて、ますます心配そうな顔をさせるだけだった。

「そんな顔色で大丈夫なわけないだろ。家のことは俺がやるから、お前は休め」

「でも……それじゃ……」

ただでさえ紡と勇には迷惑をかけてしまっているのに。
家事をするくらいしか返せるものがなくて、それすらたいした力にはなれていないのに。

頭が痛い。息が苦しい。もう一度大丈夫と言おうとしたけれど、口からは喘ぐような呼吸しかでてこなくて、目眩がした。

「ちさき!」

力が抜けてふらついた身体を受け止められる。廊下の奥から勇の声がして、紡がなにか返しているが、うまく聞き取れない。
はやく立ち上がらないと。平気だって言わないと。
なのに、身体に力が入らない。熱い。苦しい。痛い。
ただ切れ切れの息の間に何度もごめんなさいと繰り返す。次第に意識が遠のいていく。その間、誰かが優しく背を擦ってくれた気がした。


******


目を覚ますと、いつの間にか自室の布団の上に戻っていた。先ほどのことは夢だったのではないかと疑うが、起き上がろうとした拍子に額から乾いたタオルが滑り落ちて、現実だったと思い知る。きっと紡と勇が布団まで運んでくれて、看病してくれたのだろう。
布団の上に落ちたタオルを手にとって、ちさきは目を伏せる。結局迷惑をかけてしまった自分が情けなくて申し訳なかった。

「よかった。目、覚めたのか」

ふいに聞こえた声に顔を上げると、開かれた障子戸から紡がそっと中に入ってきた。枕元に腰を下ろし、腕に抱えていた桶を置く。桶に汲まれた水には塩が混ざっているらしく、海のような匂いがした。

「熱があるとエナが乾きやすくなるって、じいちゃんが言ってた。それで、酸欠になったんだろうって」

「そう、なんだ……」

どうりで、ただの風邪にしてはやけに息苦しいと思った。
寝ている間にエナを濡らしてくれたらしく、先ほどよりは息がしやすい。熱は下がっていないようだが、少しは楽になったような気がした。

「あの……ごめんなさい」

「謝らなくていい。俺もじいちゃんも迷惑なんて思ってないから」

「でも……」

もう一度謝ろうとしたけれど、紡の顔が曇って、それ以上なにも言えなくなってしまった。代わりの言葉も熱で働かない頭ではでてこなくて、嫌な沈黙が部屋の中に落ちる。
と、紡がちさきの手からそっとタオルをとって、桶の中に浸けた。ちゃぷちゃぷ、と何度か水音がして濡れたタオルが引き上げられる。それを紡はちさきに差し出した。

「まだそんなに乾いてないだろうけど、一応」

「えっ……あ、ありがとう」

戸惑いながらも受け取って、濡れたタオルを火照った頬に押し当てる。海の匂いが一段と強くなり、エナが潤っていく。熱を持った身体には水の冷たさが心地いい。なんだか落ち着く。ここは地上だけど、少しだけ海の中を思い出す。
だから、きっとそのせいで気が緩んでしまった。

「薬もあるけど、その前になにか腹に入れた方がいいな。……なにか食べたいものあるか?」

そう紡に訊かれた時、いつもは胸の奥底に押し込めていた願いが零れ出てしまった。

「……お母さんの、ごはん」

紡が目を見張る。
あっ、と我に返った時には遅かった。紡の顔が痛ましげに歪んで、ちさきは必死にさっきの言葉を取り消そうとした。

「ごめ……ちが……違うの」

言葉がつっかえて、うまくでてこない。そんな傷ついた顔をさせたくないのに。もう充分すぎるほどよくしてもらってるのに。
目頭が熱くなって、視界が歪む。上手に息ができない。

「ちさき」

その時、そっと優しく背中に手があてられて、落ち着かせるように穏やかな声で名前を呼ばれた。

「お前、風邪の時いつもなに食べてた?」

「えっ……おかゆ。梅干が入ってるの」

突然真剣な顔で訊かれ、ぽかんとしながらも答える。紡は、わかった、と頷いて立ち上がった。

「寝てていいから、ちょっと待ってろ。つくってくる」

呆気にとられたまま部屋から出ていく紡の背を見送る。
少し悩んでから、ちさきは布団に横になった。こんなに甘えてしまっていいのだろうかと不安になるが、なんだか妙に気持ちが悪くて起きていられそうになかった。

すぐにうつらうつらして、見るともなしに窓の方を眺める。朝起きた時に開け忘れていた窓障子は閉まったままだった。おかげで窓一面に青い魚が泳いでいる。もちろんそれは障子に描かれたただの絵なのだけれど、熱のせいか、夢でも見ているのか、ちさきには本当に泳いでいるように見えた。

海村にいた頃も、熱をだした時はよくこうして窓の外を泳ぐ魚をぼんやりと眺めていた。
そのうちにお母さんが様子を見にきてくれて、梅干のおかゆやりんごを食べさせてくれた。風邪の時のお母さんはいつも以上に優しくてたくさん甘えさせてくれて、お父さんもいつもよりはやく帰ってきて大きな手でそっと頭を撫でてくれて――。

その時、床板の軋む音が聞こえた。

「お母さん……?」

呟いてしまってから、そんなはずはないと頭を振る。ここは地上で、よく見れば窓障子の魚は泳いでなんてなくて、お母さんもお父さんも海の底で眠っていてここにはこない。

ちゃんと目を覚まして起き上がる。
と、障子戸の向こうから「ちさき」と呼びかけられた。紡の声だった。

「入ってもいいか?」

「うん……」

障子戸を開けて入ってきた紡の手には皿やコップののった盆があった。本当に粥をつくってきてくれたらしい。
紡は枕元に盆を置くと、自分も腰を下ろしてじっとちさきの顔を覗き込んできた。

「どっか痛むのか?」

「えっ?」

「泣いてたから」

驚いて頬に触れると、確かに濡れていた。慌ててちさきは涙を拭う。それから紡に向き直り、力なく微笑んだ。

「大丈夫。多分、熱のせいだから」

「そうか……」

気遣わしげに眉を寄せ、紡はゆっくりと手を伸ばしてきた。どこか躊躇いがちに指先が額に触れる。それは母の手のように柔らかくはないし、父の手ほど大きくもない。けれど、触れられたところから苦しみが和らいでいくような気がした。

「朝よりはましだけど、まだ熱いな」

独りごちるように呟くと、紡はそっと手を離した。なんだか名残惜しくて、思わず紡の手を目で追ってしまう。その手が盆の縁を掴んだ。

「つくってきたけど、食えそうか?」

「うん、ありがとう。いただきます」

そっと手渡された粥を受けとる。真ん中には梅干が一つのっていて、見た目は母がつくってくれた粥とよく似ていた。
スプーンで少しすくって口に運ぶ。口の中に広がった味は母がつくってくれたものとは違った。
でも、

「……おいしい」

ぽつりと呟くと、「よかった」と紡がかすかに表情を緩めた。
ちさきを見つめる眼差しは優しくて、胸の奥底からなにかが込み上げてくる。

ここは海と違って塩水で満たされてなくて、油断するとすぐにエナが乾いてしまうのに、窓の魚はただの絵で、どれだけ待っていてもお母さんもお父さんもこないのに、触れる手もおかゆの味も全然違うのに、どうしてこんなにも胸があたたかくなるのだろう。どうしてこんなにも優しくしてくれるのだろう。

もう一度粥を口に運ぶ。あたたかさが胸に沁みて、泣きたくなった。
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