なんでもない日
守鏡駅で降り、海宝街へ向かう。海村を思わせる建物が並んだ通りをしばらく歩くと、「海明堂」と書かれた看板が見えた。
中に入ると、ショーケースに並べられた和菓子の数々が目を惹く。買う物は決まっているのに、つい目移りしてしまいそうだ。
「あっ、カステラ、新しく抹茶のもでたんだね」
「へえ、そっちもうまそうだな」
ちさきは紡と顔を見合わせた。
勇が好きなのはプレーン味のカステラだ。けれど、抹茶味にもひどく心が惹かれる。鮮やかな緑の生地は美しく、味も品のよいものなのだろうと思わせる。勇も抹茶が苦手なわけではないし、気に入ってくれるかもしれない。
「二つとも、買っちゃう?」
「買うか」
二人して仕方なさそうな顔をして、プレーン味と抹茶味のカステラを一本ずつ購入した。
お祝いなのだ。このくらい奮発したって、ばちは当たらないだろう。
「おじいちゃん、喜んでくれるといいね」
「そうだな」
店内には小さいながら飲食できるスペースがあったので、休憩がてら気になっていたどら焼きと緑茶を頼んで席についた。
少しずつ暖かくなってきているとはいえ、外はまだ肌寒く、熱い緑茶が内側から身に染み渡る。どら焼きもふんわりとした生地と上品な甘さの餡が合っていて、驚くほど美味しかった。思わず「退院祝い、こっちでもよかったかも」と呟いてしまい、紡に優柔不断だと苦笑された。
「だって、これもすごく美味しいじゃない」
「確かにうまいけど」
そんな他愛もない会話をしながら、ゆっくりと甘味を味わう。
充分に人心地ついて店をでると、紡が腕時計を確認して片眉を上げた。
「次の電車がくるまで、まだかなり時間あるな。他に買いたい物とかあるか?」
とくにない、と答えかけ、ちさきはあっと声を上げた。
「そうだ、アルバム」
「ほしいのか?」
「お母さんたちに、こっちにきてから撮った写真を見せたらね、ほしいって言うから焼き増ししたんだけど、せっかくだから、ちゃんとアルバムにして渡そうかなって」
話してる途中から向けられる眼差しが優しいものになって、無性に照れ臭くなった。つい癖で毛先を弄ってしまう。
紡は柔らかに目を細め、
「じゃあ、買いにいこう」
と、ちさきの手をとって歩き出した。
自分のとはまるで違うごつごつとした手に包み込まれて、心臓が跳ね上がる。鼓動がうるさくて落ち着かない。けれど同時に、繋がれた手の大きさとぬくもりに安心する。
紡と恋人になってから、いや、認められなかっただけで本当はずっと前からこうだ。一緒にいると落ち着いて、なのに些細なことにもすぐ胸が高鳴って、もう自分で自分がわからない。
自分のこともわからないのだから、紡のことなんてもっとわからない。
どうして、こんなことをするのか。どういうつもりで、こんなことをしているのか。
近くの雑貨屋の前につくと、扉を開けるために手を離された。思わず、ちさきは名残惜しげに紡の手を見つめてしまう。
もう片方の手は海明堂の紙袋で塞がっているから仕方ないとわかっているし、そもそも人前で手を繋ぐなんて恥ずかしいから願ったりのはずなのだけど。
扉を開けて待ってくれている紡に礼を言って中に入る。
店内に並んだクリーム色の棚には様々な商品が飾られていた。可愛らしいデザインのものが多く、見ているだけで心が弾む。アルバムを探しているのに、つい他のものにも目がいってしまった。
「可愛い、ウミウシのスリッパだって」
「アルバム探すんだろ」
「いいでしょ、ちょっとくらい」
目的のもの以外に目を奪われるちさきに紡が呆れるのも、それにちさきが口を尖らせるのもいつものことだった。
基本は本当にいつも通りなのだ。いつも通りなのに、
「ちさき、あの辺じゃないか」
ふいに肩を叩かれて、びくりとした。
このくらいは今までもあったのに、意識しているせいで大袈裟に反応してしまう。
「あっ、うん……多分、そうだね」
どきまぎする自分を誤魔化したくて、早足で紡が指さした棚に向かう。
この棚に並べられているのはすべてアルバムのようだった。一冊ずつ手にとって見比べてみる。可愛いものも、綺麗なものもあって決めがたい。
それでも時間を忘れるくらい悩んで、花の刺繍が入った布地の表紙のものに決めた。これなら大きさもちょうどいいし、なにより両親の趣味に合うだろう。
「小さいな」
紡が後ろから覗き込んで呟いた。
あまりの声の近さにまた跳び上がりそうになるのを抑えて、ちさきは振り返った。
「そんなに多くないから、これで充分よ」
「そうか。……もっと、撮っておけばよかったな」
紡は目を伏せ、かすかにため息をついた。
ちさきはふっと笑って首を横に振った。
「充分よ。本当に、これ以上なんてないくらい」