なんでもない日
ぱち、ぱち、と駒を打つ音が背後から聞こえてくる。規則的に響いていたかと思いきや、時折間が空いたりして、対局している勇と紡の表情まで見えるようだった。
洗い物をしながら背中で二人の対局を聞いていたちさきは、人知れず笑みを浮かべた。

勇が入院してからずっと、紡がいてくれたととはいえ、この家に大きな穴が空いたような気がしていた。そこから吹き込む風は酷く寒々しかった。紡が大学に通うために家を出てからは、その穴もさらに広がり、一人で家にいると虚ろな気持ちになったものだ。
けれど、先日ようやく勇が退院してくれて、空いていた穴も塞がった。二人が帰ってきてくれたことで、もとの穏やかで、陽だまりのようにあたたかな家に戻ったのだ。
勇と紡が揃ったこの家は、やはりとても安らぎを覚える。紡はもうすぐ大学に戻らなければならないから、この日々もずっと続くわけではないけれど、だからこそ、より一層愛しいものに思えた。

洗い物が終わると、からからと駒のぶつかる音が聞こえてきた。夕飯前から続いていた長期戦が、ようやく終わったらしい。振り返ると、駒を箱に片付けていた。
盤と箱を脇に置き、勇が「風呂に行ってくる」と立ち上がる。その足音が聞こえなくなってから、紡がこちらにやってきた。ちさきは茶を淹れて湯呑に注ぎ、紡に手渡した。

「お疲れ。どうだった?」

「負けた」

肩を竦め、紡は茶をすすった。
ちさきは苦笑した。

「やっぱり、おじいちゃんの方が強いね。入院中、暇だからって、よく詰将棋とかしてたし」

ちょっと顔を顰めて、紡は畳の上に腰を下ろした。さらに苦笑を深くして、ちさきも自分の湯呑に茶を注いで隣に座る。
しばらく静かに茶を飲んでいたが、ふいに紡が湯呑を置いた。

「あのさ、明日、空いてるか?」

「とくに予定はないけど」

「なら、 じいさんの退院祝い、買いにいかないか?」

紡の提案に、ちさきはぱっと顔を明るくした。

「いいね、それ」

「じゃあ、明日の昼から」

「うん。守鏡まで行くんだよね?」

確認すると、紡は当然のように頷いた。


******


(もしかして、これってデートになるのかな?)

約束した時はなにも思わなかったのに、当日、それも昼食を作っている時に、ふと、そんな考えが浮かんでしまった。
紡と二人で出かけたことは、これまで何度もあった。けれど、その時と今では関係が違う。その時の紡との関係は家族だった。それはこれからも変わらないと思っているけれど、今は家族であると同時に恋人でもあるのだ。恋人と二人きりで出かけるなら、それはデートになるのではないだろうか。

(でも、今日はおじいちゃんの退院祝いを買いにいくだけだし)

目的から考えるなら、家族として同行を頼まれただけに思える。けれど、意外にも抱き締めてきたりキスしてきたりと、素直に恋人らしいことをしてくる紡だ。退院祝いの購入のついでに、というのもあり得ない話ではない。
もしも、紡が本当にデートのつもりで誘ってくれたのだとしたら。

ぐるぐると悩みながらも無意識のうちに昼食を作って勇と紡と食べてから、ちさきは自室の姿見の前に立った。
はじめて守鏡に行った時は気合いを入れてお洒落をしたものだが、そこまで気負う必要のない場所だと気付いてからは普段通りの格好で出かけるようになっていた。今日の服装だって、いつもと同じような私服だ。変な格好ではないとは思う。だが、デートに着ていくにしては些か地味かもしれない。

「……よし」

少し迷ってから押し入れを開け、ハンガーにかけられた服を漁る。
紡はどんな服が好きなのだろう。
これまで紡と過ごしてきた記憶を探ってみるが、なにを着ても似合うかと問えば「似合う」と答えられ、どっちがいいかと問えば「どっちでも」と返されてきたことを思い出し、なにも参考にならないとため息をついた。

悩みに悩んで、黄色のニットと白のフレアスカートを手にとる。
一応紡に選んでもらった――いつものように「どっちでも」と答えた紡に「それはなし」と無理矢理選ばせた――ものだ。
選ばせたくせに、どうしてか紡の前で着るのが気恥ずかしくて仕舞い込んでいたけれど、せっかくの機会だ。きっと紡は覚えていないだろうけど、着ていってみよう。

着替えて――髪も簡単にだが纏めて――階段に向かうと、すでに下で紡が靴を履いて待っていた。ちさきは慌てて階段を降りた。

「ごめん、待たせちゃって」

「いや、まだ時間はあるから」

と、言いながら振り返って、紡は不思議そうに瞬きをした。

「着替えたのか」

「へ、変かな……」

「いや」

否定はしてくれたが、それ以上なにか言ってくれることもなかった。
いつもと同じような反応だが、変に気合いを入れてしまった分拍子抜けしてしまう。意識してたのは自分だけなのかもしれない。

靴を履きながら、いつもと代わり映えしない格好の紡を見上げる。
いつもと同じ平静な横顔が、なにを考えているのかわからない。昔よりはわかるようになったけれど、未だにわからないことも多いのだ。五年も一緒にいたのに、こんな関係になって、はじめて知ったことだってたくさんあった。
わからなければ訊けばいいだけなのだけど、ただの自意識過剰だったらと思うと、いたたまれなくて躊躇してしまう。
結局わからないまま、落胆を隠して紡についていくしかなかった。

作業場で漁網を繕っていた勇に「いってきます」と声をかけ、駅に向かう。
変に意識しないようにと思うのに、歩いている間も、電車に乗ってからも、いつもより距離が近いような気がして鼓動が速くなった。触れそうで触れない肩から紡の体温を感じる。前はこんなんじゃなかったはずだ。それとも、意識してしまっているから、いつもなら気にならないことが気になるだけなのだろうか。

「――き、ちさき」

「ひゃっ」

突然、大きな手に肩を掴まれて、大袈裟なくらい跳び上がってしまった。
どうした、と心配そうに顔を覗き込まれ、その近さにまたどきりとしてしまう。うるさい心臓を鎮めようと胸の上に手を置き、深呼吸をした。

「ごめん、ちょっとぼーっとしてた。なにかあった?」

「退院祝い、海明堂のカステラにしようと思うんだけど」

「あっ、私も同じこと考えてた。おじいちゃん、あそこのカステラ好きだったもんね」

「他の好物も考えたけど、酒のつまみばかりだしな」

苦笑を浮かべた紡にちさきも同意した。退院したら好きなもの好きなだけ食べていいから、とは言ったが、酒はまだ控えた方がいいだろう。
そんなことを話していると、不思議と妙な緊張が解れていった。一番の目的は勇の退院祝いなのだから、まず考えることはそれだけでいいのだ。そう思うと、少し気が楽になった。
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