優しい味
最近、なんとなく身体が怠い気がしていたが、帰省早々熱を出して寝込むことになるとは思わなかった。
布団の中でぼんやりと天井を見上げ、紡は嘆息する。
ここ数年は風邪をひいても少し咳がでるくらいだったから油断した。先ほど三十八度を越えた体温計を見たちさきに「だから、床とかソファでごろっと寝ちゃだめって言ったのに」とぼやかれたが、まったく反論できなかった。
「紡、入ってもいい?」
「ああ」
障子戸越しにかけられた声に上体を起こして返事をすると、戸が開いて手に盆をのせたちさきが入ってきた。盆を枕元に置き、ちさきも腰を下ろす。盆の上には梅干の粥があった。
「具合、どう?」
「そんなに心配しなくても、寝てればすぐによくなる」
「だと、いいけど」
ちさきは心配そうに顔を覗き込むと、そっと紡の額に手をあててくる。ちさきの手はひんやりとしていて心地いい。慣れ親しんだ柔らかな感触に痛みが和らいでいく気がする。「まだ熱いね」と離れていくと、少し惜しく感じるほどだった。
「こっちに帰ってきてる時でよかったけど。都会まで看病しにいくのはなかなか難しいから」
ちさきは苦笑を浮かべて、ついと粥に視線を落とした。
「おかゆつくってきたけど、食べられそう?」
「ああ、貰う」
そっと手渡された粥を受け取り、いただきますと軽く手を合わせる。スプーンですくって口に運ぶと、ちさきがつくるものとも自分がつくるものとも違う味がした。
「そのおかゆね、お母さんにつくり方を聞いたの。昆布茶で味付けしてあるから、味が薄くても食べやすいんだって」
嬉しそうに唇を綻ばせて語るちさきに、昔のことを思い出す。熱を出したちさきが“お母さんのごはん”が食べたいと漏らした時のことを。
あの時、ちさきが望んでいたのはこの味だったのか。
「そうか、全然違ったな」
自嘲するように紡は零す。
ちさきはふっと笑みを漏らして、穏やかに目を細めた。
「でも、私、紡がつくってくれたおかゆも好きだよ」
その一言だけで、報われたような気がした。
あの頃してやれたことはほとんどない。ちさきの痛みを取り除いてやりたくても方法がわからず、自身の無力さを噛み締めるばかりだった。それでも、この笑顔に繋がっているのなら、無意味なことではなかったのかもしれない。
無性に愛しさが込み上げてきて、無意識にちさきに手を伸ばす。だが、風邪をひいていることを思い出し、途中で引っ込めた。
傍からは妙な動きに見えたのだろう、ちさきが目を瞬かせた。
「どうかした?」
「キスしたくなったけど、うつるから」
正直に答えると、ちさきの顔がみるみるうちに赤く染まっていった。
「ばか、急に変なこと言わないでよ」
ちさきは唇を尖らせ、顔を背けてしまった。それでもじっと見つめ続ければ、ちらちらとこちらを窺ってくる。やがて、仕方なさそうに紡に向き直り、華奢な手を伸ばしてきた。
そっと頭を撫でられて、柔らかな感触と花のような甘い匂いに包み込まれる。驚き顔を上げると、目の前に気恥ずかしげに揺れる海色の瞳があった。
「続きは、治ったらね」
そっと耳元で囁かれる。
風邪をひいたことは今まで何度もあるが、これほどまでにはやく治そうと思ったのははじめてのことだった。