今はただそれだけで
「あれ? あんたたちも買い出し?」
「ああ、ペンキが切れたからな」
ちさきたちがサヤマートから造船所に戻る途中の交差点で見かけたのは、狭山と紡だった。あちらも買い出しの帰りらしく、近くのホームセンターの袋を提げていた。
行き先は同じなので、自然と一緒に歩くことになる。偶然にもちさきの隣に紡が並んで、鼓動が速くなった。ついで息苦しさを覚えたが、これはエナが乾いたせいだろう。ちさきはため息をついた。このくらいなら造船所までは保つだろうが、意識しないとみんなから遅れてしまいそうだ。
「エナ、乾いたのか?」
「えっ」
突然紡に顔を覗き込まれて、どきりとする。エナとは別の要因で息が止まりそうだった。
「えっと、このくらいならまだ大丈夫だよ。もう少しで造船所に着く、し……」
平静を装って笑ってみせたその時、急にめまいがしてふらついてしまった。倒れそうになったが、紡が肩を掴んで支えてくれる。その手の大きさに、また心臓が跳ね上がった。
「こいつ、海に連れてくから先に行ってて」
紡は前を歩く狭山を呼び止めて袋を預けた。
「大丈夫か?」と焦ったような声色で狭山に心配され、清木と秋吉にも「気付かなくてごめんね」「あとは私たちが持ってくから」と気遣われる。「大丈夫だから」と返したが、あまりそうは見えなかったかもしれない。断る間もなく、買い物袋を清木たちに渡されて、紡に支えられながら海に向かうことになった。
海に浸かると、ようやく息ができた気がした。エナが潤って、どんどん身体が楽になっていく。
地上で過ごすことにも慣れたはずだったが、油断した。手伝いのつもりで、迷惑をかけてしまうなんて。あとでみんなに謝らなければ。
ちさきは海面から顔をだして立ち上がり、岩場に座る紡を見上げた。
「ありがとう。迷惑かけてごめんね」
「べつに迷惑なんて思ってない」
夕陽に照らされた紡の顔にはわずかな変化ながら、確かにこちらを案じる色があった。
去年、同じように助けてもらった時のことを思い出して、ちさきは少しだけ笑った。
「去年も同じようなことがあったね」
「そうだったな」
あの時は本気で大嫌いだと思ったのに、今ではこんなにもあたたかな気持ちになるなんて。
この気持ちをどうしたいのか、答えは今もでていない。
伝えたいのか、伝えたくないのか。実らせたいのか、実らせたくないのか。
けれど、一つだけ確かなことはあった。
「紡くんも悩みがあるなら言ってね。その時は、私が紡くんのウミウシになるから」
せめて、この人の優しさに報いたい。
******
穏やかな夕凪のような瞳が見つめてくる。それは、今ちょうど目の前に広がる海とよく似ていた。
はじめて彼女を海のようだと思った時も、こんなふうに夕陽に染まっていた。あの時は今と違ってもっと荒々しかったが、どちらも憧れ焦がれた海だった。
その瞬間、理解した。この想いが正しいかどうかはわからない。だが、たとえ正しくなかったとしても、もうなかったものとして生きていくことなどできないし、したくない。
気付いた時には、海に入ってちさきの手を掴んでいた。
「好きだ」
「えっ……」
「俺は、あんたが好きだ」
海のような瞳が見開かれる。それがさざ波のように揺れたかと思うと、涙が零れ落ちて、紡は怯んで手を離した。受け入れられるなんて自惚れたことは考えてなかったが、まさか泣かれるほどとも思っていなかった。
「悪い、泣かせるつもりじゃ」
「違うの」
首を横に振り、今度はちさきが紡の手を掴んだ。
「嬉しかったの。私も、紡くんのことが好きだから」
ぎゅっと紡の手を握って、ちさきは満ち足りたように微笑んだ。拭うことも忘れた涙が夕陽に煌めく。
それがあまりにも綺麗で、突き動かされるように紡はちさきを引き寄せて抱き締めた。おずおずとちさきも紡の背に腕を回してきて、柔らかな身体や速くなった鼓動が重なるようにより近くなる。
この想いが正しいのか、これからどうしたいのか、そんなものはわからない。だが、今はただこうして互いの想いを、存在を感じていたかった。
→あとがき